カテゴリー(作成中)

2015年3月28日土曜日

SHEN YUN 中国5000年の音楽と踊り

一日一生 という言葉がある。

今日一日を自分の一生の最後の日だと思って、
大切に精一杯、一日を生きる。

という意味ですね。 

ある記事の話。 女子高校生がお腹が痛いといって、病院に行った。 レントゲン検査の結果、盲腸であるとして手術をした。開腹してみると、盲腸ではなく悪性の肉腫が内臓を冒していた。更なる手術はできないとして、彼女を家に帰した。医師は、家族にあと数か月もしくは1年以内に死ぬかもしれないと告げた。彼女は、生きる気力を失わず闘病し1年半を生きた。明るいとても可愛い娘さんだったそうだ。 毎日、 一日一生を懸命に生きた。
そして娘が亡くなった日、母親は言った。
「あんなに頑張ったのに、ひどいね。神様っているのかしら。」

この記事を読んで言葉がありません。おそらく神様はいません。と、神社の記事ばかり書いている私は思う。 

命短し恋せよ乙女

こんな言葉しか思い浮かばぬ。

湿っぽい話になるのは嫌なので、今回は美しき乙女の舞踏ショーを紹介したい。 

美しさは、若い女性のためにある。

先日三宮に出かけたときに、SHEN YUN の日本公演の宣伝をしていた。 そこで、女性の宣伝員の方から、話を伺いパンフやプロモーションDVDを頂いた。大変面白そうである。 

そこで、このショーの紹介をしたいと思って、この記事を書くのである。 まず、ホームページのこの動画(予告ビデオ)を見てください。 神韻2015日本公演

日本公演の劇場、日程はこうなっている。 チケットは、もう売り切れているかもしれないね。

兵庫県立芸術文化センター
KOBELCO大ホール
〒663-8204
兵庫県西宮市高松町2-22
阪急電鉄神戸線「西宮北口駅」より南へ徒歩2分
JR「西宮駅」より北東へ徒歩15分
       公演

そのちらし。



キャチコピーは、

目を見張るような旅への誘い

五千年の神伝文化に思いをはせて

であります。



パンフ。


これが、頂いたプロモーションDVDです。


早速見てみましたが、予告ビデオとほぼ同様でした。内容は、もう少し豊富ですが。著作権の関係で、いかに宣伝とはいえ残念ですがアップできません。



一生に一度は、見るべき舞台とあります。

純粋で美しく、気品あふれる世界。
正義が貫かれ、伝説が現実になる世界。

を描いているのである。 その公演宣伝動画をどうぞ。


近日公演なので、余り画像は公開できない。 実物を見るに如かずです。

今回はこれでおしまい。

辻井 喬 あすへの話題 II

辻井 喬 あすへの話題  の2回目。

ほおずき



驟雨が過ぎ去った草むらに、ほおずきの赤い実を発見した時の驚きを、昔の人は鬼灯と書いて表現した。

 江口夏実(えぐちなつみ)作の漫画 『鬼灯の冷徹』の主人公 鬼灯です。文字通りですね。しかし、心にはもある。 アニメにもなっている。 TVアニメ『鬼灯の冷徹』公式サイト
 
 
人間には誰の中にもの要素との要素があるのだが、この反対概念のあいだに生れる緊張がを生み出し得たのは、いつのころまでの事だったのか。

時代設定といい、このキャラにぴったりの言葉ですね。

・・・ 人間の美しさとは、内部に持っている二律背反を、通念やあきらめや惰性によってないまぜにせず、あくまでそれを矛盾として認めつつ、主体における統一を追求してやまない場合に生まれる緊張を指すのであろう。

年老いた鬼

耳の痛い言葉であるが、抽象的に書きすぎと思える。主体における統一なんて土台無理だし、多くの人間にとって、惰性によってないまぜにするしか他ないんでないの。従って、人間の美しさなんてのは、殆ど生まれないのである。若くてもそうだし、年取れば一層そうである。老人は大抵美しくないのである。


