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2015年3月26日木曜日

円山応挙の鳥画

異端と称されている日本画家ばかりを紹介してきたが、正統派で好みの画家も当然沢山いる。 以前長沢芦雪を紹介したが、その師匠であった円山応挙は、そういった絵師である。
長沢 芦雪の動物画

肖像画によると、円山応挙 は、ヒゲ剃り跡の濃い小太りおじさんであるが、生前ずっと人気抜群の絵師であり、京都画壇の重鎮であった。というより、近現代の京都画壇にまでその系統が続く「円山派」の始祖である。弟子も沢山いて、人格円満な画力ならびに指導力の高い絵師であったと思われる。



円山応挙肖像『近世名家肖像』より


彼は、写生を重視し、日本絵画の伝統的な画題を扱い、装飾性豊かな画面を創造したとある。
基本に忠実だからこそ、大衆受けがしてしかも芸術的な深みまで達することができた訳である。
そして、多くの優れた絵画を残した。現在では、神格化された名人のように扱われている。

京都大乗寺にある、その彼の銅像である。 肖像画をもとにして製作したんだろうね。そっくりです。



功成り名遂げた人は、自分がそうでないという事もあり、余り好きでないのだが、その作品の好き嫌いとはほぼ無関係である。いつものように、Wikipediaでの紹介記事。

円山 応挙(まるやま おうきょ、旧字表記では圓山應擧)
享保18年5月1日(1733年6月12日)- 寛政7年7月17日(1795年8月31日))

江戸時代中期~後期の絵師。
近現代の京都画壇にまでその系統が続く「円山派」の祖であり、写生を重視した親しみやすい画風が特色である。

詳しい経歴や画風、弟子達については、Wiki の 円山 応挙 を見られたい。

早速、円山 応挙の絵画の鑑賞に入る。 皆名品で、良く知られた作品です。 特に孔雀の絵は素晴らしいの一言です。


「紅梅鶴図」(三井記念美術館蔵)

 

 
 
雪松図屏風(国宝)三井記念美術館(上 - 左隻、下 - 右隻)


藤花図(六曲一双の部分) 安永5年(1776年) 根津美術館

この群鶴図の何という優美なこと。


群鶴図(左隻) ロサンジェルス・カウンティ美術館

群鶴図(右隻) ロサンジェルス・カウンティ美術館



青楓瀑布図天明7年(1787年)サントリー美術館


雪中老松図 東京国立博物館


朝顔狗子図杉戸 東京国立博物館応挙館(旧愛知県明眼院書院)


烏図

この絵を何より紹介したかったのです。


孔雀図

何という気品ある艶やかさであろうか!

今回はこれでおしまい。

2015年3月25日水曜日

早春の六甲近辺散歩

まだ肌寒いとはいえ、春めいてきました。 朝の業務を済ませてから、散歩にでかけた。運動不足解消のためであると言いながら、特に遠出はせず六甲界隈を歩いただけである。実際は、大した運動にはなっていない。

