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2017年10月13日金曜日

伊豆韮山 江川家住宅

韮山反射炉を見終わってから江川邸に向かう。この邸宅は韮山反射炉の生みの親というべき江川英龍の住居で韮山役所跡である。反射炉からは意外に距離があり、車で10分ほどの離れている。

駐車場を降りて江川邸正門へ向かう。



江川邸外観  この施設は重要文化財になっていて、見どころはたっぷりある。




ここで江川家住宅こと旧韮山代官所の基礎知識をWikipediaから得ておく。

韮山代官所



代官であった江川家の邸宅。この主屋の北側に役所の建物があった。解体修理の前は茅葺であった。

主屋の裏に残る蔵


韮山代官所(にらやまだいかんしょ)

江戸時代東国の幕府直轄領を支配するために設置された役所のこと。

概要:

支配地域は、伊豆国を中心とし、駿河国・相模国・武蔵国に及び、幕末には甲斐国も管轄した。また、伊豆諸島を管轄下においたこともある。

かなり広範な地域を管轄する大代官でした。

代官は平安末以来伊豆国江川荘を領する清和源氏大和源氏系の江川家によってほぼ世襲され、享保8年(1723年)-宝暦8年(1758年)の間を除き、当主は代々江川太郎左衛門を名乗のり、統治した。

政権の変動がある中を平安末以来ずっと世襲で代官を務めているというのは稀なことです。余程の信頼を地域の人々から得ていたためでありましょう。

韮山代官所は、江戸本所南割下水と韮山2か所にあり、江川氏の屋敷内にあった。代官は通常、夏は江戸冬は韮山に常駐した。江戸役所武蔵・相模・甲斐韮山役所伊豆・駿河の支配を担当する。

代官所江川氏屋敷内にあり季節ごとに変わっている。年2回の引っ越しが大変そうだね。

慶長元年(1596年)、徳川家康の家臣、江川英長(永禄3年(1560)~寛永9年(1630年))が伊豆代官職に任命されたのがはじまりとされる。
一時代官職を罷免されたが復帰し、それ以降江川氏が代々韮山代官を世襲し明治維新を迎えた。

ここで江川家の邸宅の解説です。

静岡県伊豆の国市韮山字韮山1番地にて、代官であった江川家の邸宅が現存しており、江川邸と呼ばれ一般公開されている。「江川家住宅」として、1958年(昭和33年)5月14日に主屋が、1993年(平成5年)12月9日に書院、仏間、蔵、門、塀、神社が、国の重要文化財に追加指定された。現在は1967年に設立された財団法人江川文庫の所有物である。

また「韮山代官江川家関係資料」38581点、および「江川家関係写真」461点が歴史資料として重要文化財に指定されている。

江川邸は財団化しているが、保存と維持には相当の費用がかかるそうです。現在の当主は東京在住で東芝の副社長を務めたそうです。現在東芝は経営不振ですが、それと関係しているかどうかはわからない。


江川邸の公式ホームページがあり、相当に詳しい解説がなされているのでもっと詳しい知識に関してはこちらをご覧ください。 伊豆韮山 江川邸

ここで韮山反射炉を築いた江川坦庵こと江川英龍の簡単な評伝を与える。(Wikipediaより引用)

江川 英龍



江川 英龍(えがわ ひでたつ)

江戸時代後期の幕臣で伊豆韮山代官。通称の太郎左衛門(たろうざえもん)、号の坦庵(たんあん)の呼び名で知られている。韮山では坦庵と書いて「たんなん」と読むことが多い。
洋学とりわけ近代的な沿岸防備の手法に強い関心を抱き、反射炉を築き、日本に西洋砲術を普及させた。地方一代官であったが海防の建言を行い、勘定吟味役まで異例の昇進を重ね、幕閣入を果たし、勘定奉行任命を目前に病死した。



お恥ずかしい話だがこれほど(この地では)高名な人物を私は知らなかった。小説か何かで読んだかもしれないが記憶には留まっていない歴史上の人物でした。私の知識は理工系に偏っているので、近代日本の開化に尽くした人物といっても、高々司馬遼太郎の小説世界ででてくる有名人物しか知らないのである。情けないですね。

