父が死んで5年になる。
母親が、命日には早いがお墓まいりに行きたいという。
足が覚束なくなっているので、出来るだけ早い機会に出かけようと約束する。
はた迷惑で我がまま親父であった。
買うのほうは不明だが、飲む、打つの2拍子の揃った大正の男であった。
アルコールが入ると独演会をやらかす。 しかも壊れた蓄音機。
場所をわきまえない。 酔って醜態をさらすが、本人はそう思っていない。
(ちなみに、この写真は 大正男のダンディ さを示したもので、親父はいません。)
ばくち(競輪)をするために、全国を行脚する。
周りの我々(母と3人の子供)はたまったものではなかった。
受けた被害については多々あるが、ここでは書きたくない。
母親の内職である裁縫(呉服屋さんに頼まれて、着物を縫うこと)による収入で、
貧しいがなんとか人並みの生活が送れてきたのだ。
反面教師で、我々3人の兄妹は皆真面目な生活者になった。 これは良かった。
母親を除いては、長男の私が一番の被害者だった。
父子の確執は当然存在したが、
私が結婚し子供ができたころからは好々爺になりつつあった。
孫の面倒を見てくれたのだ。 しかし激しい性格は変わらなかった。
本質は、気の小さい優しい人だったと思う。
そうでないと、最後まで母は添い遂げられなかったろう。
肺ガンが背骨まで転移していたが、死ぬ寸前までニコチン中毒であった。
痛みには辛抱強い人であったが、死ぬほどの激痛やで とよく言っていた。
今、本当に痛かったんだろうなと思い、不意に涙が出てきた。
タバコを吸いに、病院の外まで車椅子を押していったのを思い出した。
最後は、ホスピスに入りそれほど苦しまずに亡くなった。
戦争から帰ってからは、好き放題に生きてきたので別に思い残すことはなかったと信じたい。
自称 日曜画家 で、そのような名刺を作ったのも知っている。
しかし、傍から見ると ギャンブル依存症 でしかなく、
家で絵を書いている事など、私が子供の時以来成人してからは一遍もない。
苦しくって描けないようだが、怠けているだけにしか見えない。
美術理論なんて描かない以上クソでしかないのに。
アトリエに使っていた部屋には、大量の美術雑誌と油絵の道具が残されていた。
引き取ってくれる人も場所もないので、それらは大部分ゴミとして処分した。
油絵具や画具の一部は、弟が形見として引き取ってくれた。
釣りが趣味だったので、竹製の釣竿などもあったが、
それらは全て同じ趣味の叔父さんに貰って頂いた。
欲しいものは何もなかったので、私の手元に残したのはほんの少しだけだ。
親父が常日頃使っていた腕時計だ。
安物だが捨てるに忍びなく、置時計として使っている。
1週間ほど前に、止まった。 都合5年間もった。 長い記憶だ。
電池を新しいものに変え今も使っている。
親父は、阪神電気鉄道株式会社に勤めていた。
本線(今の阪神線)でなく、第2国道のちんちん電車の車掌を長年務めていた。
阪神電鉄の徽章と、おそらく車両の開け閉めかなにかに使うカギであろう。
25年間の記憶として残したかったのだろう。
親父の生きがいは絵を描くことだった。
画家として生きるのが夢だったが、才能も画業についやすべき時間もなかった。
乏しい給与の中から、絵具や色んな絵筆、画布、パレットを買っては、
絵を描いたような気になって自己満足をしていた。
これは、スケッチ用の鉛筆を削る肥後守やナイフ、木炭の先を尖らせるためのナイフだ。
キャンバスも自前で作っていた。
これは、その木組みに釘を打ち込むための金鎚だ。 用途により異なる金鎚を使う。
画布も自分で作り、ニスを温めて麻布に塗っていたのを思い出す。
今は私の本棚にしてしまっているが、元は隣にあるイーゼルの置場だ。
親父にとっても戦争体験は、思考と存在自体を揺るがす大事件だった。
戦争の悲惨な体験を系統だって説明できない父は、
その思いを1冊の本に託して残した。
表紙と内扉に赤字の 子や孫え との注意書きと共に。
下級の襟章や記章とともに、歩兵操典がある。
中身はこんな具合だ。
親父は、満州には出兵したが、これはその頃のものではない。
親戚の人から頂いて大切にしていたものだ。
親父は、従軍4年 捕虜2年 で終戦後内地に戻ってきた。
こころに デカダンス と 無頼 をかかえて。
根本には、明日のことはわからぬ、人生はエンジョイしなければならぬ
という意識が親父には確かにあった。
絵を描きに行くとし称しては、一人で旅にでた。
実際は、物見遊山で飲んだくれているだけ。
スケッチはしていたらしく、そのための写真が残されている。
当時としては、珍しいパノラマ写真もある。
これは、屋島だろう。 また明石海峡大橋の建造時の写真もある。
子供たちは、皆成人し家庭を持った。
弟がアメリカに長期出張になり、3週間ほど親父にとり初めての海外旅行をすることになった。
母も同伴の、ニューヨーク、カナダ側のナイヤガラの滝を見物する旅行だった。
私も旅行の補佐としてついていったが、親父のわがままに振り回された日々だった。
帰りは、ハワイによってパールハーバーを見学した。
母が書いてあるように、目出たく やっと終わったのだ。 苦痛の旅であった。
親父は、70歳過ぎても元気な道理を弁えない不良老年だった。
8年後に、弟がフランスに家族とともに駐在することになった。
その機会にと、弟が親父にフランスに来るようにと誘ってくれた。 兄と違い、親孝行な弟だ。
親父は大喜びだが、私と母はもうこりごりだったので、
憧れのパリへは親父一人で行ってもらうことにした。
弟にロンドンを始めいろんな処につれていってもらったようだ。
これは、ロンドンからの絵葉書だ。
長年の望みである、ルーブル美術館で印象派の絵画をその目で見たので
もう満足したのだろう。
日本に帰ってきてからは、ルーブル美術館のことは余り言わなくなった。
朱印帖も6冊残されていた。
これからは、夫婦2人で仲良く旅行している様子が伺われ微笑ましい。
これらが、親父の遺品の全てだ。
親父のことを今更に思う。
なぜ70歳をすぎても突如激しい荒れた言動をするのか?
その理由は、殆どアルコールのせいだと思っていた。
しかし、私も老年になり、親父が荒れていた理由の1つは分かるようにおもう。
戦争体験や、自分の望みが叶えられなかったという鬱屈もあるだろうが、
妻や子供たちが反目して自分が孤独であるという悲しみだ。
思いを分かってくれる人は誰もいないという淋しさだ。
よれよれぼろぼろになりながら、あなたは最後まで家族を守り抜きました。
親父よ、ありがとう。