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2014年1月29日水曜日

孤独な散歩者の夢想?

 

退職後、非常勤講師として学部学生向きの講義を2コマ担当させて頂いた。
私の後任の教授は、2013年4月の時点では決定されておらず、6か月ルール*により私の旧研究室は空いたままであった。

その理由で、厚かましいとは思ったが非常勤講師室として、ウイークデーの午前中を使わせて頂いた。
お蔭で研究室内で、外国人研究者とのメールでの対応や論文作成やインターネットによる資料検索は、退職前とかわらず可能でした。
国際学会の講演準備も問題なくこなせたので、退職による研究環境の悪化の始まりに思いは至らなかった。

*人件費削減のため、その退官ポストでの人事は6か月間は決められない。

今思えば、その間6か月も旧研究室を使わして頂けたのは本当に有難いことで、所属していた応用数学の先生方や事務職員の方には感謝の念しかない。
ここに書くのもおかしいが、皆さんありがとう。

気楽なもので、講義のない午後は、趣味の読書数学の研究をしていました。講義以外の業務はなく、ず~と仕事に追いまくられてきた過去を思うと今は極楽と思えました。
好きなことをする時間はたっぷりあると、世界が明るくなったような気がしていた。

年とともに頭の回転が悪くなり、計算ミスは増える一方だが、な~に時間はたっぷりある。
そんなものはカバーできる。 まだまだ最前線に近いところで、研究ができる。

と浅はかにも考えていたし、ある程度はそれが出来ていた(と信じていた)。
たとえば、学会にProceedings原稿をアップするのだって、面倒だったけど何とか自分一人でできた。
これからが、新な研究に向かっての第二の挑戦だと思ってもいた。

しかし、物事は思った方向へは行かない

退職で失ったのは社会生活と賃金、得たのは自由と時間で、後者のほうが貴重と信じていた。
これは長年宮仕えしてきた私の錯覚であり、そうではないのだ。
兼ね合いのほうが大事で、社会生活なくしては自由も時間もその輝きを失う。
定年後半年は、非常勤や国際学会出席や学会役員の仕事があったので、意識にはあがらなかったがその頃は一応社会生活を営んでいたのだ。

退職後半年たって今や、些細な仕事を除けば、私には社会生活と言い得るものはない。 
Journal のEditorや MathRevのReviewerを降りたのは、自分から社会生活からの引退を宣言していることなのが理解できてなかった。
そんな当たり前の事に気付かなかったのは、うかつな私の性格による。

9月末で非常勤の任用期限が切れたので、旧研究室には通わなくなった。

ある程度自宅でも研究できるように準備はしていたが、実際始めてみると、
(1)インターネット環境が整わず、さらには(2)必要な参考書がすぐに見つからない、(3)数値実験ができない、(4)文献の入手が困難等々の問題が続出する。

少し詳しくいうと:

(1) 住んでいる場所の電波状況がわるく、Wifiでは常時インターネットに接続できない。
ウイルスソフトをインスツールするだけで丸1日かかる。
必要文献をダウンロードするのに多大の時間がかかる、または途中で接続が切れてしまいできない。文献ゲットの熱意が低下。

(2)私の怠慢のせいであるが、ダンボ-ルに入っている参考書をすべて開けていない。
まだ10箱ちかく部屋に積み上げてある。当座必要な本しか出していない。
記憶のあいまいな結果については、確認できずお手上げ。

(3)数値実験のためのプログラムについては、全て弟子まかせにしていたので(私は指示するだけでプログラム言語は書けない)。
弟子からもらったプログラムは、C++ とかMatLabとかMathematicaで書かれており理解すら不能。完全にお手上げ。

(4) 最近は、インターネット環境が整ってきたので図書館に行く必要は少なくなった。
幸い在任中と同じように図書館検索ができるようになったが、(1)の理由により最新の文献は入手しずらい。
さらには、多くの場合文献ダウンロードは課金されており、退職した私にはそんなお金は支払えない。

工学部の実験系の先生は、退職すれば再就職しない限り、殆ど一人では研究はできないと思う。
その点理論系の場合は、まだましだが、上記の理由でやはり超人的努力を重ねないかぎり現役の研究者として生き残るのは難しい。

(1)-(4)の理由と個人的環境により、手持ちの書籍と文献でしか研究は続けられないのが分かってきた。
最新の成果を発表するためには、最新の研究状況に通暁していなければならない!
そのためには、現役時代以上の熱意とエネルギーが必要だ。

もちろん年をとっても活動的な研究者は、相当数いる。
彼らは、超一流の数学者で、70歳をこえても質の高い論文を量産し80歳になっても論文を発表している。 私の分野でいえば、 R. Temam、A. Friedman、C. Foias、I. Gohberg、亡くなったが、J. L. Lions、J. K. Hale などがそうである。

