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2014年3月14日金曜日

関東大震災とろんどん丸

 

今朝 愛媛で震度5強の地震があった。 
震源は、瀬戸内海西部の伊予灘で、M6.2 と推定される。 死者はいない。


愛媛県の伊方原発には異常はなかったそうだ。 ほっとした。


これは、広島県呉市での被害状況だ。 被害甚大という訳でもなさそうだ。
しかし、まだ1週間ほど余震に注意しなければならないという事だ。 
地元の方は気が気でないだろう。 南海トラフの余震か? と思ったが直接関係はないらしい。

大地震が起こってしまったら、できるだけ人的被害を最小にするために皆で協力していかねばならない。 毎日新聞の記事で、愛媛県危機管理課課長の談話を読んでいてそう思った。

以前読んだ、神戸大学海事科学部 国際海事教育研究センターの記事を思い出した。

ボランティア船の過去・現在・未来
(災害時の緊急支援ボランティア船の構想)


石田憲治  游大悟  有馬英利
三原伊文(大島商船高専) 著

という題目の論文で、ボランティア船の震災時に果たすべき支援についての構想をのべている。

その2節に、関東大震災 における船舶の活躍例 として ろんどん丸 が挙げられている。

関東大震災 では、 デマに惑わされた日本人暴徒が多数の朝鮮人を虐殺した など
悲惨なことばかり起こったように我々は思いがちだ。


しかし、そうでもない例がこれなのだ。 その話を書きたい。 

今から91年前の 1923(大正12)年9月1日午前11時58分、
M7.9という大地震が関東地方を襲った。 関東大震災だ。

死者は約10万5千人 (東京市で6万8千5百人、神奈川県で3万2千人)。
京浜地区の工場の半分は倒壊ないし焼失し、焼失家屋は約37万2,700戸に上った。
その日 9月1日の横浜港には多くの船が停泊しており、出船入船でにぎわっていた。
その中に、大阪商船の 「ろんどん丸」、「ぱりい丸」、「湖南丸」があり、
東洋汽船の 「これあ丸」 があった。


これが、上田毅八郎  描くところの ろんどん丸 です。 写真はこちら。


これあ丸 の写真は、絵葉書でしか見つからなかった。



大震災において、現地の惨状の第一報を壊滅した陸上通信施設に代って
世界中に発信したのは停泊中の ろんどん丸 と これあ丸 であった。

ろんどん丸の二等航海士だった岡田俊雄氏の写真。
戦後,大阪商船の社長として三井船舶との合併を実現し,大阪三井商船の初代会長になった。


                    (1896(明治29)年〜 1984(昭和59)年)

UNABARA という商船三井グループの Communication Magazine  No.553
に 関東大震災  の記事がある。 

そこには、陸上交通・通信施設が破壊された中で、
船舶は必死に救助活動に取り組み、その活躍の姿が語られている。

詳しくは、上の記事を読んで頂くことにして、 少しばかり引用したい。


   陸上の通信機関は震災勃発後わずか2、3分で、すべて破壊されてしまい、
   東京・横浜と各地との通信は途絶した。
   惨状の第1報は「ろんどん丸」、それに同様に横浜在泊中の東洋汽船の

   「これあ丸」から大阪に送られた。
   「これあ丸」の無線に第1信を打たせたのは神奈川県の森岡警察部長だった。
   彼は燃えさかる火の中をくぐり抜けて埠頭にたどりつき、
   そこにあった小さな蒸気船を目がけて制服のまま海中に飛び込み、
   その蒸気船で沖に停泊中の「これあ丸」に行き
   「地震のため横浜の惨害その極みに達す、最大の救助を求む」と
   内務大臣、警視総監宛てに至急電を打った。

   だがこれを受け取った東京は電報を送る方法がなかった。   
   「これあ丸」は、なお電信を打ち続けた。「これあ丸」だけではない。
   「ろんどん丸」もまた、電信を打ち続けていた。
   この両船のみでなく、おそらく停泊中の船舶で無線設備を有する船という船はすべて
   必死に打電したのだろうが、いわゆる“花火式”で性能は悪い。
   「ろんどん丸」に装備されていた無線も3キロワットの瞬間花火式送信機であった。  
   横浜の惨状が大阪に届いたのは翌2日未明のことであった。
   それは、「これあ丸」、「ろんどん丸」からのものであり、

