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2015年7月10日金曜日

河鍋暁斎

今回は、「画鬼」 狂斎こと、河鍋暁斎を紹介したい。幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師である。あらゆるジャンルの絵を描きつくしたといわれる絵師で、画題は実に多岐にわたる。私が注目したのは、趣味を通してだが、妖怪とか骸骨だとかを描く画家としてである。 その骸骨絵とか妖怪絵は、このブログ記事でも引用している。
 

河鍋暁斎  美女の袖を引く骸骨たち
 
髑髏と蜥蜴
 
一休地獄太夫
 
河鍋暁斎 骸骨図




骸骨の休日」 


これらの絵でも伺われるように、骸骨の骨格は実に正確に描かれているのである。並みの描写力ではない。
 
 

河鍋暁斎画『狂斎百図』より「佐渡国同三狸」。
人間の商人を相手に金貸しを営む団三郎狸(左上)。

同じ事は、擬人化した動物を描くときにも言える。動物の仕草も、的確に描かれている。
 
 
 河鍋暁斎画『船頭と船幽霊』。

今回は、骸骨画と幽霊絵だけでなく画業全体の紹介をしたい。

絵を描くことと生きることがほぼ完全に重なってしまい、狂ったように膨大な絵を書き続けた浮世絵師といえば、葛飾北斎だが、彼と並ぶほどの反骨の画「狂人」が河鍋暁斎である。

 
毎度のワンパターンで相済まぬが、Wikipediaから彼の記事を引用する。
 
河鍋 暁斎
     

長唄の会 番組「連獅子」より
 
河鍋 暁斎(かわなべ きょうさい) 
天保2年4月7日〈1831年5月18日〉 - 明治22年〈1889年〉4月26日)

幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師、日本画家。号は「ぎょうさい」とは読まず「きょうさい」と読む。それ以前の「狂斎」の号の「狂」を「暁」に改めたものである。明治3年(1870年)に筆禍事件で捕えられたこともあるほどの反骨精神の持ち主で、多くの戯画や風刺画を残している。狩野派の流れを受けているが、他の流派・画法も貪欲に取り入れ、自らを「画鬼」と称した。その筆力・写生力は群を抜いており、海外でも高く評価されている。


「閻魔と地獄太夫図」 制作時期不明 プライスコレクション 河鍋暁斎記念美術館にもほぼ同図様の作品がある


ここには、詳しい来歴が書かれている。 Wiki:河鍋 暁斎

若い時に浮世絵師歌川国芳にまなび、さらには狩野派の絵師にも再入門してその技法をまなぶなど、自らの絵を描くためには貪欲に他の流派や画法を取り入れている。

調べて見るまで、知らなかったのだが、河鍋 暁斎の曾孫が設立した個人美術館がある。そのホームページ 河鍋 暁斎記念美術館 

この館は、伝来の下絵・画稿類を中心に3000点余を所蔵し、1,2ヶ月毎にテーマを替えて展示している。その紹介欄に実に適切な暁斎の説明があったので、そのまま引用する。


河鍋暁斎とは
 
河鍋暁斎ほど「浮世絵師」か「狩野派絵師」か、評価の分かれる絵描きはいない、とよくいわれます。
浮世絵狩野派双方の素地を持つ暁斎は、幕末の混沌、明治維新、文明開化と大きく揺れ動いた時代にあっても、縦横に作品を生み出していった、生来の「絵師」でした。
注文とあれば来るもの拒まず、真面目な仏画から顔を背けるような残酷場面、笑いをさそう風刺画まで、あらゆるジャンルを描き尽したのです。
 それは、狩野派、浮世絵に限らず、伝統的な土佐・住吉派、円山四条派、琳派、文人画、中国画、西洋人体図等々、学べるもの全てを嚢中にした暁斎だからこその画業であったといえるでしょう。

西洋人体図の模写などから、骸骨絵が生み出されている。学術的な人体図なので、自ずとその正確さが現れるのである。いい加減な模写ではないのだ。

箇条書きで、その経歴というか評伝を述べる。

・天保2年(1831年)、下総国古河(現茨城県古河市)に生まれる。

・3歳で初めてカエルを描き、7歳で浮世絵師・国芳に入門した。

・10歳で駿河台狩野派の前村洞和、ついでその当主・狩野洞白陳信に学ぶ。

・駿河台狩野派の当主・狩野洞白陳信に学び、
    19歳の若さで「洞郁陳之」(とういく のりゆき)の画号をいただいく。

・修業を終えた幕末の頃は、狩野派絵師として生きることは難しかったことより、
    「狂斎」等の画号で浮世絵、戯画、行灯絵などを描いて糊口をしのいだ。

・1870年(明治3)10月、筆禍事件を起こし、大番屋に捕らえられる。

・1876年(明治9)、フィラデルフィア万国博覧会に肉筆作品を出品する。
    同年来日したフランス人実業家エミール・ギメ
    同伴の画家フェリックス・レガメと交流。

・1881年(明治14)、 第2回内国勧業博覧会へ「枯木寒鴉図」を出品し、
    日本画の最高賞妙技二等賞牌を受賞。


そして公的にも評価されることとなる。 

そして暁斎は、最晩年、ドイツ人医師エルヴィン・ベルツが「日本最大の画家」と評すほどの人気絵師となっていった。

・1889年(明治22)4月26日、胃がんで亡くなる。

全くのコピペだが、亡くなった画家・小説家の赤瀬川原平の書いた、河鍋暁斎記念美術館を巡るエッセイを紹介したい。これまた、画業に対する的確な評価であり、深い指摘がなされている。
 

掛け値なし、絵筆の天才

河鍋暁斎記念美術館 埼玉県蕨市

 
 
やはり骸骨絵から。






 
 
戯画
 
 






錦絵



挿絵

 
日本画





縁起絵
 

絵画の指南書も書いている。挿絵集だね。


化け物絵



 
 宣伝絵
 
 

近代の風物を取り入れた画


 


 
 再び化け物絵

 



 

巨大化け猫に遭遇したところで、今回はおしまい。
 

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