「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」
への登録が審議されるが、その目玉となるのが「軍艦島」である。
人気の観光スポットで、予約しないと行けない。乗船誓約書も必要です。その上天候が悪いと欠航もある。我々は、軍艦島コンシェルジュに2週間前に予約ずみで、幸い天気も良く波も荒くない。万全の態勢である。
しかし、迂闊にも(ワイフが)乗船場所を確認しておらず、てっきり長崎港のターミナルビルとばかり思い込んでいたのだ。窓口で予約されていないと聞いてびっくり。(ワイフが)電話で予約先を確認して、常盤桟橋(赤で示したターミナル)から出港すると判明。全く(ワイフが)ドジな話だが、お蔭でベイエリアを周れたし、県美術館にも入れたので、結果的には却って良かったのである。ワイフのお蔭である。
ここでWikipediaからの基礎知識。
端島 | |
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端島(南西側、2009年撮影) | |
座標 | 北緯32度37分40秒 東経129度44分18秒 / 北緯32.62778度 東経129.73833度座標: 北緯32度37分40秒 東経129度44分18秒 / 北緯32.62778度 東経129.73833度 |
面積 | 0.063 km² |
海岸線長 | 1.2 km |
最高標高 | 47.7 m |
所在海域 | 五島灘 |
所属国・地域 | 日本(長崎県) |
端島(はしま)
長崎県長崎市(旧高島町)にある島である。
明治時代から昭和時代にかけては海底炭鉱によって栄え、東京以上の人口密度を有していたが、1974年(昭和49年)の閉山にともなって島民が島を離れてからは、無人島である。
軍艦島(ぐんかんじま)の通称で知られている。
地理的な説明:
端島は本来は、南北約320メートル、東西約120メートルの小さな瀬であった。
その小さな瀬と周囲の岩礁・砂州を、1897年(明治30年)から1931年(昭和6年)にわたる6回の埋め立て工事によって、約3倍の面積に拡張した。
その大きさは南北に約480メートル、東西に約160メートルで、南北に細長く、海岸線は直線的で、島全体が護岸堤防で覆われている。
面積は約6.3ヘクタール、海岸線の全長は約1200メートル。
島の中央部には埋め立て前の岩山が南北に走っており、その西側と北側および山頂には住宅などの生活に関する施設が、東側と南側には炭鉱関連の施設がある。
これから写真説明していきますが、実に面白かったですね。現在は不可能ですが、廃墟の中を歩いて周りたいと痛切に思いました。
我々の利用した、軍艦島コンシェルジュは1日2便で、料金はつぎのようになっている。幸いなことに平日料金で、大人3600円+入場料300円=3900円 でした。高くはない。それだけの価値はある。外国人観光客も2割ほどいました。
※当日はお電話にてお問い合わせください。
【1名~14名】大人:300円/小人:150円
【15名以上】大人:240円/小人:120円
※中学生以上は大人料金
我々の乗った船、マーキュリー号。
船から、対岸の四海楼を写した。 長崎旅行記 I
出港前に。ビデオで軍艦島の歴史などについてレクチャーを受ける。
午後1時40分に出港。端島に着くまでの景色を写した。
奥に見えるのが稲佐山山頂。
三菱重工業長崎造船所の古いクレーン。
三菱重工の社屋。
ドックで建造中のタンカーや客船。
奥に見える古いクレーンが、産業遺産の一つであるそうだ。
この橋が、長崎港の港口にかかる女神大橋である。
その真下から、橋を見上げる。
全長1289m。水面から非常に高く建設されている。前回写した、豪華客船などが容易に通過できるようにするためだね。高さ170mとあるから、半端ではない高さである。宙に浮いているという感じがする。
行路の風景。
名の知れぬ無人島。
岸壁の上に大きな白いマリア像が立っている。その背後に見える白亜の建物が、神ノ島教会である。
そのマリア様のお姿。
三菱重工業長崎造船所の香焼工場デッキ。
向こうに見えるのが、伊王島のリゾート施設。「長崎温泉やすらぎ伊王島」である。
伊王港の様子。帆船が停泊してますね。