彼らのようなSuper Starsを考慮に入れるべきでない。
65歳になった、ただの初期高齢者にはそのような負担は大きすぎる。
才能を別にしても、そんなの”おれにできるわけがない!”のである。
もはや数学の研究ではなく、手持ちの材料による趣味の数学しか私にはできないのである。
それさえもいつまで続けられるかわからないのだ。
定年後10か月たって、世界は暗くなったような気がした。

しかしながら、この半年の幸せな錯覚ストレスの消失により私の健康状態は随分と改善される。先月の結果によると、血液検査の全ての数値は正常値の範囲に収まっている。さらには、心臓の冠動脈に18㎜のステントが入っているにも拘わらず、動悸や息切れはしない。2年前を考えると信じられない改善ぶりである。

暗い気持ちで、健康に生きよう!

旧研究室の半分以下の書斎(小部屋)が今の私の方丈庵だ。

2014年1月26日日曜日

定年退職

 

ブログは内容が余程面白くない限り、知人以外誰も読まないそうです。考えてみればそのとうりですね。このブログを読んでくださる方は殆どいないと思いますが、私と似た境遇の方かそのような”迷惑な父親”を持ったかたは、結構おられるのでないかと推測します。そのような方々のために、個人データの一部を転載します。以下の文章は、KTCという神戸大工学部の同窓会誌に載せたものです。
今読み返してみると、自慢話や苦労話の多い嫌味な文章ですね。

定年退官の記念シンポジウムでの講演


定年退職にあたって     
 
大学院システム情報学研究科
システム科学専攻 教授
   中桐 信一      


思えば長い間、神戸大学にお世話になりました。学生時代から換算すると実に46年間もの長さです。
結果的には一本道でありましたが、その途上では紆余曲折があり、何とか最後まで勤めることができたのは幸せな事です。

私は、神戸大の理学部数学科の修士課程を経て、学部共通講座の助手として1973年4月に採用され、村上温夫先生の下で教育研究生活のスタートをきりました。
助手生活の最初の4,5年は苦しいけど充実した研究生活を送りました。
その時期、元副学長の北村新三先生からは、分布系の制御逆問題など工学的な問題の理論的取り扱いの重要性を教えて頂きました。
北村先生との共同の研究発表を1976年イギリスCoventryで開催された第2回IFACシンポジウムで発表し、先生の紹介によりドイツの Stuttgart大学で短期研修を行えたのは、その後の研究の方向を決定する得がたい機会でした。

分布系制御理論の分野ではそれなりの成果は出しており、国際会議でも講演はしていたのですが、数学の出身者としては、私は応用数学を目指す異端者でした。
その事もあり学位取得がかなり難しい状況にありました。
一方、共通講座の教官としては理学博士の取得が望ましく、当時の私にとってはそのハードルは極めて高いものでした。
しかしその事が私の数学力を鍛えることになり、真の数学上の恩師に出会うことができました。1981年10月に学位未取得のまま講師に昇進。
そして学位取得を目指し、大阪大学の田邊研に毎週セミナーに参加し研究発表をおこなう日々が続きました。
偏微分方程式論や函数解析学などは、当時修士程度の一般的知識しかなかったのですが、田邊広城先生の著書を勉強し、また先生に接し様々なご教示を得ることにより、理解はより深まり武器として使いこなせるようになりました。
そして、先生の研究者としての凄さを知り、先生は私の心から尊敬する師になりました。
また当時のセミナーに出席していた若い先生方や修士や大学院の学生からも大きな鼓舞を受けました。今思えば、私が応用数学を志しその実現に向かい切磋琢磨する場がこのセミナーであったと思います。

7年後の1988年に大阪大学から理学博士の学位を授与されました。
内容は、Banach空間における函数微分方程式の構造的な性質に関するもので純粋な数学理論です。
田邊先生は、学位を容易には出さないので有名であっただけに学位取得の喜びは一入でした。
1989年1月に39歳で助教授に昇任し、3 年後の1991年に教授に昇任しました。
助教授の期間が異常に短いのは、前任者の小川枝郎教授が関西学院大に転職されたためです。
時期尚早とは思いましたが、村上先生の薦めに従いました。

それ以降は、遅くにやってきた疾風怒濤の時代でした。
初めてのドクターコースの学生として フィジー国の Jito Vanualailai君、翌年韓国の Ha Junhong 君を引き受けて、制御理論の研究指導を行いました。
研究テーマは、Jito君は非線形系の安定性理論、Ha君は減衰項をもつ双曲型偏微分方程式の最適制御理論でした。
2人ともこの分野を実によく勉強をし、セミナーでの討論をもとに得られた結果を論文に反映させ、水準の高い学位論文を仕上げる事ができました。
彼らの研究指導は、実に大変でしたが面白くもありました。
この時期彼らと共に、連日夜遅くまで議論をしていたのを思い起こします。
また当時助手であった服部元史さんや私の学生と共に花見や遠足をしたのも、実に楽しい思い出として残っています。

