下山する際に目ざとく見つけて写した 飛翔の碑 である。 その時は分からなかったが、後で調べて解ったのだ。私の書く記事ではいつもの事である。
碑文
「先覚があった 彼を渡辺信二と言った 志方町の人である 大正十年十月十七日 彼自らが創作した滑空機に 彼自身が搭乗し 天空を目指して ここから飛んだ 滑空三百メートル 時に二十一歳であった ここへの搬入は 下之町青少年が かってでた 実行にあたっては 渡辺準、竹内忠雄、藤本和蔵、池沢徳次、平田成重などが 進んで力をかした つまり協力してその滑空機を持ち上げ臂(ひ)力のみで放った 関西における実に最初の飛翔であった」
どのようなグライダーなのか気になったて調べてみたが、写真は見つけることはできなかった。しかし、滑空の状況を説明する文章が残されていた。当時小学生であった方の思い出の文章です。ひろかずのブログ からの孫引きだが、引用する。
この時、このグライダーの滑空に参加された平田五郎氏が、この緊張した場面を『志方郷(創刊号)』に寄せておられます。その一部をお借りします。
山頂の磐座から南の谷へ
「・・・(信二さんは)4㍍のグライダーをつくりあげ、大正10年10月17日、父信一氏の一度だけという許しを得て、下の町の青年団の渡辺準、藤本和蔵、竹内忠雄、池沢徳次、平田重成等の友人の外、小学生であった私たち10人も手伝って、グライダーを分解して高御位山頂まで運び上げ、また、組み立てて神社南側の岩の上へグライダーをかつぎ上げ、友人たちはロープで体をしばり、神社の柱にくくってグライダーと共にがけに落ちないようにして、「1・2・3」のかけ声と共に信二さんの乗ったグライダーを頭上高く差し上げて、一気に前方向けてつき離した時に尾翼が途中の松の大木にひっかかって、目的の下の池には着水せず着陸したが、渡辺さんの計画地近くに着陸できたので、参集者一同大成功と喜びあいました・・・」(『志方郷・創刊号』より)
彼は、その後26歳で航空機事故で亡くなる。その経緯は、上ブログでは、つぎのように記されている。
頂上からの眺め
Iさんは、今はもうやらないが、過ってはこんな岩などスイスイと登っていたのである。彼はしきりに、岩登りは(厳重装備の上)自己責任で行わねばならないと言っておりました。年寄りが岩から落ちても誰も責任は取れんぞ、ということなんでしょう。
私としては、かくも元気なお年寄りを見て呆然とするばかりである。とてもそんな真似はできぬ。
彼は、その後26歳で航空機事故で亡くなる。その経緯は、上ブログでは、つぎのように記されている。
信二氏は航空学校を卒業後し、わが国最初の民間水上飛行士の免状を得る。
卒業後、堺・高松・福岡の定期航空に従事する。
大正15年4月6日、堺発福岡行きの郵便飛行中、神戸沖で発火を起こし墜落殉死する。
日本における郵便飛行の最初の犠牲者であった。
卒業後、堺・高松・福岡の定期航空に従事する。
大正15年4月6日、堺発福岡行きの郵便飛行中、神戸沖で発火を起こし墜落殉死する。
日本における郵便飛行の最初の犠牲者であった。
山頂では、かってこのようなドラマがあったのだ。また私と同年配年の登山者が何人かおられ、岩登りの話をされていた。岩登りの服装である。ここには切り立った岩場があり、ロッククライミングの絶好の場所らしい。このような崖ですね。
頂上からの眺め
Iさんは、今はもうやらないが、過ってはこんな岩などスイスイと登っていたのである。彼はしきりに、岩登りは(厳重装備の上)自己責任で行わねばならないと言っておりました。年寄りが岩から落ちても誰も責任は取れんぞ、ということなんでしょう。
私としては、かくも元気なお年寄りを見て呆然とするばかりである。とてもそんな真似はできぬ。
彼らを横目でにらんで、最早岩登りの現役ではないIさんは、淋し気に石段を下って行くのであった。
この石段の道は、麓にある高御位神社の社殿の入り口までつづいている。全部で十八丁の道のりである。 このコースは、成井登山みちと呼ばれている。 その絵地図。
途中所々にその標石がある。 信楽狸のタヌ君も登山者を見守ってくれている。
信楽たぬきの日
こんなブロック造りの階段部分もある。 地元ボランティアの方々がメンテを行っているそうだ。
夕焼けに染まる戍井の景色。
