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2015年10月25日日曜日

天理 大和神社

 
前回奈良の天理桜井古代の秘宝アドベンチャー に参加した経緯を報告した。今回からしばらく、その時と昨日再訪した山の辺の道奈良の神社を参拝した記事をつづけたい。
 
その一回目は、大和神社である。おおやまとじんじゃと読む。ただのやまとじんじゃではない。日本語は本当に読み方が難しいね。
 
 JR桜井線の長柄駅を下車、歩いて5分位のところにある。流石に奈良だけあって広い境内を持つ神社である。神戸の神社は通常こんなに広い境内を持たない。

一の鳥居

その脇にある、大社大和神社の石碑。


由緒舎  大和大明神 日本最古の神社だそうです。写真を拡大すれば詳しく読めます。


 常夜灯

ここで、神社の基礎情報をWikipediaから取得しよう。

大和神社
Ohyamato-jinja03s3872.jpg
拝殿(奥に本殿)
所在地奈良県天理市新泉町星山306
位置北緯34度34分15秒
東経135度50分15秒
座標: 北緯34度34分15秒 東経135度50分15秒
主祭神日本大国魂大神
八千戈大神
御年大神
社格式内社(名神大)
二十二社(中七社)
旧官幣大社
別表神社
創建崇神天皇12年
本殿の様式春日造
別名(旧称)朝和之宮
札所等神仏霊場巡拝の道20番(奈良7番)
例祭4月1日(チャンチャン祭り)
主な神事御弓始祭

大和神社(おおやまとじんじゃ)

奈良県天理市にある神社。旧称は朝和之宮(あさわのみや)。式内社(名神大社)、二十二社(中七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。

いつものように御祭神を紹介する。本殿は三社に別れており、各殿での祀り神はつぎのようになっている。

本殿

  • 中殿:日本大国魂大神
  • 左殿:八千戈大神
  • 右殿:御年大神







御祭神については諸説があるが、ここでは上の諸神としておく:

日本大国魂大神(倭大国魂神)以外の祭神については文献によって諸説あり、『神社要録』では左殿を須沼比神、『社家説』『元要記』では左殿を三輪大明神(大物主)・右殿を天照大神、『元要記一説』では右殿を稲倉魂神としている。


日本大国魂大神=倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)

この神の出自は書かれていない。大国主神の別名の一つに「大国魂大神」があることから、倭大国魂神は大国主神と同神とする説がある。『大倭神社注進状』では、大己貴神(大国主神)の荒魂であるとしている。しかし、本居宣長の『古事記伝』では、この神を大国主神と同一神とする説を否定している。神名から大和国の地主神とする説もある。

ということで、出自がはっきりしないという事もあり、この神の画像は見当たらない。

八千戈大神(ヤチホコノカミ)=大国主(おおくにぬし)

大国主は、本当に沢山の別称を持っている。それを最初知ったときはびっくりしたが、今はもう驚かない。

八千矛神
 
 
 御年大神(おんとしおおかみ)

この神は、異色で神道の神様です。従って、具体的なお姿は想像つきにくいが、このような神だと想像される。



由緒については、Wikiが正確で詳しいのだが、くだくだしいので端折って書く。

由緒:

日本大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)は大地主大神(おおとこぬしのおおかみ)で、宮中内に天照大神と同殿共床で奉斎されたが、大いに国が乱れたのは両神の勢いだと畏れられた。
第十代崇神天皇六年に天皇が神威をおそれ、天照大神皇女豊鋤入姫命をして倭の笠縫邑に移されたとき、皇女淳名城入姫命(ぬなきいりひめ)に勅して、市磯邑(大和郷)に移されたのが大和神社の創建であると伝えられている。

第十代崇神天皇


神社の案内図



一の鳥居から本殿に向かう参道


二の鳥居

二の鳥居横に末社の増御子神社が祀られている。その由緒舎

御祭神は、猿田彦の大神天の鈿女命


 
猿田彦命は以前画像紹介したので、天鈿女命の画像。



その社と増御子神社の石碑。



参道にある忠魂碑

このような立看板があった。やはり神道の神が祀ってある所以だね。


手水舎

 万葉歌碑の一つとして、山上憶良の書が刻まれている。

好去好来


去るもよし、来るもよしですかね、と思ったが違う。 大和神社ホームページより:

唐遣使
 天平5年(733年)第9次唐遣使の大使として派遣される丹治比広成に無事の帰国を祈って、山上憶良が「好去好来」の歌を送っています。好去とは「さようなら」、好来とは「御無事で帰還を」の意味。
 大和への帰還をこの大和神社の大國魂の神にご加護を祈りました。唐遣使の大使として派遣に際し、幸いをもたらすという「言霊(ことだま)」に餞(はなむけ)の祈りを託さずにはいられなかったのかもしれません。


この神社は、名前から類推できるように戦艦大和との関連もある。

戦艦大和には、同名であることから大和神社の祭神の分霊が艦内で祀られていた。戦艦大和は昭和20年(1945年)に沖縄沖で沈没したが、そのときに亡くなった2717名の英霊が末社・祖霊社に合祀されている。
昭和44年(1969年)、境内に「戦艦大和記念塔」が建立された。更に昭和47年(1972年)9月24日、巡洋艦矢矧外駆逐艦8隻の戦没將士英霊をも合祀して、坊の岬沖海戦の全戦死者3721柱が国家鎭護の神として祀られている。

戦艦大和については、この記事を参照してほしい。  広島旅行 2014.4.11-12 (I) 

その「ゆかり」説明板。

このように書かれている。

1、戦艦大和(せんかんやまと)には、大和神社(おおやまとじんじゃ)の御分霊(ごぶんれい) >が祭(まつ)られています。

1、 奈良時代、遣唐使(とうけんし)らは出発に際して必ず大和神社へ航海(こうかい)の安全祈願(あんぜんきがん)に参詣(さんけい)されました。そうしたご縁(えん)があって戦艦大和の艦上(かんじょう)に大和神社の御分霊(ごぶんれい)が祀(まつ)られていました。

1、昭和16年大和神社を描(えが)いた 堂本 印象(どうもと いんしょう)画伯作「戦艦大和守護神(しゅごしん)」は戦艦大和の館長室(かんちょうしつ)に掲(かか)げられていました。
(広島県江田島(えたじま)市 海上自衛隊  第一術科学校 教育参考館所蔵)

1、 となりの祖霊社(それいしゃ)には、戦艦大和が撃沈(げきちん)した時の殉死者(じゅんししゃ)2736名の御霊(みたま)が祀(まつ)られています。

1、 戦艦大和の長さは、大和神社の参道(さんどう)とほぼ同じ(270m)で幅はば)は、参道の約5倍(80m)です。

戦艦大和ゆかりの碑



また戦艦大和関連展示館がある。

戦艦大和展示館







展示館の中には、戦艦大和の模型、名石、戦艦大和の精密画などがある。

 
大和を描いた掛け軸が展示されていて、天井には、龍の絵馬があった。
 
 
神社のホームページで確認したのだが、上は掛け軸でなく几帳であった。正確を期すため、その部分を引用する。

几帳作家で染色デザイナーの塩谷栄一氏(京都市上京区在住)がこのほど波に向かう力強い『龍の大絵馬』と『戦艦大和の几帳』が当神社に奉納した。


龍の大絵馬
 
戦艦大和の几帳 
 

末社の祖霊社  由緒書の看板と祖霊社の常夜灯
 
 

祖霊社の

保管庫 


常夜灯大和神社の大看板。


拝殿

狛犬2基


干支の羊を描いた大絵馬なんだけど、画中の人物が中国人かモンゴル人か分からず何か怪しい。


拝殿の奥に本殿の三殿が並ぶのだが、その全貌を写すのは無理。 


拝殿の内外から本殿を写してみた。



拝殿の額 大和大明神とある。


拝殿に納められている羊の大絵馬


摂社の高龗神社。  御祭神は、高龗大神こと雨師大神

鳥居

由緒書きの看板




同じく末社の朝日神社  御祭神は、朝日豊明神


事代神社  御祭神は、事代主神


厳島神社  御祭神は、市杵島姫命


社務所

 
 最後に境内の大楠を写しておしまい。
 

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