彼らは皆偉くなっており、Jito君は南太平洋大学の副研究所長、Ha 君は韓国技術教育大学校の学部長、服部さんは神奈川工科大の教授です。 

一方、学内事情も大きな変化が起こり、工学部改革のため5学科の統合により共通講座は消滅し我々応用数学グループはシステム工学科、後の情報知能工学科に属すことになりました。
また旧教養部からの数学教官が工学部配属になり我々のグループと統合することになります。
その間の事務処理に、私は数学グループ責任者として当たり、毎日続く会議で睡眠不足も重なりへとへとになりました。
さらには移管教官群との軋轢や権力闘争があり心身ともにすり減らす月日を過ごしました。

 しかし研究のほうは順調に進展し、非線形偏微分方程式の最適制御理論の枠組みをJ.L. Lionsの線形最適制御理論をモデルとして構築できました。
さらに非線形函数解析の手法に基づき、変分法および半群理論による立場から制御問題、安定化問題、パラメータ同定問題の理論的および数値解析的研究を行いました。
Jito君、Ha 君に加えて、エジプト人の Mahmoud Elgamal君、中国人の王全芳君、韓国人の Hwang Jinsoo君が私の研究室にドクターコースの学生として加わり、彼らもまた精力的に研究を続けてくれました。
彼らに研究テーマを与え、研究指導をするうちに方程式固有の様々な問題の発見があり、新しいアイデアを用いてその解決を図ることができました。
彼らの協力により多くの成果を挙げることができ、多数の学術論文を出版することができました。

 教授昇進以来の21年間にギリシャ、韓国、スペイン、ポルトガル、台湾、ベトナム、イタリア、ポーランド、カナダ、チュニジア、インドで開かれた国際学会から招待講演の依頼があり様々な研究成果を発表させて頂きました。
特に2010年のインドでの国際学会Mathematics of Dateで、基調講演をさせて頂いたのは光栄でした。
これも途切れることなく科研費が採択されたお蔭だと喜んでいます。数学会においても、2回の特別講演と昨年の企画特別講演をさせて頂き、また函数解析分科会の評議員として活動させて頂いたのは名誉な事でした。

  身体的には、心臓疾患、糖尿病、高血圧をかかえており体調不良ですが、幸いなことに研究すべきテーマは沢山あり、体調の許す限り退職後も何らかの形で研究は続けていきたいと願っています。
 最後に長い間お世話になりましたシステム情報学研究科、工学研究科、そして工学部数学グループの教職員の皆様に、心よりお礼申し上げます。

初投稿

 

初めてブログに投稿します。私は、昨年3月末に神戸大工学部を定年退職しました。その後半年間は、非常勤講師をやっていて生活的には現役時代と殆ど変わりはありませんでした。それどころか、嫌な雑用(実は本務)がなくなり、気分は軽くなり研究の進展も順調でした。6月にクロアチア、8月にマレーシアでの国際学会で講演発表を行いました。しかし昨年10月に非常勤もやめ(首になり)、母親の面倒を見ることを除いては全くの暇人になりました。Reviewとか外国の雑誌から依頼されていた仕事を終えると、差しあたり急ぎの仕事は無くなってしまいました。読みたかった小説とかマンガとか宇宙論の解説本なんかは(購入していたもの)はあらかた読了。読んでいたときは夢中で(つまらんのも結構あったが)、時間をわすれて楽しんでいました。このときは、極楽でした。
文字どうり悠悠自適です。

 
クロアチア ドブロブニク

 
マレーシア ペナン
 

今年1月のカンボジア家族旅行から帰ってから、趣味の研究を再開しましたがとりとめのないことばかりが気になって計算が捗らない。地道に計算しないとアイデアを実現できないのに、成り立つかどうかわからないことを基にして夢想(妄想!)をしてしまう。密かに軽蔑していたタイプの研究者に自分がなってしまっている。退職しているから実害はないのだろうけど、自分の劣化(老化でもある)が悲しい。老いたMad Scientist とは、このような精神状態をいうのかとみょうに納得する。

カンボジアの記事をインターネットで探していて、偶然ブログの作成ページに行きあたった。
これは、今の劣悪な精神状態を改善するきっかけになるかもしれない。というわけで、
”趣味の研究”が嫌になったときその他情けない状況になったとき、泣き言や勝手な思い付きや感想をかくためにこのブログを利用しようと思ってます。



カンボジア アンコールワット トム トンレサップ湖