神戸市教育委員会による掲示板
次のように説明されている。
この舞台は、江戸時代末の天保11年(1840)に建てられた村芝居の舞台である。
江戸時代には原則として農民が芝居を観たり演じたりすることは禁じられていたが、実際にはこのような歌舞伎舞台が各地に建てられ農民たちは歌舞伎を楽しんでいた。現存する舞台は、全国で約2000棟、兵庫県下で約170棟ばかりある。
この舞台の特色は次のような点にあり、全国屈指の歌舞伎舞台として国指定の重要有形民俗文化財に指定されている。
- 江戸時代の建立で、舞台建築としては古いこと
- 規模が雄大であること(間口12メートル、奥行8メートル)
- 花道・太夫座・回り舞台・二重台・大迫り・ぶどう棚など多種の舞台機構を備えていること
- 花道の一部が回転して、反り橋が出る特殊機構があること(全国唯一)
- 神社境内の付属建造物である長床(宮座行事の建物)の利用舞台としての典型であること
農村歌舞伎舞台については、六条八幡神社や前回の顕宗仁賢神社でも見ましたね。
六条八幡神社 古びているが神戸市指定文化財である。 神戸北区 六条八幡神社
顕宗仁賢神社の農村歌舞伎舞台 こちらは随分新しいです。 神戸西区 顕宗仁賢神社
ここで一部掲示板の解説と重複するが、Wikipediaから農村歌舞伎舞台の説明を受ける。
農村歌舞伎舞台
農村歌舞伎舞台(のうそんかぶきぶたい)
日本において江戸時代より農民の娯楽として行われている農村歌舞伎や人形浄瑠璃を催すための舞台。
西日本、特に兵庫県において発達した。農村舞台は全国に1000基以上残っているが、およそ10%が兵庫県内に存在する。旧・山田町を含む北神戸には15の農村舞台があり、この地域で特に盛んであったと推測されている。
一般に歌舞伎舞台は神社境内に建てられることが多く、奉納芸能であり、主に農閑期に上演された。当初は田んぼなどに仮設の小屋をかけただけの素朴な形で上演されていたものが発達し、神社境内の長床などを舞台として上演されるようになった。
天彦根神社境内の下谷上農村歌舞伎舞台(天保11年、1840年建立)や北僧尾農村歌舞伎舞台は特に保存状態がよく当時の面影を伝えている。江戸時代には農民による芝居の鑑賞や上演は原則禁止されていたが、実際には各地にこうした歌舞伎舞台が造られ農民らは歌舞伎を楽しんでいた。
下谷上農村歌舞伎舞台では、天保12年(1841年)から始まった天保の改革(水野忠邦による)の風俗粛清の影響で閉鎖された大坂の芝居小屋の浄瑠璃太夫や人形遣いらがこの地に流れ込み、特に水野忠邦の失脚後には盛況を極めたという。規模は間口12m、奥行8mと壮大である。また舞台には、皿回し型の回り舞台が設置され、花道には一部が反転すると反り橋が現れる「裏返し機構」まで備わっていた。これは全国的に見ても珍しく、ここ以外では見られない装置であった。本来は神社境内の付属建造物である長床を舞台に利用したり、その他、太夫座、二重台、回り舞台、大迫(おおせり)、ぶどう棚など多彩な機能を有していた。
何も知らなかったが中々勉強になります。
天満神社(神戸市北区山田町上谷上)境内には文久3年(1863年)建立の、割拝殿形式の歌舞伎舞台があり、床几回しという装置を備えていた。また山田村周辺で催された人形浄瑠璃は山田文楽と呼ばれ、淡路島の三原地区と並び称されるほど有名であったが、その後芸能が継承されずに現在では上演不能となっている。
上谷上の天満神社や北僧尾の厳島神社はまだ訪れていない。次回の機会にまわそう。
お待たせしたが下谷上農村歌舞伎舞台はこれである。茅葺屋根の古くて落ち着きのある建物である。
舞台正面
現在は閉錠されていて中の舞台仕掛けは全く見れない。しかし周辺を見て廻ることはできる。
歌舞伎が演じられる際は板塀は取り外される。 現在は風通しのため下部のみ板塀になっている。
天上部分には舞台の垂れ幕が掛けられている。
茅葺屋根の構造
舞台正面下 今は草ぼうぼうの原っぱで観劇する訳だ。
舞台側面
当然どんな風に演じられているかを観たいと思いますね。探してみるとありました。まわり舞台や花道の裏返し仕掛けも見られます。 どうぞご覧ください。 神戸市広報課の制作です。
こちらもご覧ください。上谷上農村歌舞伎舞台です。同じく神戸市広報課の制作。こちらには天満神社の境内にある農村歌舞伎舞台での撮影である。
上谷上農村歌舞伎上演
芋づる式ですが淡河の北僧尾農村歌舞伎舞台の動画もありました。淡河の八幡神社を訪れたときに行き損ねた場所です。神戸北区 淡河八幡神社 I
これでおしまい。
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