幕末から明治維新にかけての歴史勉強をもう一度してみたいと思います。

パンフ




それでは江川邸内の見学である。

表門にNHK大河ドラマ「篤姫」のロケ写真が展示されている。



表門に至る砂利道

重要文化財 江川家住宅 の解説板  年期の入った由緒舎みたいです。


表門  

主屋玄関  立派な主屋の屋根である。銅葺きで何と高さ12mもある。個人の邸宅というより寧ろ寺院の本堂みたいである。


主屋前での私  久々の証拠写真。


役所跡  役所として使われていた施設には役人たちの住む長屋もあったという。


現在はお庭になっていて樹木が植えられている。


主屋には玄関からではなく、土間の方から入る。



土間  50坪の広い土間で色んな展示物が置かれている。 これは竃(かまど)で大釜と中釜が2つある。


天井部分  梁には武家の駕篭が吊るされている。



屋根裏の一番高い所に小箱があり、これが棟札箱と言われる。鎌倉時代に日蓮上人江川家に数日お迎えして、自筆の棟札(むなふだ)をいただいたそうである。


棟札箱が屋根最上部に置かれている。


その日蓮曼荼羅がこれです。



生き柱  江川氏がこの地に移り住んだときに生えていたけやきの木をそのままとして利用したとされる。

ポートホーウィッスル砲車  アメリカ製の砲台でレプリカです。




なぜか土間にはしめ縄が張りめぐらされている。穢れを払うためかな。


パン焼き窯鉄鍋  江川英龍は配下のものにパンの製造法を学ばせ、自邸内でパン窯を築いて実際にパンを焼かせた。


天井の梁

土間から室内に上ると、以前使われていた様々な台所用品が置かれている。


滅多に見ない囲炉裏もありました。



江川英龍描くところの自画像や富士山の書画が壁に貼られている。


中庭

江川家所有の掛け軸やお祭の纏い(のようなもの)が展示されている。


江川 英龍の描いた絵や千利休が作ったと言われる竹筒、屋根瓦なども展示されている。


主屋から玄関先を眺める。 武家屋敷という感じがします。


座敷  江川英龍所縁の色んな資料が展示されている。解説担当のおばさんがおられて、英龍の色んなエピソードを教えて下さった。勝海舟福沢諭吉とも親交があり、自宅で塾を開いたりお台場にある大小砲習練場で西洋砲術の教授を行い3000人もの弟子(受講者)がいたそうである。

この部屋で塾が開かれた。


座敷前の庭

江戸のゆるキャラ!?  武具之図  

これです。ペリー来航に対する御固(おかため)を風刺した絵で、武具をフグの形に仕立てて、「武具」と「フグ」とを掛ける趣向を凝らした図柄である。兜の下の石垣は御台場を表現している。



パン祖のパン  江川英龍は自宅に作ったパン窯でパンを焼かせたが、そのパンがこれである。彼は兵糧としての乾パンを考えていた。


江川坦庵公還訓 

主屋の拝観はこれでおしまい。主屋を出て邸内を巡る。

西蔵 肥料蔵で幕末頃の建設である。将棋の駒のような形から駒蔵とも呼ばれる。四方の壁が内側に向かってわずかに傾いている。





南米蔵 


北米蔵

双方とも内部が展示スペースになっている。

南米蔵内  主屋内と比較して安っぽい作りの駕篭や魚籠がある。


掛け軸や半纏、茶器、蝋燭台などの日用品が展示されている。


北米蔵内  大筒やサーベル銃のほか木造りの工具などの展示。


この大筒が原始的で面白い。砲身が太くて威力がありそうだ。


サーベル銃

井戸 この井戸の水を用いて江川酒と呼ばれる酒を醸造していたらしい。

井戸の覆いの上にはトチの実が並べられていた。


外皮を取ったトチの実  すぐには食べられない。栗よりもアク取りの作業が大変です。
栃の実の調理法


宿り木  桜の木にカエデとカシの木が宿った木である。 寄生樹だね。


武器庫  こちらは閉鎖されている。


びらんじゅ(毘蘭樹)  皮がはがれ落ちるとと赤い肌が見えるため、身ぐるみ剥がれた状態に喩えて「ばくちの木」ともいう。



パン祖の碑   江川英龍
がこの邸内で乾パンを始めて製造した。これに因んで全国パン協議会が昭和27年英龍パン祖の称号を贈ることにした。


パン祖 江川坦庵先生邸  碑文は徳富蘇峰による。


裏門 文政6年(1823年)の建設。門扉はもっと古いそうだ。門扉には鉄砲孔や鏃の跡が多数残されている。何気なく通過しそうになって、この邸を管理しているおじさんから教えて頂いた。


裏門から江川邸を望む。


これでおしまい。



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