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2014年8月30日土曜日

銀の馬車道


昨日、このところ続いていた雨が止んだようなので、運動不足解消と気分転換のため、1日散歩旅行を企てた。 行先は、兵庫神崎郡の神河町である。 銀の馬車道、正確には生野鉱山寮馬車道の一部を歩いてみたいと思ったのである。 馬車鉄道とか、無口で懸命に働く馬が好きなのです。  
    日本の馬車鉄道 

朝食後、バスでJR六甲道まで出て、快速と新快速を乗り継いで姫路駅に昼頃到着。


こちらは、駅前南口です。 このようなモニュメントがあります。 




駅舎の北側(姫路城方面)は半年前と比べると、改築がなって随分モダンになっている。 これが、駅ビルの piole(ピオレ)姫路 です。

駅前広場がコンサート会場にも使えるようになっている。 地下にはサンクンガーデンがある。


 仕事前の腹ごしらえということで、前回の記事姫路のマスコットキャラ一覧 で食べそこなった姫路おでんを食べることにする。 MAneki Dining(JR姫路駅構内・食堂) に入りました。

これが、姫路おでん定食というやつです。 たっぷりと生姜が盛られている。 これに醤油をドバドバといれて、おでんの上に乗せて食べるわけである。 おでんは、薄味でしょうが醤油と良く合う。 口直しが冷奴になる。 美味である。 特にうまいという訳ではないが、しょうちゃんではないが、さっぱりしているけどひとなつっこいのである。




姫路駅から、播但線で 寺前(てらまえ)に向かう。 Wiki の説明だと、

播但線(ばんたんせん)
兵庫県姫路市の姫路駅から兵庫県朝来市の和田山駅に至る JR西日本の鉄道路線である。

ローカル線ですね。 イコカとかパソモ等のカードは使えない。 
デジタル清算ができないので、通常の切符を買うしかない。 
寺前まで、43分で運賃は580円。
姫路駅 - 寺前駅間で使用されている103系3500番台
姫路駅 - 寺前駅間で使用されている
103系3500番台
路線総延長65.7 km
軌間1067 mm
電圧姫路駅 - 寺前駅間
1500 V(直流)
最高速度110 km/h

車両は、これです。103系3502

ワンマン列車です。 沿線の景色をみるのは楽しい。
田舎の列車ですが、車両は新しいようですね。

私が乗車したのは昼過ぎだが、結構沢山のひとが乗ってきた。 しかし、進むにつれ徐々に乗客が降りていって、乗りかえ駅の寺前では10名前後でした。 ここで、和田山行に乗り換える訳です。 

私は、神河町にいくのが目的なので、この寺前で下車。

これが、寺前生野和田山間の列車です。1両編成です。




脱線するが、生野から和田山へ向かう沿線に鉱石の道というのがある。 
明延鉱山、神子畑鉱山、生野鉱山を結ぶ交通路です。


これは、日本最古の鋳鉄橋と言われる神子畑鋳鉄橋です。 銀の馬車道につづく道路です。

その鉱石の道を車体に描いてあるのが、この車両です。 ディーゼルカーですね。 生野ー和田山 間は、非電化なのです。 今や当たり前であるが、この播但線も主要駅以外は、全て無人駅になっている。




さて、ここで目的地 銀の馬車道 をWikipedia で参照するとつぎのように書かれてある。
        
生野鉱山寮馬車道(いくの こうざんりょう ばしゃみち)
明治時代前半に兵庫県にあった官設馬車道。別称は生野鉱山道、近年は銀の馬車道とも言い、経済産業省の近代化産業遺産に認定されている。

概要: 
生野鉱山(現・朝来市)と飾磨港(現・姫路市)を結ぶ道路で、鉱山関連物資の輸送のために旧但馬街道(生野街道)を工部省鉱山寮が整備したものである。1875年に着工、1878年に竣工した。

生野鉱山に招聘されていたフランス人技師レオン・シスロイの設計により、当時ヨーロッパの最新技術であるマカダム舗装が取り入れられた。全長49km、道路幅は6m以上が確保され、馬車などの車両がすれ違える幅員とした。日本初の高速道路ともいわれる。
 
