清盛七弁天の看板
恵林寺は運動弁天である。 スポーツを司る弁天様なのですね。
つぎの説明がなされている。
1346年に開かれた臨済宗の寺。
以前、境内に「清盛七弁天」の社の1つがあり、その位置が築島の北端だったことから、「波除の弁天」と呼ばれていた。
スポーツマンにとって、「調子に波がある」のは禁物。
いつもベストプレーできるよう、お参りしてみては。
小さなお寺なのだが、Wikipedia にも記載がある。
恵林寺 | |
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山門 | |
所在地 | 兵庫県神戸市兵庫区兵庫町2-2-1 北緯34度40分19.2秒 東経135度10分23.8秒 |
山号 | 臥龍山 |
宗派 | 臨済宗南禅寺派 |
本尊 | 十一面観世音菩薩 |
創建年 | 貞和2年(1346年) |
開山 | 錦江省文禅師 |
中興 | 梅蔭芳禅師 |
札所等 | 福原西国三十三ヶ所 第28番札所 清盛七辨天 |
恵林寺(えりんじ)
兵庫県神戸市兵庫区兵庫町にある臨済宗南禅寺派の仏教寺院。
歴史:
境内には弁財天の社があった。これは兵庫津七弁天の一つ「波除の弁天」として知られ、寺記によれば、平相国清盛公が経が島築造の際に人柱を用いてようやく成就したとされ、その後、経が島の安全のため7ヶ所に弁財天の社を建てた内の北の端に当たる。
これが清盛七弁天の由来ですね。経が島の安全を祈って七弁財天の社を建てたわけだ。調べてみるとこのような説明があった。
1180年(治承四年)、福原遷都の際、平清盛が平家一門の氏神として深く信仰している安芸国厳島神社をこの地に勧請しました。
福原京の周り七つの地に厳島神社を勧請したので、七弁天と呼ばれ花隈(はなくま)、佐比江(さぴえ)、西宮内(にしみやうち)、夢野(ゆめの)、真野(まの)、渦輪(うずわ)と兵庫となっています。
だから元々は厳島神社の境内に祀られていたわけだ。それが兵庫と花隈の厳島神社を除いて、別の神社やお寺に移管したのだ。
- 貞和2年(1346年)空山円印の弟子・錦江省文禅師が創建。
- 中興・梅蔭芳禅師の寺記に、慶長15年(1610年)9月21日茨木領主・片桐市正公より玄米1石6斗3合を寄せるとある。
- 昭和20年(1945年)3月の神戸大空襲で全焼。
- 昭和25年(1950年)再興。
- 平成7年(1995年)阪神・淡路大震災で建物全てが全壊。
- 平成15年(2003年)11月復興。
やはり阪神淡路大震災で全壊してしまったのですね。現在、弁財天の社はありませんが、幟と弁財天を祀っているらしき社はあります。
石碑
門が閉じられているので入りにくい。 脇にある勝手口から中にはいる。
どなたかがいれば声をかけようと思ったが、見あたらなかったので無断で写真を撮らせていただいた。
本堂
額には、 臥龍山 とある。
清盛七弁天の幟が立てられている。
弁天様は、この建物(社務所?)内に祀られてあると思うのだが不明。
目ぼしいものはこれだけです。取材時間は5分未満で、お賽銭もあげなかった。だって賽銭箱も見当たらなかったもの・・・、と言い訳をする。
恵林寺はこれでおしまい。中身スカスカの記事でしたね。
これだけでは記事として物足りないので、お隣にある浄土宗のお寺 藤之寺の紹介も付け加える。
藤之寺 | |
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所在地 | 兵庫県神戸市兵庫区兵庫町1-3-6 北緯34度40分20.2秒 東経135度10分25.7秒 |
山号 | 紫雲山 |
宗派 | 浄土宗 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
別称 | 西光寺 |
札所等 | 福原西国三十三箇所 第4番札所 |
藤之寺(ふじのてら)
兵庫県神戸市兵庫区兵庫町にある浄土宗の仏教寺院。
歴史:
寺伝によると、もとは北風家が佐比江に神功皇后から賜った御手形を御霊として主神に、相殿に春日明神を祀る社を建立し、奉仕する社僧のいた真言宗西光院であった。
のちに浄土宗の西光寺と改め、北風家の菩提寺であり、同家が白藤姓を名乗っていたことから俗に藤の寺とよばれるようになった。
元は神社であったわけですね。藤棚があるのかと思ったが見当たらなかった。
- 兵庫津の元禄5年(1692年)の「寺社改帳」では、文安4年(1447年)音誉勢観上人の開基とし、迎接院藤の寺といったとある。
- 延宝の記録では、慶長19年(1614年)片桐且元の除地証文を得て西光寺と称したとあり、本寺のほかに子坊が7つもあったが、のち退転して本寺だけとなる。
- 明治元年(1868年)一時廃寺となる。
- 明治2年(1869年)7月に再興を許されて藤之寺と改める。
- 昭和20年(1945年)3月の神戸大空襲で全焼。
- 昭和30年(1955年)本堂を再建。
明治時代には、一時廃寺になったものの再興して藤之寺とした。このお寺は神戸大空襲で全焼した。現在の本堂をみると、更に新しいので、恐らく阪神淡路大震災で再び全壊したと思われる。
本堂
境内に植えられている蘇鉄の木。なかなか見事です。
境内横が墓地になっている。 こちらの方が見どころがあった。
山積みになった墓石
お墓の数々
墓地に祀られていた仏様
大小6体のお地蔵様
兵庫津の地域は、平安時代、大輪田泊と呼ばれました。この港は東南からの風波をまともにうけて停泊が危険でした。そのため、朝廷は弘仁3年(812)以来しばしば港の改修を行いました。
福原に別荘を構えていた平清盛は日宋貿易の拠点として大輪田泊を重視し、承安3年(1173)に私財を投じて改修を行いました。泊(とまり)の前面に防波堤となる島を築き、船を風から守ろうとしたのです。この島が経ヶ島(経の島)と呼ばれています。
なお、築かれた詳しい場所はわかっていません。
清盛は治承4年(1180)には、国家的事業として大輪田泊の大規模な整備を計画しましたが、源平争乱によりほとんど実行されなかったと思われます。
経ヶ島と松王小児(まつおうこでい)の伝説
経ヶ島築造は難工事であったため、経石や人柱をモチーフとした説話が生まれました。
『平家物語』巻六に、暴風雨と大波で工事は難航したが、清盛は人柱を入れることは罪深いと考え、代わりに一切経を書いた石を海に沈めたことから「経の嶋」と名付けられた、とあります。
時代を経るにつれ、伝承は脚色され変容していきます。室町期の幸若舞『築島』には、捕らえられた人柱のひとりである国春とそれを助けようとする娘名月女(めいげつにょ)、30人の人柱の身代わりとなってお経と共に海へ沈む松王という少年などが登場します。
それで松王丸を祀る来迎寺が清盛七弁天に加えられているわけである。
歌舞伎における松王丸 松本幸四郎が演じている。
これでおしまい。
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