カテゴリー(作成中)

2017年6月19日月曜日

奈良王子町 達磨寺

今回は 奈良 達磨寺 の参拝記事である。と言ってもわざわざ出かけたのではなく、孫の保育園での授業参観に出席したついでに参拝したのである。美しく整備された拝観のし甲斐のあるお寺でした。先週の木曜日6月15日のことです。
保育園は片岡の里学童保育所で、達磨寺のお隣にある。それで、何の準備もなく達磨寺を参拝できたのである。全くもって安易な取材である。

息子の車に乗せて貰って、朝7時に自宅を出発した。9時すぎに保育所に到着。参観は9時10分からなので何とか間に合った。

片岡の里学童保育所

看板には聖徳太子と愛犬雪丸が描かれている。湯川秀樹の言葉

一日生きることは
一歩すすむことでありたい

の刻まれた石碑が保育園入り口に置かれている。

私の現状は、一日生きることは 一歩しりぞくことでしかない に尽きる。
困ったもんですね。


保育園のグランド 

登り階段が造られていて、トンネル、滑り台とか


展望台、ジャングルジムなどの遊技設備が設置されている。また砂場があり、おまけに池や川がこしらえてあり、橋やそれに水を注ぐ井戸とポンプまである。


奥に見えるのが 達磨寺 本堂


地面には、転んでも怪我しないように人工芝が敷き詰められている。新しい立派な設備である。門はオートロックになっている。子供たちは、このグランドを所狭しと走りまわっている。

授業参観では工作でレゴの組み合わせでコマを作ったり、音楽参観では先生の指揮に合せて足踏みのリズムをとったり、父兄参加の歌の動物当てなぞなぞなどをしていた。その後、グランドでの自由遊びであった。よく練られた保育教育であると感心した。
私は孫の写真を沢山写して喜んでいたのでした。

以下授業参観が終わってからの達磨寺拝観記事である。

達磨寺の説明板  境内の配置図があるので、これを見ておけば寺内の文化財や史蹟を見落とすことはない。



山門 この写真は境内からのもので寺碑が見えない。



こちらの画像が寺碑のある表側から見た山門。 寺碑には 臨斉宗 南禅寺派 達磨禅寺 とある。 


有難いことに参拝は無料である。3つ折りA4の1枚ものである。達磨寺の歴史や史蹟が詳しくかつ簡明に説明されている。この記事でも多く引用させて頂いた。

パンフ 表


裏面



ここでいつものパターンだが、Wikipediaからお寺の基礎情報を入手する。

達磨寺 (奈良県王寺町)

達磨寺
Darumaj1.jpg
所在地奈良県北葛城郡王寺町本町2-1
位置北緯34度35分23.095秒
東経135度42分24.652秒
座標: 北緯34度35分23.095秒 東経135度42分24.652秒
山号片岡山
宗旨臨済宗
宗派南禅寺派
本尊千手観音・達磨禅師・聖徳太子
創建年推古天皇21年(613年)
開基勝月房慶政
正式名片岡山達磨寺
札所等聖徳太子霊跡19番
文化財絹本着色涅槃図、木造聖徳太子坐像、木造達磨坐像等多数


達磨寺(だるまじ)

奈良県北葛城郡王寺町にある臨済宗南禅寺派の寺院。山号は片岡山。本尊は、千手観音・達磨禅師・聖徳太子。

歴史:

この寺の創建については、推古天皇21年(613年)の冬、聖徳太子が片岡山で飢えていた異人に衣食を施したという片岡山飢人伝説にからめて語られる。その後は、衰退と中興が繰り返され、江戸時代には幕府から30石が与えられた。

