苦痛に耐える事の必要性と祝福を意味するように思える
などと偉そうに書いたが、私はそのような痛みに耐えられそうもない。本質的に弱虫なのである。
それで、やはり人間臨終図鑑の4巻を読んでいて、杉田玄白の項目でこのような養生訓を見つけたのである。
「養生七不可」
一、 昨日の非は恨悔すべからず。
一、 明日の是は慮念すべからず。
一、 飲と食とは度を過すべからず。
一、 正物に非ざれば苟も食すべからず。
一、 事なき時は薬を服すべからず。
一、 壮実を頼んで房を過すべからず。
一、 動作を勤めて安を好むべからず。
この七つの禁を守って、杉田玄白は生来虚弱の体質であったにも拘わらず84歳の長寿を得た。
人間臨終図鑑には、こう書かれている。
晩年に至っても彼は、雨の日も風の日も、日本橋の自宅から丸の内、深川あたりまでテクテクと往診に歩いた。彼は決して頑健でなく、むしろ虚弱の体質であったのに大長命を保ったのは、この緊張した摂生生活と、勤勉な運動のせいであったと思われる。
全くの同感ですね。私がどの事項を守っているかと言うと、六番目の事項だけで後は全て禁を犯しているのである。そのことを実証してみよう。
一、 昨日行ったことで、いつもくよくよして後悔する。
碌でもないブログ記事書きに時間を費やして、本来すべきである数学のお勉強はお休み状態である。こんな事をしている場合ではないのにと、いつも後悔をしている。
二、 明日のことを常にくよくよ考えて、憂鬱な思いでいる。
食って寝て、娯楽の読書をして、ブログネタの記事を考える日々である。ちっとも生産的なことはしていない。こんな事を続けていると、いずれ脳みそが壊れてきて、取り返しのつかない状況になるのでないかと、くよくよ悩む。あーでもない、こーでもないと更に悩む。そんな暇があれば、溜っている論文を読めばいいのにそれもしない。毎日が憂鬱である。
三、 機会があれば、飲みすぎ、食べ過ぎを行っている。
糖尿病患者なのでしょっちゅうではないが、旅行などに出ると、地元グルメじゃ何のかんの言っては、暴飲暴食にふける。お蔭で、このブログにグルメ記事を沢山書けているのだが、健康に悪いことは自明の理である。
四、 出所の分からない奇体な食べ物をしばしば食する。
変な、訳の分からない食べ物をみると、なんでも食べてみたくなる。お蔭でしばしばお腹を下すはめになる。先日鰆の卵のフライを食べて胃の調子がおかしくなってしまった。 魚の発酵食品
五、 やたらに薬を飲んでいる。
糖尿病や高血圧の薬で、毎朝7種類の薬を飲んでいる。夕食時も飲んでいる。自業自得とは言え、薬漬け状態に既になっている。
六、 房事は過ごしていない。
唯一禁を犯していない事項だが、5番目に書いた理由により本当は実行が不可能なのである。
七、 しばしば、運動もせず安逸に流れる。
鬱状態としばしば称しては、一日中ベッドで寝ていることがある。
こう見ていくと、本当に最低の爺さんだね。私は。退職して、気ままに生きていると、このように堕落するのである。
それで、以前の習慣に立ち戻り、七だけは再び禁を守りたいと念願するのである。朝ごはんの後は、原則として1時間以上の運動散歩をすることである。
話がそれたが、Wikipediaに基づきこの養生訓を垂れた杉田玄白を紹介する。
杉田玄白像(石川大浪筆、重要文化財)
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生誕 | 享保18年9月13日(1733年10月20日) 江戸牛込 |
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死没 | 文化14年4月17日(1817年6月1日) |
職業 | 蘭学医(町医者、小浜藩医) |
著名な要素 | 『解体新書』(『ターヘル・アナトミア』の和訳) |
家族・親戚 | 父:杉田玄甫、母:八尾氏の娘 |
杉田 玄白(すぎた げんぱく)
(享保18年9月13日(1733年10月20日) - 文化14年4月17日(1817年6月1日))
江戸時代の蘭学医。若狭国小浜藩医。私塾天真楼を主催。父は杉田玄甫、母は八尾氏の娘。
諱は翼(たすく)、字は子鳳、号は鷧、晩年に九幸翁。
杉田氏は近江源氏である佐々木氏の支族である真野氏の家系。後北条氏に仕えた真野信安のときに間宮姓に改め、子の長安の代に復姓。医家としては、玄白で3代目にあたる。
その生涯:
・江戸、牛込の小浜藩酒井家の下屋敷に生まれるが、生母は出産の際に死去している。
・青年期には家業の医学修行を始め、医学は奥医の西玄哲に、漢学は本郷に開塾していた古学派の儒者宮瀬竜門に学ぶ。
・宝暦2年(1752年)に小浜藩医となり、上屋敷に勤める。
・宝暦7年(1757年)には江戸、日本橋に開業し、町医者となる。
・明和2年(1765年)には藩の奥医師となる。
・明和6年(1769年)には父の玄甫が死去。家督と侍医の職を継ぎ、新大橋の中屋敷へ詰める。
ここからが、昔教科書で教わった話。
明和8年(1771年)、自身の回想録である『蘭学事始』によれば、中川淳庵がオランダ商館院から借りたオランダ語医学書『ターヘル・アナトミア』をもって玄白のもとを訪れる。
玄白はオランダ語の本文は読めなかったものの、図版の精密な解剖図に驚き、藩に相談してこれを購入する。偶然にも長崎から同じ医学書を持ち帰った前野良沢や、中川淳庵らとともに「千寿骨ヶ原」で死体の腑分けを実見し、解剖図の正確さに感嘆する。
前野 良沢(まえの りょうたく) 享保8年(1723年) - 享和3年10月17日(1803年11月30日)
玄白、良沢、淳庵らは『ターヘル・アナトミア』を和訳し、安永3年(1774年)に『解体新書』として刊行するに至る。
友人桂川甫三により将軍家に献上された。
その苦心談が教科書に載っていた訳だ。
この『蘭学事始』が書かれたのは、玄白82歳のとき。実際の書名は、『和蘭事始』で、原本は彼の死後失われていたが、幕末に洋学者神田考平が発見し、福沢諭吉が『蘭学事始』として世に紹介する。
神田考平
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生年月日 | 1830年10月31日 |
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没年月日 | 1898年7月5日(満67歳没) |
前職 | 幕臣、官僚 |
称号 | 錦鶏間祗候、男爵 |
山田風太郎曰:
82歳の著作で、後代これほど多数の人々を感動させた書物はない。
なお、玄白はこの養生訓「養生七不可」を守り、63歳で子どもをつくっている。とても真似できぬ。
「養生七不可」も、古希(70歳)の祝いの前年に記したものとある。まだまだアチラのほうは、達者だったのである。とても真似できぬ。
玄白、古希の年に詠んだ一首。
過ぎし世も来る世も同じ夢なればけふの今こそ楽しかりけれ
自虐的な一面は持っていたが、楽天家だったのである。
この回顧録を絶筆の積りで書いたのだが、さらに長命して84歳で眠るがごとき大往生を遂げた。
とんでもない爺さんだったんだね。
彼の絶筆:
医事不如自然
「医事は自然に如かず」 何事も自然にまかせるのが一番という事。
辞世の句:
辞世とはすなわち迷ひただ死なむ
幸せな一生であれ、そうでなかれ、ただ死ぬだけですね。大して苦しまずに死ぬのがベストといえる。
今回は、これでおしまい。 運動のため、取材に行ってくる。
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