上陸記に入るまえに、軍艦島の観光パンフを挙げる。六つ折りの一枚物である。
島の暮らし、端島の歴史、炭鉱の仕事、島の仕事についての説明がある。
裏面は、廃墟となった建物の説明。
軍艦島コンシェルジュの作成した宣伝動画。事前にこの動画を見ていたらと思った。
地図を拡大する。
赤の部分が、上陸して見学できる場所である。第1見学広場から第3見学広場まで三ケ所ある。
写してきた写真と説明書に沿って解説する。
ドルフィン桟橋に降り立ってから、第1見学広場に集合した所です。
右に小さく並んで見えるのは、右に見えるのは、べルトコンベアーの支柱である。石炭を貯蔵したり運搬船に積み込む時に用いたとある。その奥に見える建物が端島小中学校。前回、海からの写真をアップした。
この四角い建造物が、水洗機ブロアー室。石炭を選別する装置が置かれていたそうだ。
右端のピンクのTシャツを着ている方が、ガイドの浜口さん。上手なガイド説明でした。外国の方にも時折英語で話していた。コンシェルジュガイド案内より。
ガイドのアシスタントは、お2人の女性。手にした関連写真集を両手で上に掲げて見せてくれていた。
第1見学広場から見た風景。
崖上に見えるのが、貯水場跡。
崖の上に建っているのは、3号棟で幹部職員用の社宅である。やっぱり一番見晴らしも良い訳だね。社宅のなかでも3号棟は特別で、室内風呂も設置されていた。この棟以外は家の中にお風呂はなく、ほとんどの島民は公衆浴場を利用していたとある。
中央左端にある土台だけが残っているのは、粉炭を選別する浮選機室の跡である。
奥に見えるのは、端島小中学校。1958(昭和33)年に建てられた7階の建物である。1~4階が小学校、5,7階が中学校になっていた。給食を運ぶ島で唯一のエレベーターもあったそうだ。アシさんが手に掲げているのは、当時の小中学校の写真。
ピントが合わなかったが、下請け業者用宿舎であった30号棟。
つぎに第2見学広場。
写真中央に見えるのが、第2堅坑坑口桟橋跡の階段。炭鉱夫はこの階段を使い、エレベータに乗り、海面下600mまで降りて石炭を掘り続けていた。採掘作業は最終的に海面下1000m以上の地点にまで達した。すごいものですね。
レンガ造りの建物は炭鉱の総合事務所として使われていた。この事務所内には炭鉱員のための大きな共同浴場があった。浴槽はいつも真っ黒だったそうだ。鉱員たちは作業後に着衣のまま海水を沸かした風呂に飛び込み、それから真水が利用された上がり湯に入った。
その周辺は、このように瓦礫の山である。
天川(あまがわ)という接着剤を用いた石積み工法の堤防が左向こうに見えている。台風でコンクリート堤防が決壊したりしてこのような状態になっている。天川を使った堤防は島内のあちこちに残っている。(注:天川とは、石灰と赤土を混ぜた接着剤のこと。)
中央奥に小さくみえるのが、肥前端島灯台。この白い灯台は無人島となってから建てられたものである。それまでは人家と炭鉱の灯りが24時間灯っていたため、灯台は不要であった。
第3見学広場へ向かう通路からの写真。瓦礫の山の連続である。灯台がメルクマークになっている。
ここが第3見学広場。目の前に見えるのが、
先ほどのピントの合ってない写真の、30号棟である。下請け業者用宿舎。
国内最古の鉄筋コンクリート造アパートである。
崩壊が進み、内部の様子は、この様である。
上空では、ヘリが周回していた。何だろうねと思ったが、どうやら新聞社の取材のようだ。
30号棟の左横にあるのが、鉱員用住居の31号棟である。
私が軍艦島に上陸したという証拠写真。
仕上工場を側面から写したもの。
高島町立プール跡。1958年に完成した。通称「南部プール」と呼ばれていた。学校では、潮の流れが速いため海では遊泳禁止だった。そのためプールが作られた。25mプールと幼児用プール。真水が貴重な軍艦島ではプールでは海水を使用していた。
鍛冶工場。 炭鉱で必要な器具を製作するために建造された。南側の壁は崩壊している。
その崩壊の様子。
見学通路から岸壁を望む。ここにも、コンクリの崩れた破片が散らばっている。
見学を終了し、ドルフィン桟橋へと戻る。
桟橋からの岸壁風景。奥にみえるのが中之島。
かくして、軍艦島と別れを告げたのである。
帰路遭遇した帆船。 日本丸と思える。
長崎港で長崎帆船まつりが開かれているので、この海域に帆船が集結しているのである。
後篇はこれでおしまい。 軍艦島についての、薀蓄記事は別に書く予定である。
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