いつものように、カメラを手にして春らしい景色を写してきた。今回は、その写真集です。

自宅から篠原台をぬけて、阪急六甲駅に向かった。 神戸大キャンパス周辺や駅北の道路には、こぶしの木が植えられている。

このように、真っ白な こぶしの花が満開でした。


足まかせで歩いていて、琵琶町公園に着いた。震災後に整備された公園である。

ここに植えられている桜の木。この木は、2分咲きといったところか。まだ殆どが蕾。


こちらの桜は、五分咲き。 木によって咲き具合が違うんだね。


以前 淡路西淡地区遊歩の記事で、まだ時期が早いのではないかと書いた。六甲に帰ってきて、実は今が満開の時期であることを知った。間違いでした。すまぬ。


これが、琵琶町公園の全貌。中央の建物が公民館(だったと思う)。


公園のお花を見ていこう。 ラベンダー 、こでまり、パンジー、デイジー、葉牡丹 その他名前の(私が)同定できない花々。







園芸種ばかりだが、それにしてもやはり春になると、彩は豊かになるのである。

足まかせで歩いていると、いつも似たようなコースになる。 JR六甲道駅をくだり、新在家運河にでた。 灘の酒蔵

コーナンの裏手にある若宮神社にお詣りをしてから、都賀川河口にむかう。いつもの散歩コースそのものです。神戸灘区 若松神社


河口の近くで植えられてあった桜。背は高くないが満開です。


都賀川河口に架かる橋は、現在修理中でした。







以下4枚は、10日前の工事中の写真。余り進んでいませんな。






 ということです。 

灘浜サイエンススクエア横にある公園の景色。菜の花が満開。暇そうな爺さんはどこにでもいる。


公園内では、このように葉桜も花をつけている。


ここには、かって防波堤と灘浜灯台があったのである。


その名残り。手入れは余りなされていない。


公園には、釣りにきている人が3,4名いた。聞いてみると、生餌(ぶつえび)でチヌ鯛を狙っているとの事だが、全く釣れないそうである。

公園近くの歩道で咲いていたこぶしの花。満開です。すぐに花が茶色になって落ちてしまうので、今が見ごろですね。


都賀川を上流に向かって登っていく。相変わらず、鴨が泳いでいる。きれいな水流である。


餌取りに夢中。



かくして、自宅まで坂道を登って帰っていったのである。 今回は、これでおしまい。

2015年3月24日火曜日

柳田國男 山の人生

人間が生きるとは、よくわからなくなる時がある。

柳田國男は有名な民族学者であるが、その著書「山の人生」にある話から。

以下 青空文庫からのコピペ。 柳田國男 山の人生
 

山の人生

柳田国男


目次はこうなっている。 自序だけ写す。
+目次
+自序
+一 山に埋もれたる人生あること
+二 人間必ずしも住家を持たざること
+三 凡人遁世のこと
+四 稀に再び山より還る者あること
+五 女人の山に入る者多きこと
+六 山の神に嫁入すということ
+七 町にも不思議なる迷子ありしこと
+八 今も少年の往々にして神に隠さるること
+九 神隠しに遭いやすき気質あるかと思うこと
+一〇 小児の言によって幽界を知らんとせしこと
+一一 仙人出現の理由を研究すべきこと
+一二 大和尚に化けて廻国せし狸のこと
+一三 神隠しに奇異なる約束ありしこと
+一四 ことに若き女のしばしば隠されしこと
+一五 生きているかと思う場合多かりしこと
+一六 深山の婚姻のこと
+一七 鬼の子の里にも産まれしこと
+一八 学問はいまだこの不思議を解釈しえざること
+一九 山の神を女性とする例多きこと
+二〇 深山に小児を見るということ
+二一 山姥を妖怪なりとも考えがたきこと
+二二 山女多くは人を懐かしがること
+二三 山男にも人に近づかんとする者あること
+二四 骨折り仕事に山男を傭いしこと
+二五 米の飯をむやみに欲しがること
+二六 山男が町に出で来たりしこと
+二七 山人の通路のこと
+二八 三尺ばかりの大草履のこと
+二九 巨人の足跡を崇敬せしこと
+三〇 これは日本文化史の未解決の問題なること
+山人考
+一
+二
+三
+四
+五
+六
+七

