ページビューの合計

2015年3月3日火曜日

フリーダ・カーロ

今回は、メキシコの画家 フリーダ・カーロ を紹介したい。 18歳のとき、バス事故にあり身障者となりながら立ち上がり、女性として炎のような人生を送った画家です。多くの方の知っている、あの眉毛のつながった自画像を描く女性画家です。女優の薬師丸ひろ子に似ている。

映画にもなっています。 映画「フリーダ」公式ホームページ 2002年の作品です。フリーダ・カーロ を演じるのは、サルマ・ハエックです。 ペネロペ・クルスではない。

 
こちらがサルマ・ハエックです。
実は、グラマー。

 
Salma Hayek-SGS-027454.jpg

こちらが、ペネロペ・クルス。

まづ、Wikipedia による説明を引用する。 

フリーダ・カーロ

1932年撮影。
生誕Magdalena Carmen Frida Kahlo y Calderón
1907年7月6日
メキシコ・コヨアカン
死没1954年7月13日(47歳)
メキシコ・コヨアカン
国籍メキシコ
著名な実績絵画


マグダレーナ・カルメン・フリーダ・カーロ・イ・カルデロン
(Magdalena Carmen Frida Kahlo y Calderón) (1907年7月6日 - 1954年7月13日)

メキシコの画家。インディヘニスモの代表的美術作家。 メキシコの現代絵画を代表する画家であり、民族芸術の第一人者としても数えられる。

つぎのように言える。

身体に辛い苦痛を抱え続けながらも、様々な魅力的な人物を惹きつけ続け、革命以降のメキシコを、実にドラマティックに生きた女性画家。

Wikipediaには、相当詳しく彼女の生涯が描かれている。ここではその記事に基づき、その生涯を適宜要約してみる。 今回は長い引用です。


幼年期
 
フリーダは1907年7月6日、メキシコシティの近郊にあるコヨアカンで父ギリェルモ・カーロと母マティルデ・カルデロン=イ=ゴンサレスの三女として生まれた。
 
1904年に両親が建てたフリーダの生家である「青い家」は現在はフリーダ・カーロ記念館として公開されている。


幼年期を過ごし、終の棲家となった「青い家」。

 6歳になった頃に急性灰白髄炎にかかり、およそ9ヶ月にわたって寝たきりの生活を送った。 この影響で右腿から踝にかけて成長が止まって痩せ細り、これを隠すためにズボンやメキシコ民族衣装のロングスカートなどを好んで着用していた。

1922年、ドイツ人上級実業学校を卒業すると、ソカロにあるメキシコの最高教育機関とされる国立予科高等学校へ進学した。 女性として国立予科高等学校に入学したのはフリーダを含めてこの年に入学した35人が初めてであった。 フリーダはカチュチャスと呼ばれるグループに入り、国民社会主義的考えに傾倒し、文学に熱中した。

 フリーダは1925年頃まで父親の友人にスケッチを習っており、いくつかの習作が残されている。
こうした経験から絵画に対する関心が高まったフリーダは、次第に画家への道を目指すようになった。

また、フリーダは活動を通じてカチュチャスのリーダーであったアレハンドロと恋仲になり、将来について互いに語り合うようになっていた。

画家を目指す

1925年9月17日、通学に使用していたバスが路面電車と衝突し、多数の死傷者が出る事故が発生した。 フリーダも生死の境をさまよう重傷で、3ヶ月の間ベッドの上での生活を余儀なくされ、その後も事故の後遺症で背中や右足の痛みにたびたび悩まされるようになった。

 当時の状況は、つぎのようであったとされる。

フリーダの背骨・肋骨・骨盤・鎖骨は砕け、右足は潰れ、
鉄棒で臀部から膣を貫通された状態で発見される。

 痛みと病院での退屈な生活を紛らわせるために本格的な絵を描くようになったという。 フリーダの事故により、アレハンドロとの仲は自然消滅のように破綻した。1926年から1928年の間にフリーダは十数枚の作品を制作しているが、最初の自画像はアレハンドロに送られている。

フリーダは体の痛みと死の恐怖に苦しむが、手術は成功し一命をとりとめる。故から3ヶ月ほどで自力で歩ける程度には回復したが、後遺症は残り、ずたずたにされた下腹部への恐怖がフリーダを苦しめる。

