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2018年5月8日火曜日

神戸中央区 布引の滝 I

布引の滝といえば、昔から和歌にも数多く詠われている神戸の名所なのに、今だ紹介記事を書いていない。それで昨年と一昨年現地取材(お手軽ですが)をして写真を沢山撮ってきてすぐに記事にする積りであった。しかしワイフの大病など多難多事の2年間を過ごし、長い間この書き掛けの記事は放置しておりました。歌碑の確認に時間が掛ってしまうのでつい面倒になってしまうのでした。

今回一念発起して歌碑巡りでもある布引の滝の紹介記事を完成させたい。

当時撮影した写真だけでなくその後取材し直した写真もあるので、今回の布引の滝シリーズの撮影時期は統一がとれていない事をお断りしておく。

と相変わらず意味のない御託をならべてから記事を始める。

神戸市バス2系統の布引バス停で下車する。生田川が流れ、その新神戸駅が山側に見える。布引の滝へは、新幹線の新神戸駅の下をくぐって行く。

生田川横にたつ巨大黒御影石のテトリス風道標

布引の滝への方向指示


新神戸駅

新幹線の生田川にかかる橋桁の下をくぐっていく。


この道路を通り抜ける。

神戸の森案内図



この裏山が背山散策路になる。 北野異人館に通じる山道である。 


布引の滝への山道には数々の歌碑が置かれている。

歌碑

布引の滝のしらいとなつくれは
絶えすそ人の山ちたつぬる

藤原定家




説明板

藤原定家(農保二(1162)~仁治二 (1241))、俊成の子、新古時代を代表 する歌人であり余情豊かな格調のたか い歌を詠んだ。新古今集・新勅撰集の 撰者であり、小倉百人一首も彼の撰に 基づいている。 この歌は後鳥羽院が関東調伏のため に京都白川辺に建てられた寺の最勝四 天王院の障子を飾った歌である。最勝 四天王院障子和歌という。全国四十六 の和歌を人々に詠ませられたが、その 時定家が詠進した布引の滝の歌であ る。 歌意は平明である。

いさごばし  布引水路橋のことである。

その橋の手前にも歌碑がある。


歌碑

あしのやの砂子の山のみなかみを
のほりて見れは布ひきのたき

藤原基家


説明板


この歌は夫木和歌抄にあるもので、 作者は後九條内大臣となっている。即 ち藤原基家(建仁三(1203)~弘安三 (1280))である。この碑に刻まれてい る兼実(久安五(1149)~承元元(1207)) の孫にあたり、続古今集の撰者に加わ って活躍した人である。 伊勢物語八十七段の「いさこの山の 上にありという布引の滝見にのぼら む」の所を「いざ、この山」とよまな いで「いさごの山」とよむ説の根拠に されている歌である。 一方、伊勢物語のこのよみ方からこ の山の名ができたとの説もある。

いさご橋から眺めた渓流


いさご橋赤レンガ積みの壁  明治時代のレンガ橋で 神戸市市章 が据えつけられている。



この橋は布引水路橋として明治33年に建造された。国指定の重要文化財である。



山麓リボンの道 道標  左に向かうと布引の滝に至る。


地蔵尊の祠  御真言が書かれてある。


ハイキングマップ  表六甲のハイキングコースがイラスト入りで描かれている。


布引渓流


歌碑

布引の滝の白糸わくらはに
訪ひ来る人も幾代経ぬらむ


藤原行能


説明板

藤原行能 ゆきよし) (治承四(1180)~没年未詳)、 鎌倉期歌人。 父は世尊寺流の書家伊経で、行能も また同流の能書家として有名で新勅撰 集の奏覧本を清書するほか諸所の額や 屏風の揮毫にあたった。新古今集以下 勅撰集に四十九首入集する。 この歌は新勅撰集にあるが、元は建 保三年(1215)順徳院の命で撰進され た名所百首歌である。「滝の白糸」は、 白く流れ落ちる滝水を幾筋もの白糸に 見たてた歌語であり、「わくらば」は、 たまさかにの意。たまに訪ねくる人も どの位年代を経たものであろうかと、 布引の滝の長年月人々から愛され観賞 されたことを詠んでいるのである。



この石段の坂道を上っていく。


歌碑

いかなれや雲間も見えぬ五月雨に 
さらし添らむ布引の滝

藤原俊成



説明板

藤原俊成(永久二(1114)~元久元 (1204))官職は皇太后宮大夫となった が出家して釈阿と号した。九十一歳の 長寿を保ったが千載集撰進以後は、鎌 倉期にかけて歌壇の長老として後進を 指導した。 幽玄美を理想としたが、それがやが て余情余韻ゆたかな新古今歌風を生み 出す母胎となった。 この歌は治承二年(1178)五月右大臣 家百首に「五月雨」の題で詠まれたも のである。なお、この歌碑の文字は明 治期、禅宗の老師であった南天棒禅師 の筆になるものである。

