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2017年7月27日木曜日

神戸兵庫区 鎮守稲荷神社

今回は、神戸の神社シリーズで、兵庫区にある鎮守稲荷神社の紹介である。新開地にある母の入居施設周辺を調べていて見つけた神社である。何度も書いているが、母の見舞いの帰りは、神戸市内の神社巡りをすることに決めていて、その一環である。早めに自宅に帰らないといけない時は、新開地や神戸駅周辺の神社を参拝することにしている。有難いことに、調べてみると兵庫区には小さな神社が沢山ある。取材先には困らないのである。

この神社は以前紹介した七宮神社の近くにある。  神戸兵庫区 七宮神社  
母の入居施設から徒歩で15分くらいの距離である。阪神高速3号神戸線七宮信号から高架ぞいに少し歩いたところにある。

地図



この地図に記載されている神社を今回から順次紹介していく予定である。

神社は民家とかマンション、町工場や小さな商業ビルが立ち並ぶ一角にある。



神社前の道路脇に、史跡 平経俊墳 と記された標識が立っている。


平家の若武者であった、平経俊の供養塔がこの神社の境内に祀られている。これは後で紹介する。

西出町 鎮守稲荷神社 と記された立て札


社碑

この神社も震災でダメージを受けたが、現在の形に無事復興されたとの事です。

大鳥居   参道奥に拝殿が見えている。狭い境内である。


鳥居神額  単に稲荷神社とある。


由緒板

神社の説明板(英訳付き)

本殿


Wikipediaにはこの神社の記載はないので、いつもお世話になっているサイトの神戸の空の下でや、兵庫津の道を歩こうガイド兵庫神社庁の記事を参考にさせて貰っている。

神戸・西出町鎮守稲荷神社。 - 神戸の空の下で。~街角の歴史発見~
兵庫津の道を歩こうガイド 鎮守稲荷神社|兵庫県神社庁 

ご祭神:

宇賀魂命(うかのみたまのみこと)

伏見稲荷大社主祭神であり、稲荷神(お稲荷さん)として良く知られている。前回もこの画像を使ったように思うが、他には適当なのが見つからない。




由緒:

平清盛兵庫津の整備を進めるにあたり、工事の安全を祈願して創建したという説もあるが、はっきりしたことは分かっていない。
鎮守稲荷神社の沿革は定かではないが、高田屋嘉兵衛が海上交通安全を祈って奉納した一対の石灯籠が境内にある事から、寛政年間(1789~)には既に鎮座していた。
商売繁昌、交通安全、防火守護の御利益があり、「ちぢみさん」として西出町住民に親しまれている。

神社の由緒には直接関係ないが、西出町木遣保存会」の伝統がある。

伝承によれば、治承4年(1180)、平清盛が、福原京を造営した時に、大輪田の泊を開き、建築用材を運んだ際に、地元の人々が、木遣音頭を歌い、踊りながらはやした事にはじまるといわれ、江戸時代、兵庫津の繁栄時に、浜で働く船大工等が、潮風に鍛えたのどで作業の合間に歌っていた唄であり、そのまま七宮神社の祭りに歌われ現在の木遣のもとになった。 

市登録無形民俗文化財に「兵庫木遣音頭」がある。


 「神戸よいとこ/扇のみなと/招く入船/宝船…」。

おおぎのみなと・・・


近辺の地名を織り交ぜ、七七七五調で歌い上げる。三味線や尺八による囃子(はやし)は伊勢音頭の流れをくむ。江戸初期には沿岸部の12地区が歌っていたが、1921(大正10)年には西出町のみの伝承となった。振り付けが加わったのは昭和期に入ってから。

神戸の地名を盛り込んだ音頭は平安末期、平清盛が京都から福原に遷都した際、駆り出された人たちが建築用材を運びながら歌ったのが発祥とされる。時代を経て祝い歌に転じて振り付けも加わり、地区行事や祝賀会に欠かせない存在となった。

 西出地区では「兵庫木遣保存会」が終戦翌年から継承に取り組んでいる。



そろいの浴衣姿で「兵庫木遣音頭」を披露する女児ら
境内には、平経俊の塚がある。平敦盛の兄で、源平の戦の寿永3年(1184)2月7日、18才にしてこの地で戦死した。新暦に改め毎年3月7日に、町内役員参列のもと慰霊祭が斎行されている。