片岡山飢人伝説とは、『日本書紀』の推古天皇21年(613年)12月条や『元亨釈書』に見える次のような話である。聖徳太子こと厩戸皇子が片岡山を通りかかったところ、飢えて瀕死の異人に出会った。太子はその異人に当座の寒さと飢えをしのぐため、食物と自分の衣服とを与えた。翌日、使いをやって異人の様子を見に行かせたところ、すでに息絶えていたので、丁重に葬った。それからしばらくして墓の様子を見に行かせると、死体は消えており、衣服だけがきちんとたたまれて、棺の上に置かれていた。これを知った里人は、あの異人は達磨禅師の生まれ変わりに相違ないと言い、聖徳太子が自ら刻んだ達磨像を祀ったのが達磨寺の始まりであるという。

お寺のホームページには、この伝説の劇画が掲載されている。 達磨寺











ということで、私には思いもつかなかったが、聖徳太子達磨大師の転生したお姿でした。漫画になるとつい全部読んでしまうのでした。漫画力は絶大です。

まづこの達磨寺を特徴づける、境内にある古墳について説明(受け売りorコピペ)しよう。

達磨寺古墳掲示板


達磨寺1号墳

達磨寺2号墳

達磨寺の境内には達磨寺1号墳・2号墳・3号墳と称される3基の古墳(6世紀頃の築造)が存在し、このうちの3号墳の上に本堂が建てられている。
この古墳は平安時代には聖徳太子ゆかりの達磨禅師の塚であると信じられていたようである。寺院としての形態が整うのは鎌倉時代以後と思われる。

寺内に古墳があるというのは、奈良ならではというか珍しいことではないか。

本堂


本堂の地下に石塔埋納遺構があるのを、平成14年に本堂建て替え発掘調査で発見された。
下画像に見るが如く、入れ子構造の印塔が埋められていた。


それでは境内の参拝である。

鐘楼 プラスチック製の突き棒である。こんなの始めて見た。




常夜燈

手水舎


手水石には 手を洗う=心を洗う と刻されている。

境内の佇まい


本堂正面

右側の扁額には、ご本尊の、千手観世音菩薩・達磨圓覚大師・上宮聖徳太子 を称している。

左側の扁額には、御詠歌の

萬苦を救いて 給ふ三尊佛
    永久に祈りて 今日も達磨寺

が記されている。


本堂側面

住職さんの許可を得て本堂の中に入らせて頂いた。内は広い座敷になっていて、この様にご本尊と共に達磨寺の宝が展示されている。


本堂地下の小石室から発見された石製宝篋印塔がガラスケース中央に置かれている。その石製宝篋印塔の中には、土師質の合子が入っており、さらにその中には水晶製五輪塔型舎利容器が入っていた。それらも展示してある。


ご本尊の木造千手観音座像 



木造は現状で392手あり、もとは500手で構成されていた。全ての掌に玉眼による目が表現されている。


木造達磨大師座像 

銘文によれば、永享2年(1430年)に足利義教が命じて制作されたものである。

木造聖徳太子座像 

銘文から、建治3年(1277年)に院恵・院道が制作したことがわかる。

三本尊を並べるとこうなる。聖徳太子達磨太子の掛け軸つきの画像である。達磨寺のホームページより。


備前焼大甕 本堂裏手の中興記石幢の地下から発見された。室町時代のものとされる。


獅子を描く掛け軸 

ススキを描く襖絵

書額

いずれも名のある方の作品と思われる。パンフにもホームページにもその記述はない。

本堂を退出して再び境内にもどる。

本堂横の問答石

推古天皇21年(613)に聖徳太子と飢者に身をやつした達磨大師が出会い、歌を詠み交わした場所と伝えられる。
本堂西南角付近にあり、横に伏せているように見えるのが達磨石でそこから南に約10mのところにあるのが太子石とされる。