花火



闇に菊の大輪が開いてたちまち消える。

花火については、この記事を見て頂ければうれしい。  Fireworks 花火


どこの国の歴史を見ても、体制が変わってから振り返ると、過去の社会の中に必ず新しい時代をになうべき理論や運動が用意されている。ただ、そうした言動は先見性のゆえに同時代の人々には理解されない。しばしば、逆心を抱く者として処刑されている。闇に咲いた花火のように、先駆者の生涯ははかなく短い。

例として、吉田松陰などが挙げられるかと思えばさにあらず。 安藤昌益


 (Wiki 安藤昌益 ) お言葉:「慈不慈の法教(こしらえおしえ)無ければ、子の慈愛に溺るる父も無くまた子を悪む父母も無し。」

石田梅巌なのである。


 (Wiki 石田 梅岩 )  お言葉: 「学問とは心を尽くし性を知る

私も名前だけは聞き知っていたが、詳しいことは何も知らなかった。やはり、文化人というか教養人として差が表れるのである。

 堤清二は、密かに実業人として、自分のことをそのような先駆者と思っていたのではないか。そうだとしたら、やはり辻井 喬に嫌味なものを感じてしまうのである。亡くなった作家にこんな事を言うのはおかしいのだが。


夾竹桃



どこへ行っても夾竹桃の花があった。

花弁は、昔、退紅色と呼んだ桃色の勝った紅で、街道筋の土塀に沿ったり、・・・
たくましい夏にあらがっているような、さからっているうちに自らも激しく燃えてしまったような美しい残酷さで咲いている。

文学的な文章ですね。 我々は、美しき残酷な世界に住んでいるのである。 その象徴が夾竹桃。 by 進撃の巨人



美しき残酷な世界

演芸家は、良く知っているが、夾竹桃には、毒性がある。 私は知らんかった。 Wikiの記事より。

キョウチクトウは優れた園芸植物ではあるが、強い経口毒性があり、野外活動の際に調理に用いたり、家畜が食べたりしないよう注意が必要である。花、葉、枝、根、果実すべての部分と、周辺の土壌にも毒性がある。生木を燃した煙も毒。腐葉土にしても1年間は毒性が残るため、腐葉土にする際にも注意を要する。

中毒症状は、嘔気・嘔吐(100%)、四肢脱力(84%)、倦怠感(83%)、下痢(77%)、非回転性めまい(66%)、腹痛(57%)などである。 治療法はジギタリス中毒と同様である。

ということなので、まさか食べはしないだろうが、腐葉土にしてはダメです。この土を花にかけると、その花は枯れてしまうかもしれぬ。だから、お庭に夾竹桃を植えるときは注意すること。

実際にフランスで死亡事故もある。1975年バーベキュー中に7人の男女が死亡した。夾竹桃の枝を串焼きの串にして使用したためである。原因は、植物に含まれる「オレアンドリン」という有毒成分。決して串やはしには使わない様に。
脳細胞にこのように影響する(そうだ)


ヴァレリーの墓のある南仏のセット市のあたりでは、子供たちが進学試験に合格した時、月桂樹でなく夾竹桃の枝を輪にして飾るのだ、という話を聞いた。

こういう薀蓄話を聞くと、画像を探したくなるという悪い癖がある。

ヴァレリーの墓

夾竹桃の冠は見当たらず。代わりに月桂樹の冠。


 

鈴虫



鈴虫の声は、長いあいだ聞く人もなかったので、あんなに澄んでしまったのだ、という話がある。

私としては、当然鈴虫の鳴き声を聞いてみるのである。


鈴虫の鳴き声1

薄暗がりで、黒い鳥のような翅を擦り合わせて鳴く小さな虫の声は、生き物の孤独に支えられていて幾分か寂しげである。

澄んだ響くような声ですね。文章通り生き物の孤独に支えられた虫の声と思える。

ここで、ヘッセの言葉。

人生とは孤独であることだ。


しかしながら、こんな大合唱もあるのです。


「スズムシ」の大合奏 (鈴虫の鳴き声)