自序



 山の人生と題する短い研究を、昨年『朝日グラフ』に連載した時には、一番親切だと思った友人の批評が、面白そうだがよく解らぬというのであった。
ああして胡麻ごまかすのだろうという類の酷評も、少しはあったように感じられた。
もちろん甚だむつかしくして、明晰めいせきに書いてみようもないのではあったが、もしまだ出さなかった材料を出し、簡略に失した説明を少し詳しくしてみたら、あれほどにはあるまいというのが、この書の刊行にあせった真実の動機であった。
ところが書いているうちに、自分にも一層解釈しにくくなった点が現れたと同時に、二十年も前から考えていた問題なるにもかかわらず、今になって突然として心づくようなことも大分あった。
従ってこの一書の、自分の書斎生活の記念としての価値は少し加わったが、いよいよもって前に作った荒筋の間々へ、切れ切れの追加をする方法の、不適当であることが顕著になった。しかしこれを書き改めるがために費すべき時間は、もうここにはないのである。
そのうえに資料の新供給を外部の同情者に仰ぐためにも、一応はこの形をもって世に問う必要があるのである。
なるほどこの本には賛否の意見を学者に求めるだけの、まとまった結論というものはないかも知れぬが、それでも自分たち一派の主張として、新しい知識を求めることばかりが学問であることと、これを求める手段には、これまで一向に人に顧みられなかった方面が多々であって、それに今われわれが手を着けているのだということと、天然の現象の最も大切なる一部分、すなわち同胞国民の多数者の数千年間の行為と感想と経験とが、かつて観察し記録しまた攻究せられなかったのは不当だということと、今後の社会改造の準備にはそれが痛切に必要であるということとは、少なくとも実地をもってこれを例証しているつもりである。
学問をもって文雅の士の修養とし、ないしは職業捜索の方便と解して怪まなかった人々は、このいわゆる小題大做たいさに対して果していかなる態度を取るであろうか。それも問題でありまた現象である故に、最も精細に観測してみようと思う。
(大正十五年十月)


私の記載したいのは、つぎの最初の逸話。

 

一 山に埋もれたる人生あること


 今では記憶している者が、私の外には一人もあるまい。
三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃みのの山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、まさかりり殺したことがあった

  女房はとくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あった
そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘をもらってきて、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。
何としても炭は売れず、何度さとへ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。
最後の日にも空手からてで戻ってきて、飢えきっている小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。

  眼がさめて見ると、小屋の口一ぱいに夕日がさしていた。
秋の末の事であったという。

二人の子供がその日当りのところにしゃがんで、しきりに何かしているので、傍へ行って見たら一生懸命に仕事に使う大きなおのいでいた。

阿爺おとう、これでわしたちを殺してくれといったそうである。

そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向あおむけに寝たそうである

それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落してしまった。
それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられてろうに入れられた。

 この親爺おやじがもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中へ出てきたのである。
そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分らなくなってしまった。

私は仔細しさいあってただ一度、この一件書類を読んで見たことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持ながもちの底でむしばみ朽ちつつあるであろう。

人生とは、何なのかさっぱり分からなくなるのである。
何を苦しんで為そうとしているのかも、さっぱりわからない。 

訳が分からず、生きているのである。

辻井 喬 あすへの話題 I

辻井 喬  深夜の読書  新潮文庫 昭和62年5月刊行



の中に あすへの話題 という日本経済新聞に昭和49年7月12日から12月27日まで毎週連載されていたエッセイが載せられている。

そこには、動物植物愛玩物に対して、触発された辻井 喬の想いが述べられている。

御存じと思うが、辻井 喬とは堤清二のことである。 2013年11月25日に86歳で亡くなられた。覚えておられる方も多いと思う。 Wikipedia よりの引用。



堤 清二 / 辻井 喬
(つつみ せいじ/つじい たかし)
ペンネーム辻井 喬(つじい たかし)
横瀬 郁夫(よこせ いくお)
誕生堤 清二(つつみ せいじ)
1927年3月30日
死没2013年11月25日(満86歳没)
職業実業家・小説家・詩人
言語日本語
国籍日本の旗 日本
教育博士(経済学)(中央大学・1996年)
最終学歴東京大学経済学部
ジャンル小説・詩・随筆
代表作『虹の岬』(1994年)
『父の肖像』(2004年)
『鷲がいて』(2006年、詩集)
主な受賞歴室生犀星詩人賞(1961年)
平林たい子賞(1984年)
高見順賞(1993年)
谷崎潤一郎賞(1994年)
芸術選奨(2000年)
藤村記念歴程賞(2000年)
野間文芸賞(2004年)
日本芸術院賞・恩賜賞(2006年)
現代詩花椿賞(2006年)
読売文学賞(2007年)
現代詩人賞(2009年)
親族堤康次郎(父)
堤義明(弟)
森田重郎(義弟)



