天神神社の周りは休憩所になっていて渓谷を眺めることができる。
ここから少し上ったところに駐車場になっている小さな広場がある。
そこに祀られていた鳥居と社。
稲荷神社と思われるが正確な名称は不明。
その社 最近作り直されたらしく真新しい。社額は見当たらず。
そのすぐ下に句碑苑がある。
月ヶ瀬句碑苑の石碑
ふるさと賛歌の石碑
句碑
朝の陽に馬酔木鈴ふる句碑のかげ
梅林へ縷々と降らねば花を得ず
故郷とはひそかに泣かす花わさび
水浴びにいくと大仏もうさるる
頼山陽詩碑
裏面には頼山陽の評伝が記されている。
その足元に頼山陽著の日本外史からの一文が刻まれた石碑がある。
和州の香世界を観るに非ずんば
人生何ぞ梅花を説く可けんや
頼山陽は有名だがお顔の方は思い浮かばない。それでWikipediaさんにお聞きしてみた。髭づらのおっさん顔でした。
頼山陽
頼 山陽(らい さんよう、1781年1月21日) - 天保3年9月23日(1832年10月16日))
大坂生まれの江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人。幼名は久太郎(ひさたろう)、名は襄(のぼる)、字は子成。山陽、三十六峯外史と号した。主著に『日本外史』があり、これは幕末の尊皇攘夷運動に影響を与え、日本史上のベストセラーとなった。贈正四位。
詩句を読んで我々も、紛いなりだが日本の香しい月ヶ瀬の梅を見て人生のささやかな意味を感じとったのであった。
焼きたけのこを売っている露店がルートから少し離れた所にある。
早速買ってきて食っている食い意地の張っている爺さん。新筍だけあって美味だが、値段は高い!
品種苑の梅 実はまだ時期尚早でしたね。 あと1週間もすれば見ごろでした。
斎藤拙堂の詩碑
とても読めないが下の詩文のように掘られている。拡大すれば読めます。
Wikiによる説明:
斎藤 拙堂(さいとう せつどう、寛政9年(1797年) - 慶応元年7月18日(1865年9月7日))
幕末の朱子学者。諱は正謙。字は有終。通称は徳蔵。
頼山陽や大塩平八郎、渡辺崋山、吉田松陰など、多数の儒者、文人との交流をもった。弟子に三島中洲、河井継之助らがいる。
その博学ぶりは広く世に知られたが、特に漢文をもって知られ、古今の漢文について評した『拙堂文話』や武士のあり方について論じた『士道要論』『海防策』などその執筆分野は多岐にわたっている。
しかし拙堂の最も得意としたのは紀行文であり、『月瀬記勝』は大和国月ケ瀬を梅の名所にたらしめ、頼山陽の『耶馬渓図巻記』と並んで紀行文の双璧とされ、拙堂の名を高めた。
昔のトラベルライターであった訳でもある。
ここからは帰路である。
休憩所の梅
展望台
坂道
渓谷の梅
枝の切り取られた古木があった。 面白いので写してみただけ。
過って使われたという大きな梅干しの樽。
月ヶ瀬のマンホールの蓋。
マンホールの蓋にも色んなデザインがありますね。月ヶ瀬の梅を見終わり、駐車場に戻った。そして神戸へと帰っていくのであった。これでおしまい。
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