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2017年7月21日金曜日

神戸長田区 平忠度の胴塚と腕塚

長田区駒ヶ林探訪の最終回である。今回は平忠度胴塚腕塚の紹介である。駒ヶ林の周辺マップに記載されているが、胴塚はまだしも腕塚は実に分り難いところにある。

胴塚は、神戸市長田区野田町8丁目にある。説明しにくいが、幸殿社から南東に歩みを進めてすぐのところ、民家が立ち並ぶ一角にある。伍魚福(ごぎょふく)の隣である。

平忠度胴塚 と記された立札


ここでその由来を説明する。

平忠度は、天養元年(1144年)伊勢平氏の棟梁である平忠盛の六男として生まれる。平清盛の末弟にあたる。歌人としても優れており藤原俊成に師事した。 (by Wikipedia)

一の谷合戦において、平清盛末弟・忠度は西の城戸口・一の谷大将軍であった。
敗れて駒ヶ林めざして落ち行く途中、源氏方岡部六弥太忠澄と戦い、忠澄の首を討ち取ろうとしたところを、忠澄の家臣に右腕を切り落とされた
忠度はついに静かに念仏して討たれた。箙(えびら:矢を入れる武具)には、

「行きくれて木の下かげを宿とせば花やこよひの主ならまし」

という歌が書かれた紙片が結ばれていたことで、平忠度であることがわかったという。


平忠度(小林清親画)


胴塚忠度の胴を埋めた所と伝えられている。

平忠度胴塚を祀る家屋  休憩所みたいで有難味に欠ける。




胴塚の説明板



由来 

薩摩守平忠度(1144年~1184年)は平清盛の末の弟で、文武に秀でいでた将に平家「一門の花」と云はれていた。
源平一ノ谷の合戦に於て源氏の武将岡部六弥太忠澄に討たれ惜しくもこの地で戦死したが最後は駒ヶ林の辺だと伝えられている。
歌道は藤原俊成に師事し「千載集」にも詠人知らずとして採られているほど武芸にも歌道にも優れた良い武将であった。人は皆、敵も味方もこの武将の死を惜しんだ。

行きくれて木下かげを宿とせば 花やこよいのあるじならまし(旅宿花)
さヾなみや志賀の都はあれにしを 昔ながらの山桜かな(千載集)



胴塚の石碑

石碑は、1917(大正6)年に地元の自治会が中心となって建立したものです。阪神・淡路大震災では倒壊し、2メートルほどの高さの碑は割れてしまったままでしたが、神戸市教育委員会が地域史跡に認定したことで再建の機運が高まり、地元の方々や企業の協力によって修復が進められ、2003(平成15)年7月8日に除幕式が行われました。
(神戸の空の下で。~街角の歴史発見~ より引用)

正四位下薩摩守平朝臣忠度墳 と刻んである。


家屋の奥には、源平合戦で戦死した名もない兵士の塚や、お地蔵様お玉大明神の石碑などが安置されている。


石灯籠も置かれているが、見るべきはこれだけです。

ここから東に約300m離れた駒ケ林4丁目には、平忠度腕塚堂がある。この腕塚堂は実にわかりにくい場所にある。近所のおばさんに教えて貰ってようやく行きつくことができた。

腕塚堂の案内板  これを見て道を探したのだが分かりにくい。南に60m下ると書いてあるが、道が入り組んでいて迷ってしまったのだ。


途中にあった地蔵堂

分かり難いはずで、民家が立ち並ぶその中にあった。しかし気が付いてみれば、蛭子神社の向かい側にあったのだ。

腕塚堂の説明板



平忠度の切り落とされた右腕を埋めた場所が、この腕塚と伝えられている。それから転じて、お祈りをすると腕、腰、足の痛みがなおると信仰されている。



供養塔  通行の邪魔になりそうな供養塔です。

腕塚堂


堂の内部


平忠度卿御廟所の石碑


堂の壁内に祀られている沢山の地蔵尊


手水鉢


石灯籠  忠度塚と刻されている。



これでおしまい。

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