場所でいえば神戸電鉄粟生線の木津駅から北西に向かって約400mの距離にある。徒歩ならば背の高いヒノキのある森が見えるのですぐに見つかる。
神社は田圃に囲まれた民家の集落の中にある。少し小高い丘の上に鎮座している。全ての石造りの拵えが真新しい神社である。
石鳥居
社碑 顕宗仁賢神社 とある。 第23,24代の天皇を祀っているのでその名がついている。
由緒板
次のように記されている:(一部改変あり)
古事記、日本書紀によると弘計(おけ)、億計(おおけ)の兄弟王子の父(履中天皇の皇子)が雄略天皇に殺され、二人の兄弟はこの押部谷の細目家に匿われていました。
雄略天皇の次の清寧天皇には御子がなかったので皇位を継ぐべき人を探していました。細目の家にかくまわれていた兄弟を播磨国司が見つけ、弟の弘計(おけ)が先に第23代顕宗天皇(484年)、兄の億計(おおけ)が次の仁賢天皇(488年)になったという書かれています。
この二人の天皇は実在がはっきりしていませんが、この二人の天皇をお祀りしているのがこの神社であると言われています。
Wikipediaにはこの神社の記載はない。兵庫神社庁の記事を参考にして以下の説明を加える。
ご祭神: 顕宗天皇 (ケンゾウテンノウ)
配祀神 仁賢天皇 (ニンケンテンノウ)
大日霊尊 (オオヒルメノミコト)
アマテラスのご幼少の頃のお名前である。何度も画像はアップしているので今回は省略する。
当社の創建は、御祭神の一柱である仁賢天皇の勅を受け、11年(498)9月23日と伝えている。
神社の由緒というか権力闘争というか、二皇子が皇位についた由縁が述べられている。
第17代履中天皇の孫にあたる弘計・億計(後の顯宗天皇・仁賢天皇)は、父である市辺押盤皇子が皇位継承の紛争にまきこまれ雄略天皇に滅ぼされた為、難を避けて播磨国赤石郡縮見屯首忍海部造細目の家に、丹波の小人と偽って使用人となった。二王子は身分の明らかになる事を恐れ言葉の不自由なふりをし、火焚き・水汲み・株苅りなど炎暑寒冷をいとわず働いた。
やがて、雄略天皇の御子である清寧天皇が位に就いたが、この天皇には御子がないため皇位を継ぐべき人を探していた。播磨国司山部連の遠祖伊与来目部小楯が、新嘗の供物を整える為に細目の家に来たところ、新室家を建て祝宴をしていた。小楯は、この席で歌に託して身分を明らかにした二王子を知り驚き、里人を集め大急ぎで仮宮を造り、二王子の御殿とした。これが「柴垣の宮」の起源である。
その後、小楯は清寧天皇に子細を奏上するに、天皇大いに喜び、すぐ二王子を都に迎えて世継ぎとした。この二王子の縁の地に、当社が創建された。
Wikipediaの顕宗天皇の項にはもう少し詳しい経緯が説明されている。
安康天皇3年10月1日父市辺押磐皇子が雄略天皇に殺されると、兄の億計王(おけのみこ、後の仁賢天皇)と共に逃亡して身を隠した。丹波国与謝郡(京都府丹後半島東半)に行き、後に播磨国明石や三木の志染の石室に隠れ住む。兄弟共に名を変えて丹波小子(たにわのわらわ)と名乗り、縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)に使役され、長い間牛馬の飼育に携わっていた。
清寧天皇2年11月、弘計王自ら新室の宴の席で、歌と唱え言に託して王族の身分を明かした。子がなかった清寧天皇はこれを喜んで迎えを遣わし、翌年2王を宮中に迎え入れて、4月7日(5月10日)に兄王を皇太子に、弘計王を皇子とした。
同5年1月16日に清寧が崩御した後、皇太子の億計は身分を明かした大功を理由として弟の弘計に皇位(王位)を譲ろうとするが、弘計はこれを拒否。皇位の相譲が続き、その間は飯豊青皇女が執政した。結果的に兄の説得に折れる形で顕宗天皇元年元旦、弘計が顕宗天皇として即位する。引き続き億計が皇太子を務めたが、天皇の兄が皇太子という事態は、これ以降も例がない。
罪無くして死んだ父を弔い、また父の雪辱を果たすべく雄略への復讐に走り意祁命にその陵の破壊を命じることもあったが、長く辺土で苦労した経験から民衆を愛する政治を執ったと伝えられる。同3年4月25日、崩御。『古事記』に38歳(但し治世8年という)、『一代要記』に48歳。なお、即位前に志毘臣(しびのおみ、平群氏)との恋争いのもつれから、これを夜襲して誅殺したという話もある(『古事記』)。
以上を読んでへ~そうなんだと思うが、どうせすぐに忘れてしまうのである。
それでは境内の参拝とまいる。
社殿に向かう石段
皇太子ご成婚記念碑
常夜燈 その後方は収納蔵。
手水舎
こちらの龍は水枯れ状態。
拝殿 拝殿前にご神木のヒノキが立っている。幹周が350cmの巨木である。
このご神木は市民の木に指定されている。
拝殿 階段下より撮影。
拝殿正面
拝殿の神額 鮮やかな金字で 顕宗天皇 仁賢天皇 と書かれている。
拝殿前御神燈 左右二基ある。 平成19年に寄進された。故に殆ど真っ新である。
狛犬二基 こちらの方は些か年期を積んでいる。
拝殿屋根下に二枚の絵馬が奉納されている。ガラス板でカバーされているので反射して見えにくいがご容赦下され。
1枚目は、高貴な身分を隠して丹波の小子と偽って使用人になっていた時代を表現したものという。見えにくいが一人は牛にのり、もう一人は鎌の手を休め横笛を吹いている。
「二王子は身分が明らかになることを恐れ、唖のふりをして、火焚き・水汲み・株苅りなど炎暑寒冷をいとわず働いた。」とあるがその割にはあそんでいますね。
2枚目は即位のお迎えの様子を表わしたものであるという。さて神輿に乗っているお方はどちらでしょうね。やはり兄の億計でしょうか。
拝殿中のご神鏡
境内社が社殿の左右と裏手に配置されている。まづ右側の境内社から紹介する。
境内社の杵ノ宮神社
その石鳥居に架かる神額
この神社は境内社ではあるが手水舎を持っている。
社殿 造りは古い。社殿が吹き抜けになっているの面白い。
この神社占有の御神燈二基もある。
こ神鏡
同じく境内社の稲荷神社
定番の朱鳥居が立っている。社殿前には御神燈二基もあり石段がつけられている。
玉垣に囲まれた社殿は全て石造りである。小さいが稲荷神社の守り神であるお狐様
二匹もいる。
その右横手が社殿裏側になり小さい御神燈が置かれている。
奥には摂社六社の石造りの社殿が並んでいる。ほぼ同じ造りなので芸がないと言えばまづいんだろうね。
左から順に
大山祇神社
三十八社大明神
大歳神社
若宮八幡社 背は高いが階段でかさ上げしているだけ。
愛宕神社
権現神社
天照皇大神社
厄神社
この神社には農村歌舞伎の舞台がある。秋祭りで披露されるそうです。
農村歌舞伎の舞台 自動車が邪魔ですね。
その様子を動画で見て見ましょう。白波五人男などが演じられている。
木津顕宗仁賢神社(神戸・西区)で農村歌舞伎
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