実業家としても、文学者としても大きな業績を残された方である。

あすへの話題 で取り上げられた各話題について、今回は画像つきで辻井 喬の言葉を選びだしたい。 文章は恣意的に選んでいるので、本来の彼の作品自体とは何の関係もない事を注意しておく。揶揄したり冒涜している積りは全くありません。ある意味でパロディーの積りです。何回か不定期でつづける予定。


一本の匙



たとえば一本の匙を見たときに、ある人は、「これは純金か合金か」と考えるであろうし、商人は産地と小売価格を知りたいと思い、かって文学少年であった男は、中勘助の「銀の匙」という作品を想起するに違いない。


今「銀の匙」というと、これしかないですね。


映画も面白かったですね。



一本の匙が語り掛ける内容は、見る人、触れる人によって無限のひろがりと深さを持っている。生活の道具は、人間にとってしばしば、歴史社会の代表者として存在している。

まあ、こんな風にずっこけ紹介の予定です。

カラス


一日、青嵐の吹き荒れたような日、夕焼けに染まる西の空を背景にして、漆黒のカラスが鳴き叫び、散らばり、もつれ、にわかに上昇し下降するさまは、いささか不気味であった。

実は、上の画像はアニメです。実物のカラスの群の画像はこれです。


やはりというか、余り迫力はない。

有名なポーの「大鴉」と言う作品

ギュスターヴ・ドレの挿絵


 

加島祥造の訳


有名なポーの肖像写真と、映画 THE RAVEN の一シーン。




紫陽花



この花の色は、日ざしの強さ明るさ、雨の強弱、そして時の経過に従って、から臙脂薄紅色を経て白へと、その変化には限りがない。しかし、よく見るとそれは一つ一つのが独立して変わることによって、花全体の色調が広がり移ろっていくのだ。

 

そういえば、葛飾北斎の絵に紫陽花を描いたものがある。


あじさいに燕
 
サニーデイサービスの曲 『あじさい』 です。 映像を見ながら曲を楽しんでください。
 
あじさい
 
 

ホタル



蛍のことは、むかし’’火垂る’’または’’星垂る’’と書いた。源平の戦いに敗れて、山奥逃げた落人の呼び名だという話を、どこかで読んだような記憶もある。
平家の残党を追ってきた軍団が、夜の峠に立って見渡すと、はるか遠い谷間に点滅する火が見えた。「さてこそ」と勇み立つ武士たちにむかって村人が「あれは、星垂るの光だ」と偽ってかばった、という話である。



連想で思い出すのは名作アニメ「火垂るの墓」ですね。原作は、野坂昭如で、アニメ監督は高畑勲監督です。

 

感動的な作品です。

カタツムリ


ピレネー山脈のフランス側の山間には、数百年を経たと思われる村が散在し、遠くからながめると、緑の滴りに浮かぶ枯葉色の砦のようだ。

そのなかのある村に、野生のカタツムリを料理するレストランがあった。




創造的な仕事にとっては、情報や現象を主体性の深い部分において受け止める忍耐が必要だった。どんなに遅々としていても、蝸牛の歩みは、決して蝸牛以外の歩みではないことの結果として、夏でも雪をいただくピレネーの山頂に到着するのだから。



人を励ますような良い文章ですね。これを引用したかったわけです。

実際のカタツムリは、繁殖力旺盛で至る所で縄張りを広げている。 例えば、アフリカマイマイはアメリカのフロリダにまで進出している。



こんな動画がある。

米フロリダ(Florida)州では、人間とアフリカからやってきた「巨大カタツムリ­」との仁義なき闘いが続いている。人間の手のひらほどの大きさもあり、目に見えるもの­はすべて食べつくすというアフリカマイマイからフロリダを守る人々の奮闘を取材した。


「巨大カタツムリ」と人間の仁義なき闘い

以下つづく。あすへの話題シリーズは、時々連載する予定。 今回はこれでおしまい。