こうなると、孤独どころではなく、却ってうるさいですな。しかし、煩わしくはない。


風立ちぬ


風立ちぬ、 いざ生きめやも

というフレーズを冒頭に掲げた作品を堀辰夫が書いたのは、彼が32歳のとき、宿あの
結核療養のために信濃追分に滞在していたころのことであった。


堀 辰雄(ほり たつお、1904年(明治37年)12月28日 - 1953年(昭和28年)5月28日)

日本の小説家。
それまで私小説的となっていた日本の小説の流れの中に、意識的にフィクションによる「作りもの」としてのロマン(西洋流の小説)という文学形式を確立しようとした。フランス文学の心理主義を積極的に取り入れ、日本の古典や王朝女流文学にも新しい生命を見出し、それらを融合させることによって独自の文学世界を創造した。肺結核を病み、軽井沢に療養することも度々あり、そこを舞台にした作品を多く残した。

by Wikipedia

風立ちぬといえば、私にとってはオリジナルより宮崎駿のアニメですね。最後の長編アニメということになっています。 



勿論劇場版で見ました。
評価は、今一みたいだったけど、とても良い作品でした。 純粋に飛行機に対する宮崎駿の愛が溢れていたと思います。それと、テーマソングがいつもながら良いですね。劇場予告の動画をどうぞ。

『風立ちぬ』予告編特別フィルム

これから、どのような風が立つのかは、誰にもわかっていない。ただ、「生きめやも」とは、生きることのむずかしさへの詠嘆の響きを持つことばであったと思い知るだけなのだ。

年を取ってみて、青年期とは違った意味で同感します。著者もそう感じたのでしょう。


コスモス


コスモスが咲いている。コスモスの花びらが一枚一枚散っていく。

コスモスといえば、この画家を思い出してしまう。  コスモス画家 荒木幸史

そして、花が散っていく。 何処へ?  Where have all the flowers gone ?

花はどこへ行った(Where Have All The Flowers Gone?) Peter,Paul&Mary 1962


散ったとき、花弁の切れ込みの鮮やかな八枚の花の姿は地上から消えて、人々の記憶にのみ残こる存在になるのだ。

著者が自分の想いをコスモスに託した美しい文章ですが、自意識過剰ぎみに思える。記憶にも残らぬ存在になるというのが、適切に思えてしまう。やっぱり、功なり名遂げた人とそうでない人との違いかね。僻みっぽくなるのが、老人(私)の悪い癖である。

今回は、これでおしまい。 III につづく。

2015年3月27日金曜日

垂水界隈 海神社と福田川散歩

昨日のことだが、昼から垂水にある息子の店に差し入れを持っていった。 お昼ごはんにカツ丼をご馳走になる予定である。朝からワイフは賄いおばさんで、店の手伝いに出ている。私は、一人家でお留守番であるが、お勉強のほうが文献不足で進まない。大学の図書館にいくのは、金輪際嫌なので、ネット経由では調べきれずに困ってしまうのである。お遊びなら別にかまわぬが、レビューを頼まれているので放置する訳にいかない。頭のほうも劣化しているので、計算とか論理をどうしてもフォローしきれない個所がでてくるのである。細かい条件を忘れてしまっているので、その部分は文献に頼らざるを得ないのだが、その文献入手が困難になっている。時々発狂しそうになる。