自分はもう子供は産めない体なのか、誰に聞くこともできなかった。そして事故から1年後に、また病状がぶり返し、動けなくなってしまう。

以後、30数回の手術と、28個のコルセットによって、フリーダは絶えず背中と右足の痛みに苛まれることになる。


通常の生活が送れる程度に回復した1928年、フリーダは知識人や芸術家の集う活動サークルに参加し、メキシコ共産党へ入党する。

そこで写真家ティナ・モドッティの紹介で画家ディエゴ・リベラと出会う。 リベラの絵に感嘆したフリーダは闘病時代に描いた自分の作品を見せ、リベラに意見を求めた。 リベラは後にこの時の出来事を「カンバスにはものすごい表現力が示されていた」と語っており、フリーダの感性に大きな感銘を受けた。



ディエゴ・リベラは、著名な画家であったが漁色家としても有名であった。

これを契機に二人の仲は急速に接近し、1929年8月21日、フリーダは21歳年上のリベラと結婚した。




ディエゴ・リベラとフリーダ・カーロ(1932年撮影)

年の差やリベラの外見上の印象から、フリーダの両親からはあまり祝福されなかった。

二人は最初メキシコシティ中心部にあるアパートを借りて住んでいたが、リベラコルテス宮殿の壁画作成の仕事が入ったため、同年にクエルナバカ市へと移っている。

翌年11月、リベラに今度はカリフォルニア美術学校から壁画作成の依頼があり、サンフランシスコへと居を移した。 その後も仕事の都合でニューヨーク、デトロイトなどを転々とした。 リベラのこうした無節操な仕事の選び方はメキシコ共産党の反感を買い、1929年に党員資格を剥奪された。 この時、フリーダもあわせて離党手続きを行っている。

1930年にフリーダは妊娠したが、事故の影響で骨盤や子宮に損傷を受けていたことから流産となった。 1932年、1934年にも流産している。 これら出来事は彼女に深い影を落とし、その後の作品に大きな影響を与えることとなった。

1933年12月、メキシコに戻った二人は、知人に頼んでメキシコシティの南郊外サン・アンヘルに家を建てて貰い、そこに落ち着くこととなった。


絶望と成功

1935年、リベラが妹のクリスティナと関係を持ったことにショックを受けたフリーダは、サン・アンヘルの家を出てメキシコシティ中心街に居を移した。

同年の終わりごろにはサン・アンヘルの家に戻ったが、フリーダリベラへのあてつけのようにアメリカ人彫刻家イサム・ノグチと関係を持った。

1940年代のイサム・ノグチ



1936年7月にスペインで内戦が勃発するとフリーダは共和国側を支援するために同調者を募り、連帯委員会を創設して政治活動に再びのめり込むようになった。

1938年にフリーダにとって最初となる大規模な個展を海外で催すこととなった。 大成功であった。

1939年、映画俳優のエドワード・G・ロビンソンがフリーダの絵を大量に購入したことを契機としてアメリカへ旅立つ機会が増えていった。 フリーダの成功はアメリカでも驚きを持って報道され、多方面の著名人から絵の注文が舞い込むようになった。

フリーダはアンドレ・ブルトンが企画した「メキシコ展」を支援するため、1939年にパリへと旅立った。
展覧会は経済的成功に至らず、その後に予定していたロンドンでの展覧会は中止になった。 しかしながらフリーダの作品は好意的に評価され、ルーブル美術館は展示された『ザ・フレーム』を買い上げている。


フリーダの成功と精力的な活動によって次第に夫婦間の熱は冷めていき、1939年11月6日リベラとの離婚が成立、フリーダは生家である「青い家」へと戻った。

孤独を忘れさせようとフリーダは作品制作に没頭し、経済的にも自立しようと努めた。 1940年9月、再び脊椎の痛みに悩まされ始め、加えて右手が急性真菌性皮膚疾患にかかったため、作品制作が続けられなくなり、治療のためサンフランシスコへと向かった。

医師の指導のもと治療を続け、健康状態が安定した頃、フリーダリベラへ再婚の提案を行った。 経済的に自立させること性的関係は結ばないことなどフリーダが提示したいくつかの条件を飲み、リベラは提案に合意し、二人は2度目の結婚をした。

1940年代に入ると、メキシコ内においてもフリーダの名は知られるようになり、様々な賞を受賞し、複数の委員会委員に選出され、講師の委嘱や雑誌の寄稿などを求められるようになった。

1942年には文部省が支援したメキシコ文化センターの会員に選出され、メキシコ文化の振興と普及を目的とした展示会の企画や講演、出版物の発行などに広く携わった。
また同年、文部省の管轄下にあった絵画と造形の専門学校ラ・エスメラルダ」の教員にも選ばれ、週12時間の授業を受け持つことになった。

