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2014年4月8日火曜日

従妹の夫のお葬式 

昨日の朝、従妹から、その旦那様が亡くなったという電話があった。 
父の5年前のお葬式にも来てくれた父方の従妹だ。 
明石に住んでおられ、高校と大学のころには、時々遊びに行ったものだ。 

おばさんには、イカナゴのくぎ煮やフルセの付け焼きなどの魚料理をよくご馳走になった。
おばさんの旦那さまが漁師をやっており、生きのよい魚がよく手に入ったからだ。

その娘さんの旦那さんが心臓麻痺(正確には循環器疾患だそうだ)で急死したのだ。
数えで73歳だから、満72歳で私より7歳上だけだ。 

伺った話によると、朝はまだ元気で花見の話などをしていたそうだ。 
具合が悪くなり、心臓のマッサージをしたが蘇生せず救急車で病院に送ったときには
既にこと切れていたそうだ。 
ほとんど苦しまなかったので、ある意味では幸せであったかもしれぬ。 

彼は、私の印象では豪快な遊び人であった。 

従妹は、苦労したのだろうと思う。 漁業組合の販売所で働きつづけ、生計を支えた。 
詳しくは知らないが、組合では重要な役職をこなしながら、3人の子供を育てた。 
今は元気なお婆ちゃんになっている。 私より、7、8歳上だったと思う。 
一時は、癌で体調を崩していたが持ち直したようだった。 
大きなお家を建て、老後の安定した生活を営んでいたところだったのだ。

 
末の息子は、高校野球で大活躍をし、滝川第二高校だった、 親父が甲子園まで行って応援をしたので良く憶えている。 プロ野球に進んだが、そこでの活躍はならなかった。 
同期に中日の谷繁がいる。 プロで生き残るというには、大変なことなのだ。 

前日のお通夜は、遠慮させて頂いた。 母の足が悪いせいでもある。 長時間歩けないのだ。

今日11時から、明石の葬儀場でお葬式が行われる。
私は付き添い役も兼ねて一緒に参列することになった。 母のボデーガードだ。 
久しぶりの喪服は、腹回りが窮屈だし、ネクタイがうまく結べない。 困ったものだ。

朝9時半に家の前からでるバスに乗り、JR六甲道まででる。 
バスは、乗客で一杯であった。 足の悪い母を座席にすわられせてやりたいがそれはならず。 
またバスの運転が荒いので、車体の揺れが大きく体を支えるのも大変なのだ。 
乗客は老人ばかりなのにと、密かに運転手に立腹する。  

明石駅は、久しぶりだ。 ここは、JRと山陽電車が乗り入れている。 

明石たこ とか 明石鯛が有名だ。 駅まえのモニュメントだ。 


明石城の櫻は、満開らしい。 タクシーのって、あかし斎場 旅立ちの丘  へ行く。 
明石市民のための、市営葬儀場だ。 
最近の形式で、お葬式と会食、そして火葬とが一緒にできるようになっている。  
また、初七日までもお寺さんでやってくれる手筈になっている。 

葬儀には、2人の私の叔父が来てくれていた。 そのうちの一人は、よく母親のところにご機嫌伺いに来てくれていた。 親父の釣り仲間でもあったのだ。 
最近ご無沙汰しているなと思っていたが、 奥さんが脳梗塞で倒れその看病に当たっていた
からだそうだ。 今は元気になったが、近々阪大の循環器センターでの検査に行かねばならない
という。 奥さんは、病気などしそうもない本当に元気な人だったのだ。 
今は70歳の前半だと思う。 わからないものだ。 もう一人は、実に元気で82歳だ。 
箕面から車を運転して、葬儀場まできている。 大きな病気もなく、毎日ゴルフをしているそうだ。
一寸付きあいにくいお方である。 元某会社の社長であった。 ひとそれぞれだと思う。  

1時間ほどで、葬儀が終わり、 故人に献花をする際に思いがけず母が泣いた。 
死に顔を見たからだ。 化粧はされていたのだろうが、元気そうな顔をしていたのだ。 
苦しんだ末の死に顔ではない。 私は泣けない。 

私には、故人はあまり話をしたこともない縁遠い人である。 悲しいという感情とは無縁であった。 
懐かしい顔というのもそう多くはない。 従妹と息子さんたち、別の従妹だけであった。
宗派により葬儀の形式やお坊さんのお経の作法は変わるものだなというのが、
真っ先に受けた印象だ。 
しかし、司会者による進め方は同じだ。 ルーチンに乗っ取って同じように処理されていく。 
故人の個人らしさは、小さなエピソードとして紹介されるのみだ。 
それとて、来客好きで情に厚く、家の豪華なお風呂が自慢とかというありふれたものだ。  
母や私の葬儀もまたそのようにして、処理されていくのだろう。  
人は、どのように生きようとも、その死はありきたりの儀式で処理される。 
死者の思いは、生者の記憶にしかなくそれとても誤解に満ちたものなのだ。 

会食は、仕出し屋の懐石料理であった。 お造り、天ぷら、お酢のものなどであった。
とこぶしの煮つけが付いていたのが珍しいと思った。 
かなりボリュームがあり、母は残し、私はほぼ全て食べたので満腹になった。 

故人は、体格の良い人だったので、火葬に通常より時間がかかり、 
また近親者が多かったので骨上げに時間がかかった。 しっかりとした背骨が残っていた。 
私も、1片のお骨を骨壺に収めさせて頂いた。 

骨上げ後、すぐに初七日の法要を行う。 
従妹の末の息子さんが、我々を菩提寺まで運んでくれた。 
今は地元の明石で働いている、髭を生やしたナイスガイであった。 
無口な母が彼に話かける。 親父が甲子園に応援に行った話だ。 
彼の話によると、高校野球のころからは、もう25年も経ったそうだ。 
対戦した高校のことはよく覚えていた。 
でも 彼にとっては、親戚の皆が話題にする迷惑な昔話でしかないのだろう。

菩提寺は、戒光院 だ。 宗派は天台宗。 それで、お経が真言宗と違っていたのだ。


縁起: 

戒光院は孝徳天皇の大化年中に天竺の僧法道仙人が開創した。
大寺院善楽寺開創と共に開創され、善楽寺の中心に在り、昭和20年7月7日の戦災によって
すべて灰燼に帰したが、同53年12月、昭和の再建を始める。
御本尊は京都の大佛師、松下宗琳作。京都大原三千院の阿弥陀三尊をモデルにして、
金粉、金箔仕上げの三尊は新本堂に安置されている。
新本堂は昭和61年11月に着工、一年余の工期を経て見事に完成した。
総ヒノキの入り母屋造り、銅板ぶきの大屋根は壮麗なものである。 
昭和63年3月30日、天台座主猊下大導師のもと、盛大に落慶大法要を厳修した。


境内には、魚籃観世音菩薩 が祀られている。 さすが、魚の町 明石です。


2階が本堂になっており、そこで法要が営まれる。

本堂の中は、真新しい。 写真を撮らせて頂いた。 このようになっている。



ここで、初七日の法要を終え、お坊様の有難い講話を聞かせていただく。 
諸行無常の世であるが、宗祖最澄の教えをまもりつつ心楽しく生きようというお話でした。

合掌 

故人をしのび、最後はお花で終わりたい。



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