馬込教会である。調べてみると、1931(昭和6)年竣工であり、工事は地元伊王島船津の大工棟梁大和和吉が施工し、松岡孫四郎神父が指導したと伝えられている。煉瓦造教会堂としては最初期のもの。次回解説の予定だが、昭和の初期に日本人大工により造られた教会が多いのです。
伊王大橋
対岸の長崎市香焼町とを結ぶ、2012年3月27日に開通した新しい橋。長さ876mで、やはりかなり橋高がある。
でも高さ25mだから、大型の客船は通れない。ビルみたいな豪華客船はダメですね。
この島でも採炭されていたそうである。この地域一帯が石炭の採掘場であったわけだ。
端島(軍艦島)が見えてきた。正しく、軍艦のような姿である。天気は良いのだが、黄砂かpm2.5かの影響で空は少し霞んでいる。
手前にある中之島。この島では、端島で出た死者の葬儀などを行っていたそうだ。
晴れていると軍艦島(以下端島と呼ぶ)は、このように見える。
端島に近づいていく様子を連続的に写真に撮ってみた。
先客の観光船がやってきて、
岸壁に接岸し、
乗客を降ろしてから、出岸する。その様子を海上で待機しながら見守ったのである。
我々の船は、岸に近づき
この近場から島を一周したのち上陸するのである。
島の船上からの写真をアップする前に、端島の建造物についての説明を行う。
島の上空写真はこれである。(2008年撮影)
反対方向からの航空写真。(2009年撮影)
埋め立ては、このように6期に渡ってなされ、
建造
多くの建造物が残っている。
鉱員社宅を青、職員社宅を薄紫、その他を緑としている。上陸して見学できる場所は赤の部分で、島全体から見ればごく一部である。
建物群の詳細なデータ:
建物名 | 建設年代 | 構造・階数 | 建物用途 | 住居戸数・増築歴・内部の公共施設・倒壊の有無 |
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1号棟 | 1936年 (昭和11年) | RC+木造1F | 端島神社 | 拝殿は木造(全壊)、本殿と境内はRC造(現存) |
2号棟 | 1950年 (昭和25年) | RC造3F | 職員社宅 | 9戸 |
3号棟 | 1959年 (昭和34年) | RC造4F | 職員社宅 | 20戸。幹部用。内風呂あり(集合住宅では3号棟のみ) |
5号棟 | 1950年 (昭和25年) | 木造2F | 鉱長社宅 | 1戸。内風呂あり。ほぼ全壊 |
6号棟 | 1936年 (昭和11年) | 木造2F | 職員単身寮 | 全壊 |
7号棟 | 1953年 (昭和28年) | 木造2F | 職員クラブハウス | ほぼ全壊 |
8号棟 | 1919年 (大正8年) | RC+木造3F | 職員社宅 | 4戸。1階に共同浴場 |
12号棟 | 1925年以前 (大正14年) | 木造+鉄筋3F | 職員社宅 | 3戸。半壊 |
13号棟 | 1967年 (昭和42年) | RC造4F | 町営住宅 (教職員用) | 12戸 |
14号棟 | 1941年 (昭和16年) | RC造5F | 職員社宅 (中央住宅) | 15戸 |
16号棟 | 1918年 (大正7年) | RC造9F | 鉱員社宅 (日給社宅) | 66戸。1階に外勤詰所 |
17号棟 | 1918年 (大正7年) | RC造9F | 鉱員社宅 (日給社宅) | 54戸。屋上に簡易遊園地 |
18号棟 | 1918年 (大正7年) | RC造9F | 鉱員社宅 (日給社宅) | 50戸。屋上に農園 |
19号棟 | 1918年 (大正7年) | RC造9F | 鉱員社宅 (日給社宅) | 45戸。屋上に弓道場 |
20号棟 | 1918年 (大正7年) | RC造7F | 鉱員社宅 (日給社宅) | 26戸 |
21号棟 | 1954年 (昭和29年) | RC造5F | 鉱員社宅 | 15戸。1階に警察派出所 |
22号棟 | 1953年 (昭和28年) | RC造5F | カモメ荘 (町営住宅・公務員用) | 12戸。1階に老人クラブ。2階に町役場端島支所 |
23号棟 | 1921年 (大正10年) | 木造2F | 寺院(泉福寺) | 6戸。1階は社宅、2階が泉福寺。ほぼ全壊 |