1895年(明治28年)に播但鉄道(現在のJR播但線)が飾磨-生野間で開通したため、物資輸送の主力は鉄道に取って代わられた。馬車道としては1921年(大正9年)に廃止となったが、その後も道路として利用された。
 
2006年頃から、銀の馬車道プロジェクトとして、沿道周辺に残る歴史遺産の整備が進められようとしている。

 銀の馬車道交流館で頂いた資料があるので、こちらのほうで解りやすく説明しよう。 馬車道は兵庫県のこの位置にあり、ルートはこのようになっている。








 
上にも書いてあるように、生野銀山飾磨津を結ぶ49㎞の日本初の高速産業道路である。

 銀の馬車道は、生野銀山で産出した銀を飾磨津へ運び、同時に採掘・製錬に必要な機械や石炭等の資材を馬車で運ぶルートとして建設されたわけである。 

 
明治政府は、国の財政基盤の確立のため(当時は金本位制で、物品の輸入支払には所謂貿易銀などの純度の高い銀が必要だった)、生野銀山を初の国営の銀山として、近代化に着手する。
火薬による発破法や製錬のための大型機械などの整備により、産出量を飛躍的に向上させようとしたのある。

生野銀山坑道


そのためには、資材や産出鉱石を効率よく輸送する道が必要になる。 そこで、生野と物流の拠点である飾磨津との間の輸送ルートとして、この生野鉱山寮馬車道(銀の馬車道)が計画されたのである。

実際は、3案あり、

1案:市川を利用した船運 → 水量が充分でない 
2案:鉄道を作る → 費用がかかりすぎる
3案:既存の街道を改修・拡幅して馬車道を作る → これなら短期間で可能
 

 
ということで、外国人技師をよんできて、明治6年に道路の建設を開始し、3年後の明治9年に完成させたのだ。 膨大な国費を使った突貫工事でありました。

現在の面影の残る神河町の 銀の馬車道 です。 この写真は、銀の馬車道公式ホームページ より。




歩いたコースを説明する。 寺前駅下車。 この駅です。 
無人駅ではないが、駅員(長)は一人だけ。



駅の横を流れる市川。 このところの雨つづきで水量は多い。


駅の向こう側には、ぽっこりとしたお山が見える。

地図が小さくて見えにくいが、で囲った寺前駅から国道8号線を歩いて銀の馬車道方面に向かったのだ。



8号線沿いには、このようなレストランがあったが閉鎖されている。 景気は相変わらず悪いんだろうね。   
 


 
 道路の周辺は、このように水田である。 稲の穂は実っていたが、強風のため倒れている個所があった。収穫に影響しないのだろうかと、他人事ながら心配する。

 

途中、道路脇の山肌にこんな祠を見つけた。 お地蔵さまのような、石仏が祀られている。 
水子地蔵なのだろうか? よくわからん。


道路沿いにある民家のお庭で見つけた花です。名前は知らない。シソの葉の間に咲いている。
面白い。 もうひとつはダリアですね。 花を見つけると、なぜか写真に撮りたくなる。

 


歩いていくと、このような寂れた神社があった。鳥居には、大歳神社とある。


ここで休憩を取ろうと思い、お百度石にお祈りをして神社にむかう。 
石段を登ると、社の中は板張りの休みどころのようになっていて、板張りの上壁には、絵馬が掲げられている。 どのような由緒ある場面なのか分からぬが、面白いので撮ってみた。





この神社の脇には、水量の豊かな用水路がある。 きれいな水がかなりの勢いで流れている。 


 
 神社を出て、しばらくあるくと、揚林山 向本寺の山門にでる。 ついでと言ってはなんだが、お参りすることにした。 


 


お寺の周辺には、お墓が立ち並んでいる。新しいのや、由緒ありげな古いお墓など色々である。

 
これが山門です。


お堂の壁には、稚拙な感じであるが竜の壁画が描かれている。 



お寺の境内は、このようである。向かいにあるのは、鐘つき堂(台?)である。

お寺の裏山は、やはりお墓になっており、歴代の住職のお墓がある。


                       恵禅大定和尚とある。

 
裏山からお寺を望むとこんな風景になる。 

 