フリーダの型破りな講義は好評を博したが、数ヵ月後には健康上の問題から学校へ通うことが困難となり、自宅での講義に切り替わった。
フリーダは受講していた生徒たちの中から才能ある若人を得、油絵の指導や作品展示機会の獲得に尽力した。

 
晩年
 
1940年代の終わりごろになるとフリーダの健康状態はさらに悪化し、入退院を繰り返すようになった。 1950年には右足の血液の循環が不足して指先が壊死したため、切断手術を行っている。

作品制作が再開できるようになるのは1950年11月ごろに入ってからで、ベットの上に特製の画架を取り付け、寝たままで制作できるよう整備した。

1951年以降は痛みのため鎮痛剤無しでは生活がままならなくなり、特徴であった緻密なテクニックを駆使した作品を作り上げる事も難しくなった。

1953年8月には右足の痛みが鎮痛剤では耐えられないほどになったため、主治医は膝までの切断を取り決めた。 以後フリーダは義足を使用することにより歩くことができるようになったが、リベラが「彼女は生きる気力を失った」と語っているように、ふさぎこむ事が多くなった。

1954年2月の日記にフリーダは次のように綴っている。



「6ヶ月前、脚を切断され、一世紀にもおよぶと感じられるほどの長く、耐えがたい苦痛に見舞われて、私は時々正気を失った。

いまだに自殺したくなる時がある。

ディエゴだけがそんな私を思いとどまらせてくれる。

なぜなら、私がいなくなれば、彼がさびしがるだろうと思うから。」


しかし、同年の7月13日、フリーダは肺炎を併発して死去した。


書き写したり、編集しながら思わず涙が出そうになりました。

彼女の絵画を観ていこう。以下全ての画像は、FridaKahlo.com より取得。



Self-Portrait
1926
Oil on canvas
31 x 23 in
Private collection, Mexico City





Henry Ford Hospital
1932
Oil on metal
12 1/4 x 15 1/2 in
Collection Dolores Olmedo Foundation, Mexico City



A Few Small Nips
1935
Oil on metal
15 x 19 in
Collection of Dolores Olmedo Foundation, Mexico City




Portrait of Diego Rivera
1937
Oil on wood
18 x 12 1/2 in
Gelman Collection, Mexico City




Self-Portrait (Dedicated to Leon Trotsky)
1937
Oil on Masonite
30 x 24 in
National Museum of Women in the Arts, Washington



Fruits of the Earth
1938
Oil on masonite
16 x 23 1/2 in. (40.6 x 60 cm)
Collection Banco Nacional de Mexico, S.A., Mexico City




Self-Portrait with Monkey
1938
Oil on Masonite
16 x 12 in
Albright-Knox Art Gallery, Buffalo



What the Water Gave Me
1938
Oil on canvas
38 x 30 in
Isadore Ducasse Fine Arts, New York



The Two Fridas
1939
Oil on canvas
68 x 68 in. (173 x 173 cm)
Museo de Arte Moderno, Mexico City




Self-Portrait
1940
Oil on canvas
24 1/2 x 18 3/4 in
Harry Ransom Humanities Research Center, Austin




Self-Portrait
1940
Oil on Masonite
23 1/2 x 15 3/4 in
Private collection, United States



Roots (Raices)
1943
Oil on sheet metal
11 7/8 x 19 3/8 in.
Collection of Marilyn O. Lubetkin



Self-Portrait as a Tehuana (Diego on My Mind)
1943
Oil on Masonite
29 7/8 x 24 in
Gelman Collection, Mexico City




Portrait of Dona Rosita Morillo
1944
Oil on canvas, mounted on masonite
30 x 23 7/8 in. (76 x 60.5 cm)
Museo Dolores Olmedo Patina, Mexico City



The Little Deer
1946
Oil on Masonite
8 7/8 x 11 7/8 in
Collection of Mrs. Carolyn Farb, Houston



Tree of Hope
1946
Oil on Masonite
22 x 16 in
Isadore Ducasse Fine Arts, New York



Self-Portrait with Loose Hair
1947
Oil on masonite
24 x 17 3/4 in. (61 x 45 cm)
Private collection



The Love Embrace of the Universe, the Earth (Mexico), Me, and Senor Xolotl
1949
Oil on canvas
27 1/2 x 23 7/8 in
Collection of Jorge Contreras Chacel, Mexico City



Self-Portrait with the Portrait of Doctor Farill
1951
Oil on Masonite
16 1/2 x 19 3/4 in
Private collection, Mexico City


