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2015年8月5日水曜日

福知山城

福知山城見学記である。いくら私が無知蒙昧の徒とはいえ、福知山動物園は知らなかったが、福知山城は知っていたのである。 福知山動物園

といっても、明智光秀が城主だった事位しか知らない。そこで、Wikipediaさまに登場をねがう。

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福知山城
(京都府)
大天守
大天守
別名横山城、臥龍城、八幡城、福智山城、掻上城
城郭構造連郭式平山城
天守構造複合・連結式望楼型(1699年(元禄12年)築)
現在:外観復元(1985年(昭和60年)再)
築城主明智光秀
築城年1579年(天正7年)
主な改修者有馬豊氏
主な城主明智氏、朽木氏
廃城年1873年(明治6年)
遺構曲輪、石垣、井戸、移築番所・門
指定文化財福知山市史跡
再建造物大・小天守・釣鐘門
位置北緯35度17分48.5秒
東経135度7分46.8秒


福知山城(ふくちやまじょう)

京都府福知山市字内記内記一丁目周辺にある日本の城(平山城)跡。江戸時代には福知山藩の居城であった。



隅櫓風城郭建築/福知山市佐藤太清記念美術館


現在のような縄張りは明智光秀がおこなった。
畿内を押さえた織田信長は、豊臣秀吉明智光秀に中国攻めを命じた。
豊臣秀吉は山陽道から進軍したのに対して、明智光秀は山陰道側より入った。
丹波国を平定した明智光秀が築城し、女婿の明智秀満を城主とした。

有名な中国攻めの話ですね。備中高松城水攻め

現在は、福知山城公園として整備され、天守は三重三階の大天守と二重二階の小天守が1986年(昭和61年)に復元された。福知山市郷土資料館の施設となっている。
公園入口には隅櫓風城郭建築様式の福知山市佐藤太清記念美術館がある。
市街地を一望する福知山盆地の中央に突き出た丘陵の先端地にあり、その地形の姿から臥龍城の別名を持つ。
福知山城下町絵図
 
 
 
 
地図で見ると、お城自体は小さいですね。 
 
 
 市中から福知山城を望む。平山城であるが、確かに丘陵の上に建てられている。

 
城跡は、現在城址公園となっていて、ほぼ本丸部分が残されている。 天守台を含む各郭の石垣は野面積みで、明智光秀の築城当時のままの姿を留めている。


という事だ。

この太鼓橋を渡って城内に入る。手前の広場は公園になっていて、駐車場もある。

 


太鼓橋から、隅櫓を望む。城壁を流れる川は法川

橋を渡り、このように舗装された道を登ってゆく。 


この隅櫓風の建物が、福知山市佐藤太清記念美術館である。時間がなかったので、入りませんでした。

福知山城天守閣の案内板

入館料は、大人320円、小人100円である。割安。


郷土資料館では、「丹波福知山手づくり甲冑」展が開かれている。8月1日からで、この日は7月30日だったので、面白そうだが見れるわけがない。


320円支払って、福知山城に入城。

福知山城のパンフ。天守閣が、郷土資料館かつ産業館になっている。
 
明智光秀以降の福知山城主一覧が示されている。お隣は入場券。

入城記念スタンプ

福知山観光協会の発行したパンフがある。明智光秀が扉。四つ折りになっている。

 
この扉を開くと、明智光秀のことがトピック的に書かれている。
ここで、Wikiより明智光秀の記事を要約する。
 
 
明智光秀
Akechi Mituhide.jpg
明智光秀像(本徳寺蔵)
時代戦国時代 - 安土桃山時代
生誕享禄元年(1528年)[注 1]
死没天正10年6月13日(1582年7月2日)
別名通称:十兵衛、惟任日向守
号:咲庵
渾名:キンカ頭、三日天下様
幼名:彦太郎
戒名秀岳院宗光禅定門
前日洲条鉄光秀居士
長存寺殿明窓玄智大禅定門
墓所京都府亀岡市谷性寺、
滋賀県大津市西教寺、
和歌山県伊都郡高野町高野山奥の院
官位従五位下・日向守
主君斎藤道三→朝倉義景→足利義昭→織田信長
氏族源姓土岐氏流明智氏
惟任賜姓
父母父:明智光綱、母:お牧の方
養父:明智光安
兄弟光秀、信教、康秀、あん
正室:煕子(妻木範煕女)
前室・側室があったとの説もあり
光慶、珠(細川忠興正室)
ほか系譜の子女を参照


明智 光秀(あけち みつひで)