雌瀧への標石

歌碑

山人の衣なるらし白妙の
月に晒せる布引のたき


藤原良経



説明板

藤原良経(嘉応元(1169)~元久三 (1206))平安末鎌倉期歌人。 父は関白藤原兼実で、良経もまた太 政大臣になった。歌人としても重要な 存在で、歌壇活動を活発にした。後鳥 羽院の信任厚く、和歌所の寄人筆頭と なり、新古今撰進に大いに貢献した。 この歌は続古今集にもあるが、彼の 歌集「秋篠月清集」によれば、建仁元 年(1201)後鳥羽院などと共に詠んだ 「院句題五十首」の作で月照清水とい う題である。月光を浴びて滝水が真白 に晒される風情で、人間界のものでな く、まさに山人即ち仙人の衣であるよ うだとの趣向である。

雌瀧展望所  右側が雌瀧になる。


標石  右 鼓瀧 夫婦瀧 おん瀧 とある。

歌碑

音にのみ聞きしはことの数ならて
名よりも高き布引の滝

藤原良清


説明板

藤原良清(生没年未詳)、平安期歌人。 勅撰作者部類によれば右馬頭藤原範 綱の子で、太皇太后宮少進(太皇太后 宮に関する役所の三等官)である。千 載集に三首の歌をのこす。 この歌も千載集にあるもので「布引 の滝をよめる」との題がある。音の縁 で琴をひびかせ、同時に事の数と数多 いことを示し、布引の滝はたいへん名 高いがその数多い名でなくて、即ちそ の高名さよりなお滝が高いとその雄大 さを言っている。伊勢物語では「長さ 二十丈広さ五丈程の岩の面を白絹で包 んだ様」とあるが、雄雌と分離されず 一本で長年月の変化が思われる。

布引の滝 掲示板

雌瀧

ここでWikipediaから布引の滝の説明を伺おう。
布引の滝
Odaki, from the Nunobiki Falls.jpg
雄滝と滝壺
位置
北緯34度42分35秒 東経135度11分37秒 / 
北緯34.70972度 東経135.19361度 / 34.70972; 135.19361 (布引の滝)座標: 北緯34度42分35秒 東経135度11分37秒 / 
北緯34.70972度 東経135.19361度 / 34.70972; 135.19361 (布引の滝)
所在地兵庫県神戸市中央区
落差(雄滝)43m
水系生田川




布引の滝(ぬのびきのたき)

神戸市中央区を流れる布引渓流(名水百選)にある4つの滝の総称。日本三大神滝のひとつ。布引滝とも表記する。名瀑として知られる古来からの景勝地である。
またかつて役小角が開いた滝勝寺の修験道行場として下界とは一線を画する地であったが、現在は渓流沿いおよび布引山(森林浴の森100選)一帯から滝を経て布引ハーブ園へと至る遊歩道が整備され、鉄道駅からも気軽に立ち寄ることができるようになっている。

概要

六甲山の麓を流れる生田川の中流(布引渓流)に位置し、上流から順に、雄滝(おんたき)、夫婦滝(めおとだき)、鼓滝(つつみだき)、雌滝(めんたき)からなる。和歌山県那智勝浦町の那智滝、栃木県日光市の華厳滝とともに三大神滝とされ、日本の滝百選に選ばれている。


雄滝

雌滝

夫婦滝

鼓滝
浮世絵に描かれた布引の滝(雄瀧)

歌川広重 画

明治末期の布引の滝風景




現在とは随分様子が違っていますね。

雌滝取水堰堤

アーチ式に角石を積んで作られている。非常に珍しい構造を持つ堰堤になっている。



解説板


堰堤下部


今回はこれでおしまい。布引の滝 II につづく。

1 件のコメント:

  1. 生田神社の元来鎮座坐していたのがサゴ山。布引山/
    大祓に言う、、、サクナダリに落ち瀧つ速川の瀬にマンマご鎮座坐していたのが生田大神。

    生田大神=天照大神稚魂(荒魂) =セオリつ媛/≒不動明王 /(毘沙門天、吉祥天、弁財天(セオリ(サヨリ)媛/市杵島媛命(イザナミ)))
    この場所の真北は丹後一宮籠神社。真南は紀伊一宮伊太祁曽神社(今は日前宮に譲る)
    現在の生田神社の真北は籠神社の神奈備、、、鼓ヶ岳。

    布引瀧は謂わば生田神社の御神体そのものではなかったか?

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