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2014年7月26日土曜日

明石散歩+淡路島岩屋散歩 I

 

体調が悪く、病院に行った時以外は3日間自宅で寝ていた。 ようやく、元気が出てきたので趣味のブログ書きを再開することにした。 途中まで書いていた下書きの記事の続きを書く事にする。

下書きの記事:

試験とレポートの採点も終わったので、運動不足解消のため長距離散歩にでようと思ったのだ。
余り動かない生活をしているため、体重が増加の一途をたどっている。 由々しき事である。 
(追記:その後いっぺんに2㎏痩せた。) 

それで、明石を1日かけて散策しようと思ったのだ。 若い頃は、親父と一緒に海釣りにいくため、
また子供ができてからは、行楽の待ち合わせ場所としてよく遊びに行ってたのだ。


昼過ぎに自宅を出て、JR六甲道から途中垂水駅で下車してから、明石駅へ向かう。 



明石駅の南側に明石公園が広がっていて、明石城武蔵の庭園剛ノ池、競技場、球場、テニスコート、子どもの村などが園内にある。


公園の入り口には案内掲示板があり、その横手には中部幾次郎翁の銅像である。
この方は、太洋漁業株式会社の創業者で明石市の出身である。 



いつもの如く Wikipedia  によると、

中部 幾次郎(なかべ いくじろう)

生誕1866年2月18日(旧暦慶応2年1月4日)
播磨国明石郡林村
死没1946年(昭和21年)5月19日
職業実業家・政治家
子供中部兼市・中部謙吉・中部利三郎

 
明治から昭和初期(1900年代後半~1940年代前半)の実業家。林兼商店(後の大洋漁業、現在のマルハニチロの前身の一つ)創業者。
1924年(大正13年)に大洋漁業の前身となる林兼商店を創立。
漁業のほか、水産物加工、海運、造船などの経営に進出し、一大企業グループを作り上げた。1930年(昭和5年)から1943年(昭和18年)まで下関商工会議所会頭。1946年(昭和21年)勅選貴族院議員となる。

かっての財界の雄である。 例えば、中部 幾次郎 を参照。 

記事を読んでみて、へ~と思ったのは、 現役の時にかって訪問したことのある神奈川工科大学 が、幾次郎の次男・謙吉が大洋漁業社長時代に創立した幾徳工業高等専門学校を母体とした大学であったことだ。 この大学は、自動車関係と情報工学の強い大学とは認識していたが、捕鯨のマルハと関係があったとはついぞ知らんかった(いつものセリフだが)。

明石公園のパンフです。入場は無料。


かなり広大な公園で、日本の都市公園100選の地 に選ばれている。

裏面が公園のマップになっている。 この公園内を熱い中、ぐるぐる散歩したのである。

 
Wikipedia によるデータは、つぎの通り。
 
明石公園
Akashi Castle09n4592.jpg
桜堀
所在地
日本の旗 日本
兵庫県明石市明石公園
北緯34度39分24.13秒 東経134度59分38.06秒 /
 北緯34.6567028度 東経134.9939056度 / 34.6567028; 134.9939056座標: 北緯34度39分24.13秒 東経134度59分38.06秒 /
 北緯34.6567028度 東経134.9939056度 / 34.6567028; 134.9939056
分類都市公園(広域公園)
前身明石城
開園1918年4月15日
運営者公益財団法人兵庫県園芸・公園協会
事務所兵庫県立明石公園事務所
事務所所在地明石市明石公園1-27
公式サイト明石公園

兵庫県立明石公園(ひょうごけんりつあかしこうえん)
兵庫県明石市にある兵庫県立の都市公園(広域公園)である。

公園に関する詳しい情報は、公式サイト 明石公園 にある。

ここから再開:

それで、公園中を熱い最中歩き回って写した写真や感じたことを書くことが目的である。

公園の正面入り口である。対面は石垣になっている。
平日にも拘わらず家族づれが結構沢山いた。 もう夏休みに入っているのであった。


お堀には、噴水が設えてある。 



この日は、白鳥がけだるく(気高くでなく)堀に浮かんでいたのだ。


公園に入ると目の前に明石城の2つの櫓が見える。


左側が 坤櫓(ひつじさるやぐら)で右側が 巽櫓(たつみやぐら)である。 

ここで、明石城(日本100名城のひとつ)のお勉強をする。
Wikipedia によると、

logo
明石城
(兵庫県)
坤櫓(左)と巽櫓(右)
坤櫓(左)と巽櫓(右)
別名喜春城、錦江城
城郭構造連郭梯郭混合式平山城
天守構造なし(天守台はあり)
築城主小笠原忠真
築城年1618年(元和4年)
主な改修者松平直常
主な城主松平氏(越前系)
廃城年1874年(明治7年)
遺構櫓、石垣、堀、移築門
指定文化財国の重要文化財巽櫓・坤櫓)、国の史跡
再建造物
位置北緯34度39分10.07秒
東経134度59分30.47秒


