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2015年8月13日木曜日

神戸大空襲

戦後70年の終戦記念日にむけて、神戸大空襲の事を記して置きたい。私の親族(母の兄や妹)が経験したのは大阪大空襲である。朝ドラの「ごちそうさん」でも、大阪大空襲の際、街が火に包まれるなか、ヒロイン・め以子(杏)たちが大阪市営地下鉄の心斎橋駅に逃げ込み梅田方面に避難するというシーンがある。これは事実らしい。地下鉄職員の英断だが、いつの時代にも適切な判断を下せる人がいる。

私の母の母親はこの空襲で、倒れてきた電柱に当たり死亡した。母は奉公先が浜寺にあり、空襲からは免れて生き延びた。そういう幸運があって、私や息子や孫が生きている。昨日息子夫婦が孫を連れて、お盆休みに遊びに来てくれた。一頻り孫と遊んで、爺さんは疲れたけれど楽しかった。こういう事ができるのも、命の連鎖がある故である。戦争などという野蛮な行為でその連鎖を断ち切らせてはならぬ。

私は、生まれは尼崎だが人生の大半を神戸で過ごしている。それで、実はあまり詳しくは知らなかった神戸大空襲のことを調べて書きたいと思った。 Wikipediaによる記事。



神戸大空襲



空襲後の神戸

空襲後の神戸湊川地区(ビラの「楠公の霊地」とは楠木正成が祀られる湊川神社を指す)
 
 
神戸大空襲(こうべだいくうしゅう)
 
第二次世界大戦(大東亜戦争)末期にアメリカ軍が繰り返し行った、神戸市およびその周辺地域に対する戦略爆撃・無差別攻撃の総称。特に兵庫区や林田区など西神戸に大きな被害を出した1945年(昭和20年)3月17日と、東神戸および阪神間の町村を壊滅させた同年6月5日の爆撃を指して用いられることが多い。
 
神戸市行財政局 行政監察部 総務課 が、神戸 災害と戦災 資料館 というのをバーチャルに作っており、その概要を知り、被災の実態を見るのに適している。
 
そこから概要を引用する。
 
神戸市域に対する無差別焼夷弾爆撃は、昭和20年2月4日に初めて行われた。これは、それまでの空襲が軍事施設や軍需工場への精密爆撃から焼夷弾による爆撃へと方法を転換するための実験的焼夷弾攻撃であり、林田区、兵庫区一帯および湊東区に投下された。


 
都市に対する無差別焼夷弾爆撃が、3月10日の東京大空襲を皮切りに本格化し、名古屋大阪に引き続き神戸は、3月17日未明の大空襲により、兵庫区、林田区、葺合区を中心とする神戸市の西半分が壊滅した。

 
また、5月11日の空襲では、東灘区にあった航空機工場が目標とされ、爆弾による精密爆撃が行われた。この空襲では、灘区・東灘区が被害を受けた。

 
さらに、6月5日の空襲では、西は垂水区から東は西宮までの広範囲に爆撃され、それまでの空襲で残っていた神戸市の東半分が焦土と化した。
こうして、3月17日、5月11日、6月5日3回の大空襲によってほぼ神戸市域は壊滅した。

 
空襲による現在の神戸市域の被害は、戦災家屋数14万1,983戸、総戦災者数は、罹災者53万858人、死者7,491人、負傷者1万7,014人という大きな惨禍であった。
 

資料館には、
 
 
のページがあり、戦災時の写真や焼夷弾の残骸や鉄兜などの資料写真が多数ある。神戸市民には、是非見て頂ければと思う。
 
ここでは、著作権の保護から免れていると考えられる戦災の画像を何枚かアップする。(問題のある場合はご連絡ください。)
 
神戸港への絨緞爆撃
 

神戸・元町方面


湊川神社周辺

山手通りの市電道
 
焼死体
 
 

 
戦争とは酷いものです。
 
左に見えるのが、新開地の神戸タワー。当時生き残ったが、現在はない。
 
 

 
体験談を1編引用したい。私の母の年代の女性です。
 
 
■ 戦争は絶対イヤです  秋田さん(須磨区)
 
昭和20年の神戸空襲の時は13歳、須磨区須磨浦通4丁目、国鉄須磨駅の少し北の家に住んでいました。
住んでいた家は焼けませんでしたが、離宮道のあたりまですっかり焼け、又、潮見台あたりの焼けた家の木材がカラケシになって家まで飛んできてくすぶったりして、1人で必死に水をかけました。空襲警報の時は、家の廻りに水を撒いて、山陽電車の高架下へ逃げることにしていました。

母と小さい弟妹は縁故疎開で、上の弟は学童疎開でそれぞれ岡山に居り、警防団長をしていた父と、私と2人が神戸に残っていたのです。

空襲で乗物も止まり、焼野原となった街を国鉄の線路を、必死に学校(当時湊川にあった市立第一高女)へ向って歩いていきました。
若宮あたりは、死骸がゴロゴロところがっている。子供が走っている姿のまま枯木のように焼け焦げている。
熱さに水を求めて川までたどりついた死体はブヨブヨになっている。そんな中を人びとが歩いている光景を今も忘れることができません。
誰の死体とも知れず、あと離宮公園に集められ、夜通し焼かれていたと聞きました。

夢多い少女は、ミシンも顕微鏡もある。プールもあると聞いて、市立第一高女に入ったのですが、美しい女教師が教えていた、好きだった英語の授業は1年もしないうちに廃止、プールもなくなり、敵が上陸してきたら、1人が1人殺して死ぬのだと、ナギナタでワラ人形に向って「突き!」の稽古などをする日々となり、このころから警戒警報が多くなり、無我夢中で生きていました。

戦争が終わった時はホッとして、本当にうれしかった。
母や弟妹たちが帰って来て、弟も栄養失調でガリガリに痩せ、シラミをわかせ皮膚病になって帰って来て、家族は揃いました。

もう戦争はイヤです。戦争は、くる日もくる日も怖くて、休まらないのです。

(平成19年8月1日号 広報こうべ 紹介記事 掲載)

大倉山公園記念碑



 

そうです。  戦争は二度と起こしてはならぬ。

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