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2015年7月12日日曜日

鳥取城

鳥取、倉吉、由良旅行の番外編である。今回は鳥取城である。我ながら嫌になるが、2週間も前なのに旅行記をまだ全て書き終えていないのである。結局一番楽しみで書きたかった藤田嗣治が、一番後回しになってしまった。これとて、他の書くべき新しい記事があるので、いつの事になるか分からん。しかし、必ず記事にする予定です、と無意味な弁明をしておく。

さて鳥取城である。久松公園に入った時に、石垣の一部を紹介した。これですね。鳥取、倉吉、由良旅行 I
   

今回はもう少し詳しく城址を探っていきたい。と、偉そうなことを書いているが、単なる写真記事です。まずWikipedia による予備知識を入手する。
 
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鳥取城
(鳥取県)
石垣
石垣
別名久松城 久松山城
城郭構造梯郭式平山城および山城
天守構造独立式望楼型3重(1573年頃)
複合式層塔型2層2階地下1階(1605年改)(非現存)
築城主但馬山名氏か?
築城年天文年間(1532年 - 1555年)
主な改修者吉川経家、池田長吉
主な城主山名氏、吉川氏、宮部氏、池田氏
廃城年1871年(明治4年)
遺構石垣、堀、井戸
指定文化財国の史跡
再建造物
位置北緯35度30分36秒 東経134度14分28秒
/ 北緯35.51000度 東経134.24111度 / 35.51000; 134.24111


鳥取城(とっとりじょう)

鳥取県鳥取市(旧・因幡国邑美郡)にある日本の城(山城跡)である。
久松山城ともいわれ、中世城郭として成立、戦国時代には織田信長の家臣であった羽柴秀吉毛利軍との戦いの舞台(中国攻め・鳥取城の兵糧攻め)となる。
江戸時代には鳥取藩池田氏の治下に入り近世城郭に整備された。
現在は天守台、復元城門、石垣、堀、井戸等を残すのみとなっている。


城址から望む市街

はっきり言うと、お城の建物は何一つ残っていず、山城といってもだだっ広くて石垣が残るのみであり、歴史を振り返る縁に欠けているように思う。天守閣が残っていなくとも、見どころのあるお城は多々ある。 古代城跡 鬼ノ城見学 天空の城竹田城と出石城  
それらに比べると如何せん、インパクトは弱い。

せめて、天守閣でも再建してくれんかと思う私であった。この位の建物がないと見栄えがしないね。

復原模型

実際何もないのだ。写して来た城址の写真集を始める。

近世城郭としての鳥取城 の説明がなされている看板が掲げられている。
ここで、薀蓄をコピペするのは面倒だし、その説明は面白くないので略。



これが復元された城門

この石段を通リ抜けて城内に入る。


二の丸の石垣
 
石垣は立派だが、所々に雑木が生えている、というのはどうもね~。廃墟じゃないのだから。
 

石段を上りすがらの仁風閣の景色は良かったので、挿入してみた。


復旧のため、真新しい石垣も使われている。


お左近の手水鉢

 
中央に見える穴の開いた石垣
 
 

鳥取城の基礎を築いた城主池田長吉のころ、その息子長幸の夫人にお左近という侍女がいた。築城における彼女の活躍は目覚ましいものだったという。彼女の手水鉢を石垣に築きこんだところ、難工事だった三階櫓が無事完成したという伝説が残されているそうだ。

(昭和38年に発見され、石垣修理の際、もとの位置に復元されました)

との注釈もある。

再び仁風閣 こうみると、瀟洒な建物ですね。暖炉に通じている煙突がしゃれている。


二の丸に至る石段


ここが二の丸跡。 う~む。何もない広場である。

 

その説明板。

江戸時代には藩主の居館が置かれていたが、居館が三の丸に移ったあとは本丸と呼ばれるようになった(のち再び二の丸の呼称に戻る)。御三階櫓、走櫓、菱櫓などの建物があった。大手の入り口は鉄御門(くろがねごもん)。石黒火事で全焼したあと、御三階櫓と走櫓が再建されたのみで長らく放置されていたが、1844年(弘化元年)に二の丸御殿が再建された。1849年(嘉永2年)には御三階櫓の西方が拡張され、角櫓や登り石垣が建造された。

というような説明がなされている。何もない場所に、御三階櫓、走櫓、菱櫓、二の丸御殿を思い起こすのは私には無理である。

石切場



この場所から、城石を切り出したのである。往年の面影は全く残っていない。


ここから、見どころと称されている天球丸へ向かう道すがらにあった、稲荷社の鳥居。正式の名前はわからぬ。調べればわかるだろうが、大して意味はないのでスルーする。
 

 
そのお狐様
 
 
山上の丸へ向かう石段






山上の丸へは、山道が凄そうなので行きませんでした。代わりに、どっかから見つけてきた画像。



まあ、行かなくっても良かったと安心しました。至る所で似たような風景を見てますもんね。

天球丸巻石垣展望所




 
展望所はこのような芝生の植えられた広場になっている。


天球丸跡の説明板。国指定史跡になっている。


またもや、長いコピペになるが引用しよう。

池田長吉の姉で若桜鬼ヶ城主・山崎家盛の夫人だった天球院が山崎家を去った後に居住していた。三階櫓、御風呂屋御門などの建物があり、池田光政入封後も天球院の居所が存在していたという。享保5年の石黒火事で焼失し、長らく放置されていたが、幕末には不穏な世情を背景にお稽古所が設置された。
近年の石垣復元に伴う発掘調査から、池田長吉による慶長の大改築の際に、宮部時代の石垣をもとにして郭が拡張されたことが明らかになった。
現在のような形になったのは、長吉の後の池田光政の改築によるものと考えられている。
さらに、江戸時代後期には石垣のたわみを防ぐために球面を持つ巻石垣によって石垣下部が補強されたことも明らかになり、巻石垣が復元された。こうした巻石垣は港や河川の工事に用いられるのが主で、城郭の補強に用いられるのは、きわめて珍しい例である。

お分かりであろうか。球面を持つ巻石垣があるので、天球丸と称せられているのではない。天球院様が居住していた故である。私と同じ誤解はしてはならぬのである。

その展望所からの眺め。





巻石垣はこれだが、現在立ち入り禁止。

 

 
復元は完了している。
 
どこにでも、馬鹿な人間はいるのである。 昨年の6月21日のニュース。
 
 鳥取市教委は20日、国史跡・鳥取城跡にある球状の「巻石垣」(高さ約6メートル)が壊されたと発表した。近くの県庁の職員が17日夕、石垣にのぼって石を投げる数人を目撃したという。
 市教委文化財課によると、巻石垣の上部中央の石3個(15~40キロ)と、石垣の間に詰めていた小石約50個がなく、十数メートル下の広場にあった。だれかが抜き取って投げたとみられ、広場の水路の石が数センチずれる被害も確認した。修復に20万~30万円かかる見込み。

その馬鹿に損害賠償すべきです。
 
見ている方は飽きただろうが、その石垣の写真。
 
 



櫓跡の写真

 
菱櫓跡  言わずもがなだが、菱の形をしている。



 
三階櫓跡


そこからの鳥取市内の眺望。


久松山

そして二の丸の眺望再び。

 

石垣の写真ばかりで、面白味がなかったね。 
今回は、これでおしまい。
 

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