気を取り直してやろうとは思うが、生来の逃避心がでてくるのである。それで、気分転換のため(実は嫌な事から逃げるため)、息子の店に遅い昼飯を食べにいったのである。

天気も良いし、外に出ればまた気分も変わるのである。

ということで、垂水周辺の散歩絵日記を始める。 いつものように、神社仏閣めぐりとお花の写真集である。

 
JR垂水駅に着く。駅の南側に海(わたつみ)神社がある。


この神社は、垂水でも有力な神社なので、Wikipediaにもちゃんと記載されている。

海神社
海神社
拝殿
所在地兵庫県神戸市垂水区宮本町5-1
位置北緯34度37分44.7秒
東経135度03分15.5秒
北緯34度37分44.7秒
東経135度03分15.5秒
座標: 北緯34度37分44.7秒 東経135度03分15.5秒
主祭神上津綿津見神
中津綿津見神
底津綿津見神
社格式内名神大社・旧官幣中社・別表神社
創建伝神功皇后朝
本殿の様式三間社流造銅板葺
別名日向大明神
札所等神仏霊場巡拝の道73番(兵庫8番)・播磨三大社
例祭10月11日
 
海神社(わたつみじんじゃ)
 
兵庫県神戸市垂水区宮本町に鎮座する神社である。式内社(名神大社)で、旧社格は官幣中社。伊和神社、粒坐天照神社とともに播磨三大社とされる。
 
 
祭神は、つぎの綿津見神3柱である。
  • 上津綿津見神(うわつわたつみのかみ):海上=航海の神
  • 中津綿津見神(なかつわたつみのかみ):海中=魚(漁業)の神
  • 底津綿津見神(そこつわたつみのかみ):海底=海藻、塩の神
画像は、こんなイラストしか見つからなかった。
 
 
 
また、大日孁貴尊(天照大神のこと)を配祀している。
 
 
神社を見ていこう。
 
大鳥居
 
 

こちらが拝殿へと導く石造りの鳥居。 額には、海神社とある。


石碑。 官幣中社である証。

手水舎である。 こんな所に駐車するな! と思わず言ってしまう。


拝殿。 家内安全と息子の店の繁盛をお祈りしました。10円では、殆ど効なしだろうが。同じく、こんな所に車を停めるなよ!


宝物館があります。中には入っていません。


神社内神社の鳥居です。

お祭りする神は、猿田彦大神蛭子大神稲荷大神の3柱。


こちらが、 猿田彦社稲荷社の鳥居と拝殿。



一緒くたに祀ってある。変な具合である。

従って、狛犬とお狐様が同居している。


さて境内には、七福神の石像が安置されていました。 この神社とどんな関係があるんだろうね。よくわからんが、この神社でえびす祭が毎年1月に開かれるので、その関係からかな?

大黒様

えびす様
 
毘沙門天

弁財天

福禄寿

寿老人

布袋様

という事です。 神社詣りをおわって、JR垂水駅にもどる。 駅前広場に植えられていた花。名前はわからない。



息子の店でカツ丼を食べさせてもらいました。



辺鄙な所にあり、土日以外は午後からのお客は少ないようである。パートのおばさんに給料は払っていない。それどころか交通費も無支給である。おばさん(ワイフ)の無給奉仕である。まだまだ、利潤の見込める安定営業にはほど遠い。当分は辛抱しなければならぬのだろう。

それにしても、若年層の労働環境は悪いですね。まだ息子は自営業で、職があるだけましかもしれぬ。 厳しい時代ですなと、プーの爺さんは一人語ちるのであった。

その後、福田川流域の小散歩。

川には、沢山のボラが泳いでいました。  そして、鴨も。



このようにブロックの上で休んでいる鴨もいる。 福田川について言えば、上流はきれいとは言いかねる。ビニール袋などが、川岸に散乱している。市の方で、清掃して欲しいものだ。



福田川流域にある公園のお花。今や花の写真を撮る事くらいしか、楽しみが無くなってしまったのだ。



清水公園で植えられていたお花。 ここには、多くの種類の花が植えられている。 

パンジーは、満開でした。


以下、見て楽しむだけ。
 






ここから先は、清水公園以外で見つけたお花の写真。 まだ水仙が咲き誇っていました。







綺麗な花を見て、心を和ませて、そしてまた気を取り直して頑張ろう、と思うのであった。

今回はこれでおしまい。