この神社は大倉山公園を抜けて山側に向かう、その麓にある。他の七社と違い拝殿は昔ながらの雰囲気をそのまま残している。山沿いの住宅地の中にあり、有力な禅寺である祥福寺がすぐ隣にある。背後は六甲山で環境は良好である。
社碑
御神木の楠が2本あり一部枯れたためか、共に切り込まれている。 しかしその根元は樹齢を感じさせ見事です。また若枝もご覧の様に青々と葉を茂らせている。
大鳥居 震災に負けずその姿を保っている。
境内は更地のようにすっきりとしており、植えられている木々はごく少ない。参道は風情がなくモルタル引きであった。これから整備するのでしょう。
それではいつもの様にWikipediaから神社の基礎データを引用する。
五宮神社
五宮神社 | |
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所在地 | 神戸市兵庫区五宮町22-10 |
位置 | 北緯34度41分36.3秒 東経135度10分14.1秒座標: 北緯34度41分36.3秒 東経135度10分14.1秒 |
主祭神 | 天穂日命 |
例祭 | 9月12日 |
五宮神社(ごのみやじんじゃ)
兵庫県神戸市兵庫区五宮町に鎮座する神社。生田裔神八社の一社。
歴史:
出雲国能義郡天穂日神社よりこの地に勧請され、神功皇后が、三韓へ行かれた帰りに巡拝された一社とされる。古来より奥平野の産土神。
この神社も神功皇后の三韓征伐後に立ち寄られた神社である。四宮神社 と同じです。神戸中央区 四宮神社
本来は奥平野の産土神を祀る神社である。かっての村社と思えるが、歴史は相当古いのでしょう。
江戸時代には寺社改めの時に、生田神社からは裔神八社の一つとして届け出ている。 明和の書上には氏神五ノ宮(幕府領の)境内二十八間に十二間、拝殿三間に二間、山神地神の小祠ありとある。
江戸時代には現在の境内よりもかなり広かったようです。
奥平野には、生田神社奉斎の時に祭主を命じられた海上五十狭茅の家と伝えられる名家があり、明治4年(1872年)湊川神社の創建で、兵庫県より湊川神社氏子に指定された時も、生田神社との深い関係を嘆願して、旧来通りとなった。
海上五十狭茅(うながみのいさち)とは、生田神社社家の先祖のこと。
神功皇后から、稚日女尊を祀る事を命ぜられ、初代の生田神社祭主となったという。
神功皇后、応神天皇と戦った将軍である五十狭茅宿禰(いさちのすくね)の子であるともいう。
危うく湊川神社の摂社になり、吸収されるところでした。
ご祭神:
天穂日命 (アメノホヒノミコト)
山車の上に飾られている。
天照大神とスサノオが誓約をしたときに、天照大神の右のみずらに巻いた勾玉から成った。物実(ものざね:物事のタネとなるもの)の持ち主である天照大神の第二子とされる。
由緒板
それでは境内を見て回ろう。
拝殿 拝殿と本殿が一緒になった屋家である。 一見すると本殿なしのように思える。
拝殿の側面
二拝二拍手一拝をして鈴を鳴らし、お賽銭をあげさせて頂いた。
拝殿前の狛犬二基
常夜燈
手水舎 水枯れ状態でした。
紀念燈 左右二基ある。 灯りをつけない常夜灯のようなものである。
境内社の岩松稲荷社
朱鳥居 扁額には 正一位 岩松稲荷 とある。
拝殿 二重屋根になっており、手前部分が休憩所のようになっている。中央にお線香を立てる奉納柱がある。地方の神社ではたまに見るが、神戸の神社ではこのスタイルは殆ど見受けられない。
大国主を祀る社 お賽銭箱は置かれていないので、賽銭を社の扉に押し込んでいる。これってマナーからするとよくないのでは?
社は小さいが境内社の猿田彦社
この社には、気づき難いのだが、一応賽銭箱が置かれている。
境内にある鬼瓦 拝殿の古い瓦と思われる。
境内には社務所があり、宮司さんに朱印を御朱印帖にお願いしているグループ(含御朱印ガール)の方がおられた。 朱印を集めるのが若い女性のプチブームになっているらしい。
御朱印の画像
ついでと言ってはなんだが、全生田裔神八社の御朱印の画像をアップする。
画像は、
Yoko Kishimoto より引用。
@cathyyoko
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