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
戦国大名・織田信長に見出されて重臣に取り立てられるが、本能寺の変を起こし信長を暗殺。
直後に中国大返しにより戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れ、落ちていく途中、一説では小栗栖で落ち武者狩りの百姓から致命傷を受け、自害した。
これは光秀信長を討って天下人になってからわずか13日後のことであり、その短い治世は「三日天下」とも言う。
本姓は源氏で、家系は清和源氏の摂津源氏系で、美濃源氏土岐氏支流である明智氏。
妻は妻木煕子。その間には、細川忠興室・珠(洗礼名:ガラシャ)、嫡男・光慶(十五郎)、津田信澄室がいる。
領地では善政を行ったとされ、忌日に祭事を伝える地域(光秀公正辰祭・御霊神社 (福知山市))もある。後世、江戸時代の文楽「絵本太功記」や歌舞伎「時桔梗出世請状」をはじめ、小説・映画・テレビドラマなどでもその人物がとりあげられている。

ということで、周知の人物である。パンフの説明文には、こう書かれている。


 「本能寺の変」で主君・織田信長を討ったことで、逆臣のイメージで語られることも多いですが、連歌や茶道にも造詣の深い教養人であり、丹波などかっての所領においては善政を行っため名君として今も慕われている。また、その政治的手腕は、最先端の教養と知識を備えた人物であったことを物語っています。

とある。流浪のなかで、学問や鉄砲の技術、城攻めの戦略知識を学びつつ自らのものとしていったようである。やはり篠田達明先生によると、

光秀は若い頃から学問を好み、万巻の書をひもといた教養人であった。・・・長い放浪生活の間に、よほど書物を読みふけったとみえて、近目になっていた。

と書いている。近目ゆえの眼を細める癖が、信長を苛立たせ、目の良い秀吉の重用につながり、その事に対する焦りがあり、信長に捨てられるのではないかという精神的な不安が昂じて謀反を起こすに至ったというのが、先生の「本能寺の変」に対する医学的解釈である。

光秀の近眼がその原因という説だが、面白いけれどもこれも信憑性は?と思われる。いずれにせよ、天下とり信長に捨てられかねぬという意識があったのは事実だろう。

明智光秀の子孫である、明智憲三郎が書いた書物がある。

明智憲三郎 著  本能寺の変431年目の真実」 (文芸社)

彼の調査によると、「本能寺の変」 の事実はこうなる。

明智氏が言う。


信長は、徳川家康本能寺に呼び寄せ、光秀に討ち取らせるつもりだった。ところが、この計画を聞いた光秀は、ゆくゆくは明智一族も滅ぼされると思い、家康織田家打倒を決意。家康との談合の末に、信長と息子の信忠の間隙を縫って決起したのが本能寺の変だったんです。現代でこそ、信長家康を討つなどありえないと驚く話であり、研究者の中にも『あの時点では討つわけがない』と決めつける方もいますが、(信長が重用した)光秀の兵たちにとって『家康討ち』は常識であったとうかがえる資料が複数あります」

光秀が一族の滅亡を恐れて先手を打ったという新説を唱えている。
    これも俄かに信じがたいが、色んな説を考えることができるというのが、歴史の秘かな楽しみでもある。
 
お城の写真見学に入ろう。 
 
野面(のずら)積みの石垣。自然石を巧みに組み合わせたもので、
石垣の中には五輪塔などの石塔類が数多く使われている。
 

登城路から天守閣を望む。
 
説明板 城の外観が設計図により1985年に復元されたと記してある。
鉄筋コンクリート三層四階建て。
 
 
福知山城の雄姿

 

 
空が霞んでいて、写真写りがよくないので、鮮明な画像をゲットした。
 
 

本丸跡
 
福知山城天守閣復元鯱瓦  復元されたものですが、立派です。
 
 
豊磐井(とよいわいのい)

この井戸は深さが50メートルあり、城郭内湛水井としては日本一の深さである。


城内にある、朝暉神社

1669年(寛文9年)6月に入部した、福知山初代藩主である朽木稙昌(くつきたねまさ)が父・稙綱(たねつな)を藩祖として城中に祀ったことにはじまり、11代藩主・綱條(つなえだ)のときに一社を建立して朝暉神社と号しました。
廃藩により城外に移されましたが、1881年(明治14年)に町民らの要望によって天守台跡に再建されました。
さらに1986年(昭和61年)の天守再建にともなって、現在の位置に移築されました。


福知山城の藩主が祭神なので、城内(本丸跡)に移された訳だ。

大天守閣内では、写真禁止だがここは可能ということで、写してみた。壁に掛かっているのは、明智光秀の肖像画。

 
これも鮮明な画像を発見したのでアップする。
 
2階部分からの眺め。

天守閣から福知山市内の四方を見渡す。

手前に見えるのが、小天守

 
 
 


これで、福知山城見学はおしまい。なお、つぎのホームページを参考にさせて頂いた。 
 
 
福知山城   
 
最後に風景印入りの福知山城の絵葉書。
 

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