花隈城の推定地は、東は神戸市立神戸生田中学校辺り、西は花隈町と下山手通8丁目の境付近、北は県庁前道路付近、南はJRの高架下辺りの範囲であり、大規模な近世城郭に分類される。
摂津国花熊之城図/岡山大学付属図書館所蔵
現在は、花隈城の本丸跡の部分が公園となっており、、地下は駐車場となっている。規模からも花隈城を類推するものではなく、公園としての演出施設であるとの事だ。(Wikipediaによる解説)
それ故、石垣は組まれており天守台はあるが、作り物で天守や屋敷跡は全くない。再建造物なので、文化財でも何でもない。ただの公園である。
花隈公園は、高速神戸の花隈駅を出たすぐ前にある。
このドアの奥が駐車場になっている。
Wikipediaによる花隈城のデータを与える。
(兵庫県) | |
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花隈城模擬石垣(東側)
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別名 | 花熊城、花隅城、鼻熊城 |
城郭構造 | 平山城 |
天守構造 | 不明(天守が推定される) |
築城主 | 和田惟政か荒木村重 |
築城年 | 永禄11年(1568年) |
主な改修者 | なし |
主な城主 | 大河原具雅か荒木元清 |
廃城年 | 天正8年(1580年) |
遺構 | なし |
指定文化財 | なし |
再建造物 | 模擬城・砦 |
位置 | 北緯34度41分17.011秒 東経135度10分58.352秒 |
花隈城(はなくまじょう)
兵庫県神戸市中央区の元町駅西方にあった日本の城。別名は花熊城。
花隈城は「鼻隅城」と書くこともあった。これは六甲山の丘陵が海に突き出ている様子を「鼻」、その稜線を「隅」で言い表したものである。またかつてはこの付近一帯のことを「花熊」と呼んでいたことも窺える。
永禄10年(1567年)、織田信長が荒木村重に命じて築かせたと言われているが、この時期信長はまだ入京しておらず摂津に力を及ばす状況ではなかった。
従って、翌永禄11年(1568年)10月に和田惟政に摂津を任した時に築いたか、天正2年(1574年)に石山本願寺と毛利氏との警戒用に荒木村重に命じて築城したのではないかという説もある。
荒木村重
歴史を繙くと、花隈城の戦い として城は今も名を留めている。再びWikiより。
荒木村重が石山本願寺に通じていると疑いをかけられたことが原因で実際に謀反を起こし、伊丹の有岡城に篭り、それを明智光秀、滝川一益といった武将が攻撃する。
村重は尼崎城へ移り、有岡城に残った村重一族は惨殺されてしまう。
追い詰められた村重はさらに花隈城へ逃げ、それを池田恒興が攻撃する。
生田陣所などに恒興の一族らを配置し花隈城を包囲する。この「花熊城の戦い」で落城し、恒興は新たに兵庫城を築城。その際に花隈城の資材も利用したと伝わっている。
そして村重は毛利氏に亡命する。信長の死後村重は、大坂で茶人として復帰し、千利休らと親交をもった。さらには、秀吉を恐れて出家し、荒木道薫(どうくん)となった。
それでは、公園の写真紹介を始める。
石段を登りつめた所に置かれている公園の石碑。公園の向かい側にみえる高層ビル。公園は手入れが行き届いているとは言い難い。
復興天守台 全くの作り物です。
花隈城址の石碑と東郷の井の碑。 こんな石碑があるので、かっての城址と思っても不思議はないですね。
碑・「東郷の井」の由来が説明されている。
かっては、川崎重工の健康保険組合保健会館の前にあったのが、移転してここに設置された。
概略を書く。
1885(明治18)年、神戸・小野浜の造船所で初代の軍艦「大和」(第2次世界大戦で沈没したのは2代目)を建造中、海軍中佐だった東郷が神戸に約1年間滞在。日本初の映画が上映された多目的ホール「神港倶楽部(くらぶ)」に宿泊し、庭の井戸でよく顔を洗ったことから、井戸は「東郷井」と命名された。
まさか、この井戸らしき建造物ではないよね。(後注:違う。井戸は、神港倶楽部の庭にあった。)
神港倶楽部の跡地に建つ川崎重工の健康保険組合保健会館。
保健会館
模造石垣
当然かもしれぬが、見どころの少ない公園でした。 これでおしまい。
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