道脇の小さな祠。 かびで黒くなってしまった仏像が置かれている。
石階段の道。昭和60年に竜山石を用いて階段状に整備されたものという。手すりも付けられている。
Iさんの後ろ姿を何度も写してしまい申し訳ない。
ようやく高御位神社の社殿に到着。
境内にある社内社の鳥居 白龍大神を祀っているが、後ろに自動販売機があり興ざめである。
参道の入り口にある二基の狛犬。
戍井のバス停でコミュニティーバスを待つ。40分位待ったと思う。Iさんから、色んな話を伺っているとあっという間であったが、夜は黒々と更けてくる。
8人乗り位のバンがやってきた。コミュニティーバスである。このバンはかこタクシーとよばれていて、市の経営らしい。乗客は過疎地ゆえ少なく大赤字のようである。このときも乗客は我々を含め4名であった。曲がりくねった道路を通ってJR宝殿駅に到着。ここから電車で加古川駅に戻る。
さて待望の加古川フグ料理である。加古川の名店をIさんが予約しておいて下さった。妹さんが医師で、神戸大付属病院に勤めておられる。加古川の関連病院に現在勤めておられ、医師仲間の会合などに使ったことがあり、ここが良いと推薦してくれたと伺った。Iさん本人は、初めてなので、探すのに手間取った。地図にあるより思いの他遠かったのである。
ようやく見つかりました。定刻の6時には到着。この店 一志 である。
さて料理紹介である。
てっちりのフグ身。中型のサイズのフグであった。大きな口の部分にある皮がまた美味しいのだ。
ふぐの唐揚げ。 ジューシーで、からっと揚がっておりこれまた美味しい。
〆のふぐ雑炊。料理は何一つ残すことなく、大変美味しゅう頂いたのであった。勿論ビールも忘れず注文したのである。
この石段の道は、麓にある高御位神社の社殿の入り口までつづいている。全部で十八丁の道のりである。 このコースは、成井登山みちと呼ばれている。 その絵地図。
途中所々にその標石がある。 信楽狸のタヌ君も登山者を見守ってくれている。
信楽たぬきの日
こんなブロック造りの階段部分もある。 地元ボランティアの方々がメンテを行っているそうだ。
夕焼けに染まる戍井の景色。
道脇の小さな祠。 かびで黒くなってしまった仏像が置かれている。
石階段の道。昭和60年に竜山石を用いて階段状に整備されたものという。手すりも付けられている。
Iさんの後ろ姿を何度も写してしまい申し訳ない。
ようやく高御位神社の社殿に到着。
境内にある社内社の鳥居 白龍大神を祀っているが、後ろに自動販売機があり興ざめである。
参道の入り口にある二基の狛犬。
そして、戍井の集落に到着した。 午後4時半ころであった。
戍井のバス停でコミュニティーバスを待つ。40分位待ったと思う。Iさんから、色んな話を伺っているとあっという間であったが、夜は黒々と更けてくる。
8人乗り位のバンがやってきた。コミュニティーバスである。このバンはかこタクシーとよばれていて、市の経営らしい。乗客は過疎地ゆえ少なく大赤字のようである。このときも乗客は我々を含め4名であった。曲がりくねった道路を通ってJR宝殿駅に到着。ここから電車で加古川駅に戻る。
さて待望の加古川フグ料理である。加古川の名店をIさんが予約しておいて下さった。妹さんが医師で、神戸大付属病院に勤めておられる。加古川の関連病院に現在勤めておられ、医師仲間の会合などに使ったことがあり、ここが良いと推薦してくれたと伺った。Iさん本人は、初めてなので、探すのに手間取った。地図にあるより思いの他遠かったのである。
ようやく見つかりました。定刻の6時には到着。この店 一志 である。
さて料理紹介である。
ふぐ皮短冊切りの御酢の物
てっさである。 身がしまり光っている。ポン酢と辛し大根で食した。ほのかな甘みがある。
皮の部分の湯引きも大好物である。
てっちりのフグ身。中型のサイズのフグであった。大きな口の部分にある皮がまた美味しいのだ。
ふぐの唐揚げ。 ジューシーで、からっと揚がっておりこれまた美味しい。
〆のふぐ雑炊。料理は何一つ残すことなく、大変美味しゅう頂いたのであった。勿論ビールも忘れず注文したのである。
ということで、満腹して帰路についたのであった。おまけのグルメ記事でした。
これでおしまい。
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