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2017年1月24日火曜日

エジプト旅行記 X

今回はルクソール神殿の訪問記。旅行記を書くときは、見栄えの良い写真を残すように編集している積りなのだが、時系列にすると上手く写ってない写真と満足できる写真とがバラバラに現れる。それで時系列を無視して見良いように編集すると、場所によっては必要な画像が抜けたり同じような写真が続いたりする。この旅行記では私の撮った写真以外はできるだけ使いたくないと思い編集すると、前回のような長くて纏まりのない記事になってしまった。申し訳のないことです。偏ったエジプト旅行紹介記事になってきましたが、細かい記述は無視して写真を楽しんで下されば嬉しいです。

本来の目的は旅行記といっても忘備録なので、あまり正確さを考えずに書き進めていくことにします。

と、書く必要のない言い訳をしてからルクソール神殿の写真日誌を始める。

カルナック神殿の見学をおえてバスに乗り込み、ルクソール市内の5分間観光。

車窓から写した写真2枚

時計塔  噴水になっているようです。


カルナック神殿からつづくスフィンクス参道  現在整備中。


ルクソール神殿カルナック神殿から約3キロの距離にある。本来はアムン大神殿の付属神殿として建設されたものだと言われている。

神殿の入場口  神殿の周囲は塀で囲まれている。そのお隣はモスク。



入り口にあった神殿の掲示板   日本語版も探してきました。


神殿平面図の日本語版


神殿は、上の平面図のような構造になっているが、建物が垂直でなく折れ曲がる形で造られているのを注意されたい。

入場口の目の前にあるのが、第一塔門である。


その前には1本のオベリスクと2体のラムセス2世座像がある。見上げるばかりの高さである。

いつもの如く、Wikipediaを利用してルクソール神殿の基本データを取得する。

ルクソール神殿


ルクソール神殿
Pylons and obelisk Luxor temple.JPG
第1塔門とオベリスク
遺跡
種類神殿 (Temple) 複合体
所在地エジプトの旗 エジプト、ルクソール県
ルクソール(東岸)
ヒエログリフ名
M17p
t
O45M24N21
Z1
X1
O49
Jpt-rst
主祭神アメン
歴史
着工第18王朝時代
増改築ギリシア・ローマ時代まで


ルクソール神殿(ルクソールしんでん、英語: Luxor Temple

エジプトのルクソール(古代のテーベ)東岸にある古代エジプト時代神殿複合体である。
もともとカルナック神殿の中心を形成するアメン大神殿付属神殿として、エジプト第18王朝(紀元前1550-1295年頃)ファラオのアメンホテプ3世(紀元前1390-1352年頃)によって中心部分が建立された。



アメンホテプ3世。


神殿の後方には、アメンホテプ3世およびアレクサンドロス3世(紀元前332-323年)によって構築された祠堂がある。

AlexanderTheGreat Bust.jpg

アレクサンドロス3世

ローマ時代には、神殿およびその周辺は軍の要塞となり、その領域はローマ政府の基地であった。

アメン大神殿とはスフィンクスの参道で結ばれていた。神殿入口となる第1塔門の前には1対のラムセス2世(紀元前1279-1213年頃)の坐像、その手前にはオベリスク(高さ25メートル)が1本立っている。

オベリスクは本来左右2本あったが、右側の1本(高さ22.55メートル)は1819年、フランスに贈られてパリに運ばれ、現在コンコルド広場にある。



コンコルド広場のオベリスク

という事で、ここも神殿の複合体である。コンコルド広場のオベリスクは見たことがある。エジプトの王であったモハメッド・アリからのプレゼントだったとは知りませんでした。エジプトから略奪してきたものだと思っていた。

