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2015年10月8日木曜日

ジャン=フランソワ・ミレー

余りにも有名な画家であるが、私にとっては宮沢賢治とならんで、その生涯に憧憬を抱く人物にミレーがいる。心惹かれるこの画家の生涯を今更ながら思うのである。今回は彼の生涯を、山田風太郎の「人間臨終図鑑」の記述を引用して紹介したい。

ミレーは、画家になって死ぬときまでフランスの寒村バルビゾンに住んで、「種まく人」を始めとして困苦に満ちた農民の労働生活ばかりを描いた。今日この村に定住し、風景や農民の風俗を描いた画家たちを、「バルビゾン派」と称している。これは美術史で習ったことですね。

Wikipediaからミレーの記事を引用する。

ジャン=フランソワ・ミレー
Jean-François Millet

ナダールによる肖像写真(1856年-1858年頃)
生誕1814年10月4日
フランスの旗 フランス マンシュ県グリュシー
死没1875年1月20日(60歳)
フランスの旗 フランス セーヌ=エ=マルヌ県バルビゾン
国籍フランスの旗 フランス
著名な実績画家
代表作『落穂拾い』、『種まく人』、「晩鐘」
運動・動向バルビゾン派
 
 
ジャン=フランソワ・ミレーJean-François Millet、1814年10月4日 - 1875年1月20日)
 
19世紀のフランスの画家。  
バルビゾン派の中でも、大地とともに生きる農民の姿を、崇高な宗教的感情を込めて描いたミレーの作品は、早くから日本に紹介され、農業国日本では特に親しまれた。
 
生涯と作品:
 
1814年 
ノルマンディー地方マンシュ県の海辺にあるグリュシーという小さな村に生まれた。8人兄弟の長男で、父は農民であり村の教会の合唱指揮者でもあった。

ノルマンディー地方の景色

1832年
19歳の時、グリュシーから十数km離れたシェルブールの街で絵の修業を始める。

シェルブールの街
映画「シェルブールの雨傘」で有名ですね。

1837年
22歳の時、パリへ出て、当時のアカデミスムの巨匠であったポール・ドラローシュ(1797年 - 1856年)に師事する。デッサンや模写のほか、聖書や神話など画題となる古典文学にも学ぶ。

ミレーの師であるポール・ドラローシュ

1841年
26歳の時、肖像画がサロン(官展)に初入選する。奨学金が停止されていたため生活は貧しく、肖像画や裸体画を描いていた。



1841年
シェルブールで仕立屋の娘ポーリーヌ=ヴィルジニー・オノと結婚し、パリに住むが、彼女は3年後の1844年に肺結核により病死する。

1846年
同棲中だったカトリーヌ・ルメートルという小間使いの女性との間に第1子が誕生する。このカトリーヌと正式に結婚するのはかなり後の1853年のことである。

1849年
パリにおけるコレラ流行を避けて、ミレーバルビゾンへ移住し、以後同地で制作を続けた。この頃には共和国政府からの依頼もあり、経済的にも安定する。農民画に専念する。

1850年
この年、『種まく人』をサロンへ出品する。

~1872年
ミレーの代表作に数えられる『晩鐘』『落穂拾い』などの代表的農民画は、バルビゾン移住後の作品になる。後に示すが、この時期に多くの農民画が描かれた。

種まく人
 
晩鐘
 
落穂拾い
 
また、ミレーは19世紀に広まった月暦画以来の伝統を持つ「四季」の主題の連作にも取り組み、
ドラクロワやその弟子アンドリウとも交流している。
 
 ドラクロワ
 
 
1872年
頭痛と目の痛み、神経の錯乱で幾度も床につく。
 
1875年
前年の12月に本格的に床につき、この年の1月20日に死去。
 
 
 
風太郎の文章より:
 
晩鐘の描かれた1859年には、ミレーは冬の最中につぎのように書いている。
 
「私たちはもうわずか二、三日の薪しかなく、それ以上を手に入れるあてが何もありません。妻は来月に分娩しますから、私は無一文になってしまうでしょう」
 
彼の絵の価値を認める数少なく、絵は安い値段でしか売れず、妻と九人の子供をかかえひどい貧乏に苦しみつづけた。
 
ミレーは、感傷的な社会主義者でもなく、
 
先天的な性格として、自分の人生にもこの世界にも、喜びのかけらも見出すことのできない人間
 
であった。
 
人生も世界も、それらはただ悲哀に満ちたものとしか感じられなかった。しかし彼は、それらに大して不平も怒りもおぼえることなく、それを平静に受け入れ、その心情をそのまま、柔和で憂鬱な、素朴で荘重な絵としてかき続けたのである。
 
彼の絵がややいい値で売れ始め、ようやく生活に多少の余裕がでてきたのは40代半ばを過ぎてからであった。
              
彼は大柄でがっちりした体格をし、牛のような肩と農夫のような手を持っていたにも関わらず、50代の半ばから急速に健康が衰え、58歳のときにはまたも頭痛と目の痛み、神経の錯乱でいく度も床につき、翌年には激しい喀血をした。肺病に罹っていたのでないかと思われる。
 
死の前年には、厭世主義者でありながら
 
「自然や芸術がやっとわかりかけてきたのにこの世を去らねばならなぬとは、死ぬのが早過ぎる」
 
と言って、翌年亡くなった。
 
悲痛な最後の述懐である。しかし、後世からみればミレーは見事に完結した一生を送ったのである。農民画家の手本としての一生であった。ゴッホダリなど、次世代以降の画家に計り知れない影響を与えたのである。
 
それでは、ミレーの絵画を見ていこう。
 
畑仕事の休息
 
 
パンを焼く婦人
 
 
羊飼いの少女
 
 
馬鈴薯植え
 

馬鈴薯の収穫

冬 凍えたキューピット

 
虹のかかった春景色
 
 
秋 七面鳥の群れ
 

秋、積みわら



ソバ収穫、夏

死神と木こり


鋤き起こす二人の農夫


干し草を縛ること

 
収穫後の休息
 
 

鍬を持つ男


木材の切り出し

ミルクを注ぐ百姓女



自画像

 

若いころは、ハンサムだったんですね。ヒゲがなければもっと良かったのにね。

最後にエピソードを2つ。 Wikipedia より。

1) ミレーは、画面のサイズから構図までほとんど同じと言ってよい『種まく人』の絵を2枚描いた。2枚の『種まく人』のうち1枚はボストン美術館にあり、もう1枚は山梨県甲府市の山梨県立美術館に所蔵されている。どちらも模写ではなく本物である。
 
2) ある日パリを散歩をしていると、美術商の店先に掛けてある彼が売った裸体画を、2人の男が眺めているのに出くわした。「この絵は誰が書いたんだい?」「ミレーって男さ」「ミレー? どんな絵描きだい?」「いつも女の裸ばっかり描いていて、それしか能のないやつさ」2人の男はそう会話して立ち去っていった。それを聞いていた彼は愕然とした。金のために仕方なくとはいえども、裸体画ばかり描いているせいで、世間に低級な好みを狙っている画家であると評価されているのだと悟ったのである。それ以後、彼は一切裸体画は書かない、と心に決めたという。
 
これでおしまい。        

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