今回の画家シリーズは、これでおしまい。
 

2015年3月2日月曜日

伊藤若冲の鶏絵

伊藤若冲は、近年非常に人気の高まった江戸時代の絵師である。2000年没後200年を記念した展覧会が開催され、爆発的ブームが起こった。 



その時以来、日本各地で展覧会が開かれている。そのポスターを挙げたいが、その前にWikipediaによるお勉強。

伊藤若冲




伊藤 若冲(いとう じゃくちゅう) 
 正徳6年2月8日(1716年3月1日) - 寛政12年9月10日(1800年10月27日))

近世日本の画家の一人。江戸時代中期の京にて活躍した絵師。名は汝鈞(じょきん)、字は景和(けいわ)。斗米庵(とべいあん)、米斗翁(べいとおう)とも号す。
写実と想像を巧みに融合させた「奇想の画家」として曾我蕭白長沢芦雪と並び称せられる。

その生涯を箇条書きで要約する。

 正徳6年(1716年)京錦小路の青物問屋の長男として生まれる。

22歳で父が没し家業を継ぐ。

30歳を過ぎてから絵を本格的に学び始めた。当時の画壇の主流だった狩野派の門を叩いたが、「狩野派から学ぶ限り狩野派と異なる自分の画法を築けない」と考え、画塾を辞めると独学で腕を磨く。

・彼は模写の為、京の様々な寺へ足を運ぶ。寺院通いを続けるうち、若冲は修行僧のように頭を剃り、肉食も避けて、自ら「平安錦街居士」と称するようになった。ある時若冲は店を家人に任せて丹波の山奥に入り、2年間も音信が途絶えてしまう。



39歳で弟に家督を譲って隠居する。弟は兄をよく理解し、画業を経済面から支えた。これ以後、若冲は四半世紀の間、ずっと作画に専念する。 
(ゴッホとテオみたいですね。)

・千枚とも言われる模写の日々を経て、若冲42歳頃から、代表作となる濃彩花鳥画『動植綵絵(さいえ)』シリーズに着手する。完成まで10年を要した同シリーズは全30幅の大作となり、日本美術史における花鳥画の最高傑作となった。

若冲は一匹狼の画家で朝廷や政権にコネも何もなかったが、当時の文化人・名士録『平安人物志』の中で、円山応挙に次いで2番目に記載されるほど高名な画家となった。

72歳になった若冲を突然不運が襲う。「天明の大火」により、彼の家も画室も灰になり、焼け出されて大阪へ逃れた。私財を失って生活は貧窮し、若冲は70の齢を過ぎて初めて家計の為に絵を描くことになった。

74歳から最後の10年間は、京都深草の石峯(せきほう)寺の門前に庵をむすんで隠棲した。

76歳にずっと彼を援助してくれた弟が他界してからは、画1枚を米一斗で売る暮らしを送るようになる。しかし、元来無欲な彼にとって貧困は苦にならず、むしろ悠々自適の様子であったと伝えられている。

・最晩年の若冲は、石峯寺の本堂背後に釈迦の誕生から涅槃までの一代記を描いた石仏群・五百羅漢像を築く計画を練る。若冲が下絵を描き石工が彫り上げた五百羅漢像は、住職と妹の協力を得て10年弱で完成した。




84歳の長寿で大往生する。生涯独身だった。

以上、Wiki 伊藤若冲 および 伊藤若冲の生涯 を参照した。

町年寄若冲の活躍については、Wikiの記事を見てください。いずれにせよ、

   多彩な技法で花鳥風月を描き、絹着色画・水墨画・仏画・版画や有名な升目描き屏風絵など素晴らしい作品が残る。

という事です。その作品の全貌は、上記のページから当たられたい。

さて、展覧会のポスターの幾つかをアップする。

 

 

 







ポスターにあるように、の絵が多い。彼はが非常に好きで、「動植綵絵」シリーズ全30幅のうち、実に8点が鶏の絵である。

今回の目的は、その絵画を見ていくことである。以下、『動植綵絵(さいえ)』より抜粋。




その部分拡大。

 

 
その部分拡大。 
 

その部分拡大。





構図は似ているが、別の絵の部分拡大。


これがタイル画風の 鳥獣花木図屏風』 である。 面白い発想ですね。


襖絵。



おまけだが、神社における神使としてのの画像を挙げる。 天理市探訪 II 石上神社 も参照。
若冲の絵と比較してほしい。実物も艶やかだが、彼の絵はそれ以上に勇猛で美しい。