   それぞれ2日午前3時と午前4時である。
   震災発生から15、16時間も経過していたが、これが第1報だったのである。


   岡田二等運転士の見た光景
    
   当時28歳だった岡田は、この世の終わりと思われる情景を見続けることになる。
    船は、猛烈な勢いで岸壁に引き寄せられていった後、今度はゆっくりと離れていった。
   港の光景は一変していた。岸壁は陥没し、港の大クレーンは崩壊しており、
   さっきまで岸壁にいた沖仲仕たちや客待ちの人力車の車夫たちの姿は忽然と消えていた。
   海面には、車夫のまんじゅう笠がいくつか漂っている。

   目を市街地方向にやると、街並みは全く見えない。
   そこは、ただ一面もうもうと砂塵が舞い上がっているだけである。

    しばらくすると、砂塵の中から、あちこちと火の手が上がった。
   猛火に追われて人々が海へ、海へと殺到し、岸壁はこうした人たちでごった返した。


電報内容は、つぎのようであった。

 「大地震に引き続き大火災起り、全市殆ど火の海と化し、
 死傷者何万あるやも知れず。 交通通信機関全部不通、飲料水食料無し、
 至急救援を乞ふ」


記事の引用をつづける。

   大阪の大阪商船本社でも、「ろんどん丸」からの連絡で、
   ただちに臨時震災救護輸送部を設け、
   とりあえず9月2日午後6時、大阪に停泊中の「しかご丸」を横浜に急航させた。
   この船には救護班や新聞記者を乗せていた。 もちろん無料である。
   大阪商船が直接震災救援のために投入した船舶は21隻9万8,000トン、
   輸送した罹災者や救護員は約9,000名、荷物は約3万4,000トン。
   このほかに阪神と各地方を無賃輸送したのは罹災者4,500名、救護品4,000トンに上った。


岡田の回想談を一部引用する。

   『猛火に追われ、津壁に避難して来たものの、岸壁は陥没しており、
   岸壁からろんどん丸に架けられていた渡船橋もどこかに飛び去り、
   人びとは降り注ぐ火の粉と吹きつける熱風のなかで、ただ助けを求めて叫ぶだけである。
   これを見たろんどん丸は、幸い舷側にあった荷物艀を動かし、
   残っている岸壁と船の間に渡して岸壁とろんどん丸を連結させた。
   避難者たちは、先を争って岸壁から作に飛び降りた。
   これを荷役用のモッコに一〇人、一五人と乗せてウインチで吊り上げ船上に収容する。
   一時間余りで約二〇〇〇人を、こうして救助した。
   そうこうするうちに猛火は岸壁まで押し寄せ、ろんどん丸にも危険が追ってきたため、
   港外へと徐々に後退をはじめた。〈以下略〉
 

    『横浜全市の大火災を背景に渦巻く煙に、空は夕暮れどきの様相を塁し、
   この世の終わりを思わせる不気味の中を、吹きすさぶ突風を冒して港外へ向かっている

   本船を必死に追ったときの思い出は、今なお忘れることができない」

その他にも、心温まるエピソードがあるが興味のある方は上の記事を読んで頂きたい。

その結果、

• 地震発生当日に横浜港に停泊していた船舶が救助した人命は1万3000人に上った。  

実に犠牲者の1割に達する人命が救われたのである。

このような事があったことを、私達は記憶せねばならないと思う。 

ろんどん丸の最後

処女航海以来20年近くにわたって、欧州、北米、南米、インド、アフリカ、豪州航路客船を
歴任したろんどん丸は,昭和16年に陸軍に徴用される。
開戦劈頭のマレー半島作戦にも参加し、戦車隊、トラック部隊そして銀輪(自転車)部隊を
シンゴラに上陸させた。それ以降も南方の資源物資を日本に運んだろんどん丸だが、
昭和19年4月22日に最期を迎える。 

メコン河口に碇泊中の船団にあった ろんどん丸 を襲ったのは米軍のB24爆撃機だった。 

3発の命中弾と数発の至近弾を浴びて ろんどん丸 は河口深く沈んでいった。


しかし、ろんどん丸は再建されたらしい? それとも 河口からひきあげられたのか? 

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