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2016年10月31日月曜日

神戸兵庫区 みなと八幡神社

神戸の神社シリーズである。今回はみなと八幡神社の紹介である。実にお手軽なのだが、母の入居している施設せんだんの実のお隣にある神社である。母の見舞いに行った帰りに取材したのである。

この神社は小さいけれども整備が行き届いている。社務所(本殿よりも大きい)は恐らく住居で、常に掃除や境内の手入れが行き届いているからであろう。

神社を見て廻っていて思うのだが、人気のない神社はやはり荒れてきて汚くなっていくのである。大体宮司さんは、幾つもの神社を兼担しているので、無人の神社には目が行き届かない。そうすると自然に荒廃するし、浮浪者やその他行き場のないフリーター(私含む)などがたむろするとゴミなどで余計に汚くなってしまうのである。無人の神社では、地域のボランティアの方々による定期的な清掃が必要だと思う。市がその清掃グループを組織してくれないかと、私自身は参加する余裕もないくせにそう思うのである。

と、感想を述べてから写真記事を始める。 場所は神戸高速の新開地駅より南へ400mほど歩いたところにある。徒歩で約7分。

この神社はWikipediaに記載されている。その基礎情報。


湊八幡神社
拝殿
所在地兵庫県神戸市兵庫区兵庫町1丁目4-37
位置北緯34度40分23.18秒
東経135度10分26.54秒
主祭神応神天皇
社格村社、幣帛共進社
創建不詳
例祭9月15日


湊八幡神社(みなとはちまんじんじゃ)

兵庫県神戸市兵庫区に鎮座する神社(八幡宮)である。


祭神: 応神天皇(八幡神)  

今回はこの画像です。



歴史: 

神功皇后三韓征伐の帰途に摂津国岡野村に立ち寄られた時、その地の霊石を求めて応神天皇のご誕生の延期を祈ると通じた。 後にその霊石を岡野村より迎えて一社を建て、湊玉生八幡と称した。

  • 天和年間(1681年~1684年)、荒廃していた社殿を奉行河野通政の援助と崇敬者の助力により社殿を建立。
  • 嘉永元年(1848年)再建。
  • 明治6年(1873年)村社に列す。
  • 大正4年(1915年)10月9日神饌幣帛共進社に指定される。
  • 昭和20年(1945年)3月の神戸大空襲で焼失。
  • 昭和32年(1957年)~昭和37年(1962年)社殿を再建。
阪神淡路大震災では無事であったようです。

神社のホームぺージ みなと八幡神社 

みなと八幡神社の前には西国街道 兵庫の道しるべが立てられている。


湊八幡神社は元西国街道の兵庫の町への東入口に当り、徳川時代には番所があり要衝であった。

迷い子のしるべ




現在は境内にあるがかっては神社塀外にあり、警察活動の行き届かなかった時代、迷い子さがしの方法として考えられたのがこの建て石である。

神社ホームページの記載から: 

右側は、昭和二十年三月十七日の戦災により破損したものである。左側はその再建されたもの。

この建て石は我が国において現存しているものは数少なく当時の風俗を物語る貴重な資料であるとされる。

当時迷い子ができた家では、ここに来て子供の特徴や年齢、住所、氏名を紙に書いて「たづぬる方」の上のくぼみに張付けます。子供を発見した人はここへ連れて来て、幸いにたづねる家の人に会えばすぐ引き渡し、もし発見者の方が早ければ「しらする方」の上のくぼみに住所、氏名などを紙に書いて張付けておきます。双方がここへ来るので、たいていの場合すぐ解決がついたようです。
 

尚、左右のくぼみは張付けた紙が風に吹き飛ばされないためでありましょう。
そんな工夫がなされていたんだね。何のくぼみか見ただけではわからないものね。

昭和四十六年四月これを修復すると共に、その左側に同一のものを併せ建立し永く保存しようとするものであります。


厄除 八幡神社  と刻まれてある社碑


鳥居  扁額に八幡宮とある。向かいに見えるのが社務所。 本殿よりも立派な2階建てです。住居として使いお祭には祀り物やおみくじの販売を行うのでしょう。



手水舎




本殿



狛犬は新旧の2基づつ計4基ある。 なぜ4基あるのかは、不明。寄進者が異なるのかもしれぬ。





本殿の鈴とお賽銭箱

例祭ではここで神事が執り行われる。

神馬


力石  手前の丸い石だと思うが、そんなに大きくはない。

小宮



YouTubeに厄神大祭の動画があったので、これもご覧ください。お祭りの様子がよくわかります。


これでおしまい。

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