これが達磨石

こちらは太子石

聖徳太子
 
しな照るや 片岡山に飯に飢えて 
           伏せる旅人哀れ親なし

達磨大師

 斑鳩や 富の小川の絶えばこそ 
           我が大君の御名を忘れめ

が互いに詠み交わした歌とされる。

薬師石


眼を閉じて近寄り、両手で抱けば病気が全癒すると伝えられる石である。


境内には動かないのだけど丹頂鶴もいる。由緒はあるんだろうけど不明。


一夜竹


本堂の西南にあり、達磨大師御杖竹ともいわれる。
伝説によると、達磨大師が携えていた竹杖を挿したところ、一夜にして芽が出てきたといい、毎月タケノコができるともいう。
蓬莱竹(ホウライチク)という種類の竹で、直径が2.5cm、節間が30cmくらいの竹が300本ほど群生している。


樹木の枝のように竹が密集している。

石造雪丸像

聖徳大師の飼い犬で、人の言葉を理解でき、お経を読むことができたとされる雪丸
雪丸像は、もとは北東にある達磨寺1号墳のところにあったが、現在は本堂の南西の位置に祀っている。
王寺町のマスコットキャラクター雪丸はこの像から誕生した。


なんども紹介していますがこいつですね。



雪丸塚


雪丸像の拡大画像

片岡八郎・春利墓


片岡八郎は王子の人で、南北朝のころ鎌倉幕府を倒そうとした後醍醐天皇の皇子大塔宮護良親王の重要な家来の一人であった。
片岡春利の墓は松永久秀の墓と同じ場所にあり、春利は筒井氏の麾下で順慶の妹婿にあたる。石塔には「元亀元年三月五日卒」と刻まれているといわれる。
大塔宮候人塚も同じ場所に建てられている。

松永久秀墓

本堂の西にある石塔で、現在は摩滅して読むことができないが、もとは「松永久秀墓天正五年十月十日」の文字が刻んであったという。
松永久秀は、天正5年(1577)10月10日に織田信長方の攻撃を受けて信貴山城で自害しており、筒井氏がその亡骸をこの地に葬ったといわれている。



達磨寺旧本堂瓦製露盤



達磨寺の旧本堂にて所用されていた瓦製露盤である。露盤とは宝形造の屋根頂部を飾るもので、旧本堂とは寛政3年(1791年)『大和名所図会』の挿絵に描かれた本堂をいう。

大和名所図会 達磨寺の図



総高は98cmで、露盤、伏鉢、宝珠から構成され、露盤と伏鉢に銘文がある。
露盤の銘文には、元禄5年(1692年)に法隆寺の瓦師・橘吉長によって造られたことが刻まれている。
制作年代が判明する露盤として資料的価値が高く、達磨寺の歴史を考える上でも重要な史料である。


九重達磨塔



灯籠や五重塔の台石を九重に重ねて塔にしたもので、塔身には法華塔の文字が刻まれている。現在は永代供養の石塔として祀られている。


忠魂碑



日露戦争以降、第二次世界大戦において国難に殉じられた王寺町縁故の方々のご冥福をお祈りするために建立された碑。


護国神社と同じ旨で建立された。従って(?)佇まいは神社風である。

狛犬二基


中興記石幢  これは写し損ねたので、ブログ あおによし から拝借した。



上は4年前の画像なので、現在の説明板は新しく変わっていると思われる。

本堂の北側にある高さ約180cmの八角形の石幢で、連勝寺の中興についての銘文を各面に陰刻したもの。
重要文化財。達磨寺の中興を成し遂げた南峯和尚が、南禅寺の惟肖和尚に頼んで永享7年(1435)9月に記してもらった達磨寺中興記を、南峯和尚が一文を添えて石幢としたのがこの中興記幢である。


達磨寺方丈




寛文7年(1667)に建立された方丈。屋根が左右非対称の造りになっている珍しい構造をもつ。

奈良県の指定文化財である。

方丈山門

方丈  老朽化により倒壊の危険性がある。それでこのように丸太で屋根を支えている。


この危機状況を回避すべく修復のための募金を募っている。志ある方は、パンフの勧進委員会にご連絡ください。



方丈の硝子戸


方丈中庭


方丈外観

西門


これでおしまい。

0 件のコメント:

コメントを投稿