モハメド・アリ、エジプト国王

それではルクソール神殿観光写真集の始まり、始まり。


スフィンクス参道  この参道の対面に第一塔門がある。



オベリスク  高さ25メートル、花崗岩製である。




パリのオベリスクは高さ22.55メートルである。なぜこのように高さが異なるかというと、錯視的な表現によるものだという。Wikiの記事を引用する。

他のエジプト建造物と共通して使われた一般的手法として、象徴的表現すなわち錯視的表現がある。ルクソール神殿の入口に隣接する2本のオベリスク(西側の少し小さい1本は現在パリのコンコルド広場にある)は同じ高さではなかったが、そうであるような錯覚を作り出していた。
神殿の配置と一体になり、それらは等しい高さであるように見えるが、錯視的表現を用いてそれが後方の壁のため同じ大きさに見えるよう、相対的な距離を増すように形作った。


塔門右側のラムセス2世の座像と立像  頭部は削られてしまっている。


地面に置かれているラムセス2世の頭部


取り去られたオベリスクの台座  性器を見せている動物らしきものが4頭いるが、これは前足をあげて太陽を礼拝しているヒヒの像ということだ。




右側の塔門ラムセス2世座像  玄武岩で造られている。



第一塔門の全体写真

第一塔門の通路

ラムセス2世の中庭にある大列柱  寸胴タイプの列柱である。


第二塔門と列柱  列柱前のラムセス2世坐像  右側の顔の部分は削り取られている。


ラムセス2世立像の頭部は全て切り落とされている。

ラムセス2世の中庭にあるアメンホテプ3世の三つの礼拝堂

これは、カルナック神殿ラムセス3世礼拝堂と同様にオペト祭で使われる聖船を休ませた場所だと言われている。 その上部にあるのは、何とモスクの一部。



ガーマ・アブー・イル・ハッガーグというモスクが建てられている。上の方に見えるのが入り口である。昔神殿が砂に埋もれていた頃イスラム教徒達が知らずにモスクを建ててしまったという。

その後発掘が進み神殿が姿を現わすと、高すぎてこの入り口は使えなくなってしまった。
現在は外側から入れるようになっている。



モスクの尖塔が見えている。


距離をおくとモスクの全体像が見えてきた。


中庭にあるラムセス2世の立像。




こちらは首が切り落とされてしまっている。


ほぼ完全な姿で残っているラムセス2世座像

顔の削り取られたラムセス2世座像


その椅子の横に描かれたレリーフ。これは上エジプト下エジプトを統一したことを表している。
蓮の花下エジプトの南を指す)とパピルス上エジプトの北を指す)が描かれている。


またレリーフには、戦いで負けた奴隷が首を繋がれている姿も描かれている。


奴隷の人種の違いも描き分けられている。


開花式パビルス列柱のつづく大列柱廊


アメンホテプ3世の中庭入り口付近にあるツタンカーメン王アンケセナーメン大妃の石像。アメンホテプ3世はツタンカーメンの祖父にあたるという。男女同じサイズの石像はむしろ珍しいと言える。


この石像もそうだと思われるが不明。


列柱室に並ぶ列柱群  柱は寸胴ではなく小柱を寄り合わせたようなスタイルである。コリント式とでも言えば良いのかもしれない。


列柱の奥は、至聖所になっている。その前のホールは、にコプト教の礼拝の場として使われていた。


コプト教会  壁面にはキリスト教会のローマ風フレスコ画が残されている。


 至聖所前にある列柱


アレクサンダー3世(B.C300年代)がエジプト侵攻時に再建した「アレクサンダー大王の間」と呼ばれる部屋が 至聖所の前にある。

アレクサンダー大王の間の壁面


大王古代エジプトの神のレリーフが刻まれている。復元中のようでした。


 アレクサンダー大王の間列柱


この奥が至聖所になっているが、ここは立ち入りが禁止されている。



これで見学できる場所はおしまい。
我々は逆のコースを辿って神殿入り口まで戻っていったのであった。

その帰路で写した写真

アメンホテプ3世の中庭での列柱群  ラムセス2世の中庭の列柱とはスタイルが異なっている。閉花式パピルス形式の列柱である。


ラムセス2世の中庭から第一塔門を望む。


巨大列柱


家族写真  修正しているが、個人情報保護の観点からワイフや息子に怒られそうだ。まあルクソール神殿に来たという証拠写真なので良いことにしよう。


ルクソール神殿編はこれでおしまい。



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