(後注: 若冲の画業の優れた紹介動画がある。是非ご覧ください。


伊藤若冲/ito jakuchu Return to JPN

今回はこれでおしまい。 伊藤若冲の他の作品については、別の機会に紹介する予定。

2015年3月1日日曜日

今津温泉

先ほど入ってきたばかりの、今津温泉の記事。末の息子の商売道具調達のため、夕食後車で西宮に行った。そのついでに寄った銭湯です。メンバーはいつもの3人。私とワイフと息子。後で調べてわかったのだが、Super Sento ではなかった。15台位駐車できるスペースがあったので、てっきりSuper Sento とばかり思っていました。 しかし、悪くない銭湯です。 中の設備等を考えると、値段等のコストパーフォーマンスの点から見て、むしろお勧めの銭湯です。

入浴料は大人420円です。サウナに入るには、追加の120円が必要です。この銭湯のホームページがないかと探したが見当たらず。 代わりに Michiken Land というホームページを見つけました。この方はすごくて、大阪全銭湯制覇達成!の偉業をなしとげています。 また兵庫県の銭湯にも足をのばしており、 このページ今津温泉のデータが載せられている。

その一部というか多くの部分を引用させて頂こう。


今津温泉
 
【住所】兵庫県西宮市今津社前町2-8
【営業時間】15:00~24:00 
定休日】毎週月曜日
【入浴料】大人¥410  中人¥150  小人¥60  サウナ¥120
【設備】深、電気風呂、超音波気泡風呂、エステバス、湯快チェアー、露天ヒマラヤ岩塩風呂、足湯
【最寄り駅】阪神本線今津駅から徒歩6分


値段は、大人410円となっているが、現在420円です。中人等の値段は、おぼえていません。10円のアップかもしれない。シャンプーや石鹸は備え付けていないので、持ってくること。

 
 阪神の今津駅から南、国道43号線沿いを東、阪神高速の西宮インターの交差点を南へ信号を渡り、すぐ東側。「ゆったりのんびり」と書かれた大きな縦看板が目に入る。そこには大きな敷地に大きな建物。今風きれいな会館風外観。駐車場も広く、警備員の方までいる。

夜でしたので、看板にはライトが入っていた。



これが、今津温泉の建物。日曜ということもあり、駐車場はほぼ満杯。


昼間の写真は、これ。


入り口。写真はここまでしか撮れない。


データによると、ここには、天然温泉が湧いていない。 よって入湯税はかからない普通の銭湯です。それで、値段が420円と格安。しかし、 平成17年に改築され、広い駐車場を有する Mini・Super Sento的な施設になっている。

下駄箱キーとロッカーキーを交換する方式。ロビーは結構広い。

浴場は、内湯と外湯に別れている。男風呂は、左側が外湯で右側が内湯になっている。

内湯の浴室は、ジャグジー等の設備の揃った湯船から、1人分ずつ仕切られたカランスペース、そして床までがすべて黒御影石張りで、なかなかに高級感溢れる演出である。

電気風呂気泡がワンユニットになった浴槽。超音波気泡風呂ジェットが2連。そしてエステバスがある。普通のSuper Sentoにはあるやつですが、銭湯としては珍しいかもしれぬ。温度は、熱くて却って気持ちの良い湯である。この時は、人が一杯で長湯はできなかった。そして奥にはサウナがあり、その手前に水風呂がある。

面白いのは、「湯快チェアー」なる風呂で、風呂の中にマッサージチェアーがある。 入浴しながらマッサージができるのだが、変な具合である。お湯に身体が半分しか浸からないし、ゴリゴリとして背中が痛いのだ。早々に退散。

写真があればコピペしてお見せできるんだが、見当たらない。残念。

外風呂は、岩風呂ふうの造り。ヒマラヤ岩塩風呂で、しっとりとした肌触りである。なんと、お湯の流れ込みの所に岩塩を置いてある。これで、お湯にミネラル分を混ぜるという事でした。 その手前に足湯と寝転び用の板場がある。風呂は如何せん狭い! 5人はいれば一杯になる。湯はぬるめである。

男湯は、殆ど満杯でゆっくり浸かれませんでした。したがって、石鹸を持って来なかったということもあり、身も心も美しくなったと言う訳にはいかない。温泉でなくともお湯は良い湯でしたので、身体が芯から暖まった。この湯は、家族経営みたいで、アットホームな感じはとても良い。近くに来る機会があれば、是非ひとっ風呂浴びてください。お勧めです。

これで、今回のお風呂記事はおしまい。