25号棟 | 1931年 (昭和6年) | RC造5F | 職員社宅 | 6戸。2階に宿泊所。スナック「白水苑」・旅館「清風荘」も |
26号棟 | 1966年 (昭和41年) | プレハブ2F | 下請作業員飯場 (旧船頭小屋) | 8戸。全壊 |
30号棟 | 1916年 (大正5年) | RC造7F | 下請飯場 (旧鉱員社宅) | 140戸。竣工時は4階建て(その後まもなく7階建てに増築)。日本最古のRC造アパート |
31号棟 | 1957年 (昭和32年) | RC造6F | 鉱員社宅 | 51戸。1階に端島郵便局、地下に共同浴場。2階部分をボタ捨てベルトコンベアが貫通 |
39号棟 | 1964年 (昭和39年) | RC造3F | 町立端島公民館 | |
48号棟 | 1955年 (昭和30年) | RC造5F | 鉱員社宅 | 20戸。地下にパチンコ屋・雀荘など |
50号棟 | 1927年 (昭和2年) | 鉄骨レンガ造2F | 映画館 (昭和館) | 閉山までの数年間は卓球場。1991年の台風によりほぼ全壊 |
51号棟 | 1961年 (昭和36年) | RC造8F | 鉱員社宅 | 40戸。地階に個人商店 |
56号棟 | 1939年 (昭和14年) | RC造3F | 職員社宅 | 6戸 |
57号棟 | 1939年 (昭和14年) | RC造4F | 鉱員社宅 | 8戸。地下にピロティ商店 |
59号棟 | 1953年 (昭和28年) | RC造5F | 鉱員社宅 | 17戸。昭和40年代、屋上にプレハブ1階分を増築。地下に生協の購買所(60号棟地下と連結) |
60号棟 | 1953年 (昭和28年) | RC造5F | 鉱員社宅 | 17戸。昭和40年代、屋上にプレハブ1階分を増築。地下に生協の購買所(59号棟地下と連結) |
61号棟 | 1953年 (昭和28年) | RC造5F | 鉱員社宅 | 17戸。昭和40年代、屋上にプレハブ1階分を増築。地下に共同浴場 |
65号棟 | 1945年 (昭和20年) | RC造9F | 鉱員社宅 | 317戸。竣工時は北側の棟のみ、7F建て(1947年から1958年にかけて増築)。屋上に幼稚園。端島で最大のアパート |
66号棟 | 1940年 (昭和15年) | RC造4F | 鉱員合宿 (啓明寮) | |
67号棟 | 1950年 (昭和25年) | RC造4F | 鉱員合宿 (単身寮) | 48戸 |
68号棟 | 1958年 (昭和33年) | RC造2F | 高島鉱業所端島病院(隔離病棟) | |
69号棟 | 1958年 (昭和33年) | RC造4F | 高島鉱業所端島病院 | |
70号棟 | 1958年 (昭和33年) | RC造7F | 町立端島小中学校 | 1961年に7階部分を増築(鉄骨) |
71号棟 | 1970年 (昭和45年) | RC造2F | 町立端島小中学校体育館 | 1階が武道場・給食室、2階が体育館 |
ちどり荘 | 1958年以降 (昭和33年) | 木造2F | 教員用住宅 | 6戸。RC造2Fとする資料も |
船上からの写真。
中央に見えるのが、端島神社の祠。
神殿や拝殿もあったそうだが、倒壊して現在は残っていない。
右に見えるのが、10階建ての65号棟で鉱員社宅になっている。屋上は幼稚園になっていた。
左が端島小中学校で、右が端島病院。
山頂にある職員住宅。上級職員用。
左から、端島小中学校、65号棟、端島病院。
島の中央部を望む。 現代のパルテノン神殿ですな。
行きかう軍艦島観光船。
船で言えば後尾の部分。
ここから、船は周りこんで船首の部分に向かう。
潮降り街の鉱員住宅群。
木造部分は、ほぼ完全に崩れ落ちている。
中央に白くみえるのが、新しく建てた灯台。共同浴場や郵便局のあった31号棟。
左に見えるのが、30号棟で下請社宅。
船首部分。
軍艦島の全貌。
その拡大写真。
かくして一周し終えて、ドルフィン桟橋へと向かうのであった。
ドルフィン桟橋の画像(コンシェルジュ提供)
船は、接岸に成功。
今回は、記事が長くなりすぎた。ここで、一休みする。その後の上陸記は、次回 IV 軍艦島後篇 で。
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