 平成7年(1995)1月の阪神淡路大震災により社殿等甚大な被害を受けたが、既に復興を完了した。


ということで由緒記から脱線しました。脱線ついでに、鎮守稲荷ビリケンさんについても説明する。




なんとびっくりだが、鎮守稲荷神社本殿ビリケンさんが祀られている。菩薩様代わりに拝まれていたらしい。昭和になって作られた木像である。


ビリケンさんの由来
 
そもそもビリケンさんは、1908年、アメリカ・ミズーリ州カンザス市の芸術家フローレンス・プリッツが夢の中で見た神秘的な人物像をモデルにして制作。

明治の末期、海外から来た福の神として日本に伝わって、庶民の間に広がって行った。ビリケンさんは、。尖った頭に吊り上がった目、子供の姿をした「幸福の神様」です。坐像の前に投げ出した両足の裏を掻いてあげるとご利益があるそうです。
 大正、昭和初期にかけて、国内各地で外国の福の神、マスコット看板などで親しまれていた。その当時のビリケン像は、現在ほとんど残されていない。


ということで、日本で2番目に古いビリケン像であるらしい。1番目は、次々回くらいに紹介する予定の松尾稲荷神社にある。

それでは境内の参拝に参ろう。

稲荷神社の守り神であるお狐様二匹。痩せており、手足に骨折の跡がある、痛々しいお狐様である。





手水舎



本殿神額


本殿前の狛犬二基


本殿は施錠されているので 入ることはできないが、ガラス戸を通してビリケンさんを見ることは出来る。赤い座布団の上で鎮座している。



その横にある祭壇(拝殿)  こちらにはお狐様がちゃんとお守りをしておられる。


狭い境内に境内社が二社ある。

日向神社  安産守護の神である。

狛犬二基  小さいのに狂暴な狛犬なので檻の中に入っている。



こんなのを見たのは初めてである。崩壊を防ぐためか、鳩除けなのかはわからない。

日向神社の社(やしろ)


白龍社  浄水守護の社である。玉之井という井戸の上に祀られている。


由緒でも記したが、鎮守稲荷神社の前には高田屋嘉兵衛が献上したという灯篭がある。


高田屋嘉兵衛

高田屋嘉兵衛は、司馬遼太郎の小説 『菜の花の沖』で有名ですね。

高田屋嘉兵衛の献上した灯篭



平経俊乃墳 その看板と石碑 子供の守り神になっている。


平経俊公の由来を記した看板

平経俊公の由来:

若狭守経俊は平清盛の甥で一の谷の合戦に華と散った平の敦盛の兄である。
湊川の合戦で鵯越の守備についていたが戦利あらず、長田の森を経て西出の浜へとおちのびてきたところを源の範頼の郎党名和太郎に追いせまられ、勇ましくも組打となり当地で落命した。
時に寿永三年二月御歳わずか十八歳であった
明治になり太陽暦になったので以来三月七日を命日として御霊祭をとり行う古来とくに子供の守護神(夜なき神様)として信仰されている。



平経俊公を供養する五輪塔を祀る


五輪塔


平経俊の御魂を慰めるために14世紀の南北朝の時代に建てられたのが、鎮守稲荷神社にある五輪塔だといわれています。この塚にはお参りすれば子どもの夜鳴きを鎮めるご利益があると言われており、今でもお参りに来る親が絶えないそうです。

玉垣お百度石

これでおしまい。

2 件のコメント:

  1. 日向をヒュウガではなく、「ムコウ」と読むのが元儀かもしれません。
    九州の日向をイメージし勝ちですが、ムコウと読むとそれは出雲帝国の東王家の家名そのもの(向、六甲、武庫、、、、また、富家とも号した。分家は葛城の登美(トミ、トビ(金鵄、金鳥、金長))家(クシヒカタ命が祖(コトシロヌシ/アワシマ/スクナヒコ=八重波津身(古代出雲帝国第8代スクナヒコ(副王))の御子)))。
    因みに、六甲山は通称で、正式(国土地理院)には六甲山と言う山は存在しません
    六甲山=ムコウの山。六甲媛神社=ムコウ媛大神=廣田皇大神(ムコウ家の媛(大巫女))

    神戸も神社を維持するための部民、神戸を地名の由来とすると一般には解されていますが、
    古来そんな下層民らの事を地名には絶対着けません。
    これも、古代出雲帝国の西王家、神門臣家(分家は葛城の高賀茂家)に由来(神門→神戸)すると考えた方が元儀かつ真っ当ではないか?

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    1. 森岩光様
      コメント有り難うございます。専門家のご意見でいつも勉強になります。日向神社を当然の如くヒュウガジンジャと読んで疑ってもいませんでした。日向→ムコウ→六甲と連想される。出雲帝国の東王家の領地にある山だから六甲山と呼ばれたという事ですね。六甲山が通称で正式名でないというのも初めて知りました。Wikiでは、神戸と言う名称は生田神社の祭祀を維持するための部民に由来とすると書いてあります。これはあやしい説だったんですね。神門→神戸が由来というのは素人考えではこちらの方がもっともらしく思います。それにしても神戸というのが下層民だというのは驚きでした。何も知らぬ素人の戯言ですが、神社の子分だけど平民よりランクが上と思っていました。またの興味あるご指摘を望んでいます。多謝。

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