明石城は、徳川家康の曾孫で明石、三木、加古、加東の四郡10万石を領した小笠原忠真が将軍家と姫路藩本多家の強い支援をうけて築いた城である。

100名城のスタンプはこれ。



阪神・淡路大震災後の復旧の記録としてのパンフが発行されている。
中央にあるのが、明石城絵図である。




パンフには、明石城の歴史、櫓の概要、修復の経緯などが説明されている。



これによると、江戸時代の築城後最も大きな被害を受けたのが、阪神・淡路大震災時であった。
その修復は、伝統的工法による学術的な検証を加えながらの慎重な工事によりなされたという。
震災直後の2つの櫓の写真が載せられている。壁は崩れたものの櫓自体は倒壊していない。
 

坤櫓を石垣から写したものである。

こちらは、巽櫓を本丸から写したものである。


櫓の公開は、土、日、祝日のみで、この日は平日なので見学できず。

公式ホームページによると、明石城には天守閣はなく本丸の四隅三層の隅櫓でかためたものという。 それで、干支の名前のうち二つづつが櫓の名前に振られているのである。

四隅櫓は、このようになっていた。



天守は無いが本丸の四隅に三重櫓4基が設けられていた。

それで、残りの櫓はどうなっているか気になったのであるが、こうであった。


残り1つのうち艮櫓(うしとらやぐら)については分かったが、最期の1つはどんな名前が付けられているのかとの疑問が残った。 それで調べてみたが、すぐには分からない。
櫓の建つ位置・方位に由来する名称が付けられた櫓であることはわかった。


 
この方位図によると、戍亥(いぬい)櫓だと予想できる。 
困ったときの Wikipedia で調べると、戍亥(いぬい)櫓の記事はない。なぜだ?
そこで、Google 検索するとちゃんと存在していた。熊本城には戍亥櫓がある。
再び 明石城戍亥櫓 で検索すると出てきた。正しくは、乾(いぬい)櫓と書くそうである。 
 
忍者かすこばの旅行帳 明石城 を参照させて頂いた。
 
1901年(明治34年)宮内省京都事務所によって痛みの激しい本丸・二ノ丸土塀の取り壊し、
本丸乾(いぬい)櫓破却、巽(たつみ)櫓と坤(ひつじさる)櫓の大修理工事が行われた。

これで、四隅櫓の名の探究は終わった。 さて、二ノ丸、東ノ丸を経て薬研堀にでる。

(二の丸)

堀向かいの石垣ぞいの小道がこれだ。 ここから、桜堀へ向かう。


堀の傍に建てられてある休憩所で一休み。涼しくて気持ちがいい。しかし、やぶ蚊が多い。
 
 
この桜堀へ至る散策コースはなかなか良い。
堀には沢山の亀が浮かんでいる。アカミミガメ(幼生名:ミドリガメ)である。
100匹以上集まっている。  日本の侵略的外来種ワースト100 
 

桜堀から散策路を少し歩くと、花と緑のまちづくりセンターにでる。


その目前が剛ノ池である。 大昔だが、子供達を白鳥のボートにのせて池を一周したものである。



剛ノ池 から テニスコートを抜け、第二野球場を横手にみて子どもの村を一周する。
 
 
さらに、県立図書館や私立図書館のあるエリアを通って再び薬研堀にでる。
 
 
そして、東ノ丸、二ノ丸と逆コースを辿って西芝生広場にでる。
 
暑くてかなりへばったが、喫茶パルコで一休みしたのち、目的の1つ武蔵の庭園見学をする。
 
パンフは、これである。
 
 
明石城武蔵の庭園 (明石市広報のホームページより)

池泉回遊式の日本庭園。2003年11月2日から一般公開。茶室は2004年3月27日に完成。 かつて宮本武蔵作と伝えられる庭園や建物が現在の陸上競技場付近にあった。今回の庭園はそれより
東に離れたところにある乙女池周辺を整備して造られている。

門構えは、これです。

お茶屋や、泉水、築山はこのような風情である。

 
落差1mの雌滝
 

まあ、普通の庭園である。特に武蔵だから凄いというのは全くない。

かくして、明石公園散策はおわる。 
しかし、明石の魚の棚見物や淡路島の岩屋まで足を延ばしたことはまだ報告していない。 
これは、次回廻しにして、今回の散歩で出会った花たちの写真を見ていこう。
例によって、同定できる種類は多くないので、花の名前は書かない。 見目麗しければよいのだ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
公園内には、においの花園があったので、色んな種類の花の写真を撮ることができた。
幸運であった。 
 
明石散歩+淡路島岩屋散歩 II につづく。 

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