奈良駅は2010年には改装が成って高架化した。駅構内も随分と広くなった。この日はウィークデイで、観光客はあまりいなかったので、閑散とした感じであった。
悪評を乗り越え、今や奈良を代表するゆるキャラになり上がったせんとくん。駅構内にありました。
せんとくんの専用車
駅前にある奈良市総合観光案内所 寺院風の建物で目立っている。
駅からタクシーに乗り、所定の場所に向かった。奈良県総合医療センターである。市内からはかなり離れた場所にある。タクシーで2000円余りであった。
その玄関
個人情報保護のため、この医療センターに来た理由は明かせぬが、無事に目的は果たしたのである。その後、夕食までには充分な時間があったので付近の神社仏閣巡りをしようということになった。私の要望です。それで、センターからバスに乗り、終点の近鉄尼ケ辻で下車。
この駅です。無人駅かと思いきや地下の改札に駅員さんが一人おられた。その駅員さんに天満宮と喜光寺への行き道を教えて頂いた。
駅前の観光案内図。かなり古くてくたびれている。
駅前の石碑。 天満宮の梅のマークがある。菅原 喜光寺 天満宮 道 北 とある。
その道すがらにある、推古天皇陵
推古天皇(すいこてんのう、(554年) - (628年4月15日))
第33代天皇。日本初の女帝であると同時に、東アジア初の女性君主である。
しばらく歩くと、阪奈高速道路に突き当たる。
この橋桁を抜けたところに喜光寺がある。道路奥に見えているお寺がそれである。
お寺の公式サイトはこれ。 奈良喜光寺 公式サイト
基礎情報:
拝観料
- 大人 500円
- 子供 300円(小 中学生)
- 団体 1割引(30名様以上)
- 通常 午前9:00~午後4:30
喜光寺縁起を記した掲示板。
一寸長いが転載する:
当寺は、養老五年(721)天平の僧行基菩薩によって創建された寺である。
この地は、平城京の右京三条三坊にあたり、通称菅原の里といわれ、寺名も菅原寺と呼ばれていた。
行基菩薩は東大寺造営にあたり、この寺の本堂を参考にしたことから、本堂は「大仏殿の試しの堂」としても知られている。
天平二十年(748)、聖武天皇は菅原寺に行幸された折、ご本尊より不思議な光明を感得され、そのことを喜ばれ、「喜光寺」の寺額を与えたという。以後、菅原寺を喜光寺と改名したといわれている。
天平二十一年(749)二月二日、当寺の東南院において行基菩薩は入寂された。遺言により火葬とし、母の墓所のほとりに埋葬された。
その後、喜光寺は広い寺領を所有していたが、平安末期から鎌倉時代にかけて荒廃衰退した。
本堂(金堂)は室町時代初期(1400年頃)に再建され、現在国の重要文化財に指定されている。
ご本尊は、平安時代後期の造像で丈六の阿弥陀如来坐像である。国の重要文化財として信仰されている。
これで喜光寺の歴史はある程度わかったが、一応Wikipediaによる基本情報も記載する。
喜光寺 | |
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本堂(国の重要文化財) | |
所在地 | 奈良県奈良市菅原町508 |
位置 | 北緯34度41分05秒 東経135度46分40秒座標: 北緯34度41分05秒 東経135度46分40秒 |
山号 | 清涼山 |
宗旨 | 法相宗 |
寺格 | 薬師寺別格本山 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
創建年 | 伝・養老5年(721年) |
開基 | 伝・行基 |
札所等 | 大和北部八十八ヶ所霊場 第25番 |
文化財 | 本堂、木造阿弥陀如来坐像(国の重要文化財) |
喜光寺(きこうじ)
奈良県奈良市菅原町にある法相宗の寺院。この一帯が菅原氏の治領であったことから「菅原寺」とも呼ばれる。山号は清涼山。
本尊は阿弥陀如来。奈良時代の僧・行基が没した地とされている。薬師寺の別格本山。
歴史:
奈良時代に架橋、土木工事などの社会事業に携わり、東大寺大仏造立にも貢献した僧・行基が創建したと伝わる。『行基年譜』(安元元年・1175年成立)によれば、菅原寺(喜光寺)は、養老5年(721年)、寺史乙丸なる人物が自らの住居を行基に寄進し、翌養老6年(722年)行基がこれを寺としたものである。
行基(ぎょうき/ぎょうぎ、(668年 - 749年2月23日)
奈良時代の日本の僧。僧侶を国家機関と朝廷が定め仏教の民衆への布教活動を禁じた時代に、禁を破り畿内(近畿)を中心に民衆や豪族など階層を問わず広く仏法の教えを説き人々より篤く崇敬された。また、道場や寺院を多く建立しただけでなく、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所、困窮者のための布施屋9所等の設立など数々の社会事業を各地で成し遂げた。朝廷からは度々弾圧や禁圧されたが、民衆の圧倒的な支持を得てその力を結集して逆境を跳ね返した。その後、大僧正(最高位である大僧正の位は行基が日本で最初)として聖武天皇により奈良の大仏(東大寺)造立の実質上の責任者として招聘された。この功績により東大寺の「四聖」の一人に数えられている。(by Wikipedia)
『続日本紀』によれば、延暦元年(782年)、この地に住んでいた土師氏が桓武天皇から菅原姓を賜ったという。
伝承によれば、聖武天皇が参詣した際に当寺の本尊より不思議な光明が放たれ、これを見た天皇が喜んで、「菅原寺」を改めて「喜光寺」としたという。戦国時代に伽藍のほとんどが兵火により焼失したが、間もなく再建された。
それでは、喜光寺の写真紹介を始めよう。
南大門 2010年に再建されたもの。
南大門の両脇に立つ仁王像。 ネットは鳩が入りこんで巣を作って糞などで像を汚さないためである。
本堂 国の重要文化財だけあって、立派な建造物です。
本尊は阿弥陀仏。 やはり鳩よけのため本堂入り口にもネットが張られている。
境内にあった沢山のハスの鉢植え。このお寺は、行基さんと蓮の寺と呼ばれている。きっと昔は、ハスの池があったのでしょう。その名残かな。
弁天堂 奥に見えるのが、社務所であり写経道場。
会津八一の歌碑
とても私には読めんが、掲示板によるとこのように刻まれている。
ひとり きて かなしむ てら の しろかべ に
きしや の ひびき の ゆき かへり つつ
会津 八一(あいづ やいち、會津八一、1881年8月1日 - 1956年11月21日)
日本の歌人・美術史家・書家。雅号は、秋艸道人、渾斎。1951年に新潟市名誉市民。
喜光寺不動
石仏群
南大門と本堂
これでおしまい。
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