 そして、ここが播但連絡道路の神崎南ランプ。


この道路に沿って水田が広がる。 このような田園風景だ。




猪篠川にかかる橋を渡ると

 

このような新しい神崎支庁舎にでる。 ここらが、神河町である。


街路樹の百日紅の根元の枝に花が咲いていた。これはこれで美しい。


ここにも、宣伝つきのバスが走っている。神河町の宣伝バスですな。


道路沿いに歩いていくと、このような看板がある。差し当たっての目標は、一番下にある銀の馬車道交流館に到達することである。


指示板に従って道を歩いていく。 もう既にこの道は、舗装されているが銀の馬車道の一部である。 立派なお屋敷がならんでいるが、その屋根にはこんな弁財天の瓦が据えつけられている。


そのお屋敷の庭に、むくげの花を見つけた。


真っ赤な、シソの葉。

そして、ケイトウの花。

着きました。銀の馬車道交流館。入り口の地面にも表示がある。


これが入り口。日射よけののれんが掛かっている。2階建てのようですが、展示場は1階のみ。


入場は、無料です。 これが、パンフ。


その裏面。


交流館の受付のおじさん、といっても私と同年配だが、その方に銀の馬車道の歴史やゆかりのある人々、関連する資料などについて色々と教えて頂いた。 その上に資料までも頂いたのだ。

資料のパンフの一部です。 プロジェクト未来遺産とある。 表紙と次のページです。




調べてみると、これらのパンフは、銀の馬車道パンフレット に置いてありました。  

資料や係員のおじさんの解説を参考にして展示物の説明をする。

馬車輸送に使っていたのは、ばんえい馬のような馬だったそうです。 しかし、展示写真をみるともっとほっそりした馬なので、全ての馬がばんえい馬ではないと思える。それと、荷車の中は鉱石なのだが、そんな重いものを運ぶとは思えぬ。1㎏中2grしか銀が含まれないそうなので、余りにコストパフォーマンスが悪いからだ。 以前、生野銀山に行ったのだが、そこで製錬も行っていたので、もっと純度の高い粗銀だったと思える。 この展示物にはウソがありそうだ。 

 
展示の馬を正面から見るとこんな風で、穴のあいた馬つなぎ石に繋がれていた訳です。
これは、実際に使われていたものです。
 
 
ちなみに、この馬の張りぼては獨協大学の学生さんたちが協力して作ってくれたそうです。 

天井には、銀の馬車道ウォーキングマップというのが掲示されている。 カーテンのようになっていて横に長いので、5枚に分けて写真を撮った。



 




見難い写真ですね。 ひょっとして思って検索すると、このページがありました。 
銀の馬車道ウォーキングマップ パンフレット

 これを見ると、コースと付近の観光スポットは一目瞭然です。 マップは6枚あります。 興味ある方のため、表面のみ示します。 該当の個所をクリックすれば、PDFファイルが得られます。

ウォーキングマップ


 
Wikiによる説明に、

生野鉱山に招聘されていたフランス人技師レオン・シスロイの設計により、当時ヨーロッパの最新技術であるマカダム舗装が取り入れられた。全長49km、道路幅は6m以上が確保され、馬車などの車両がすれ違える幅員とした。

とありました。この文章中にある、マカダム舗装 について(受け売りだが)説明する。

重い荷を積んだ馬車が滑らかに走れる固い道路を作るため、路面を下層から粗石、
小石、玉砂利と3層構造で敷き詰め、転圧ローラーで固めて舗装。路面は田畑から60cm高くして、側溝を設け排水性を高める。

その展示模型の写真です。 ピンボケ気味で申し訳ない。




 
これは、舗装路の断面です。
 

レオン・シスロイは、この馬車道の設計技師です。 明治政府のお雇い技師で、高給で働いていました。 彼の作成した馬車道設計図がこれです。
 

 


銀はこのように精製され、当時の1円銀貨とか貿易銀に変わったわけです。



貿易銀は、1オンスの重さ(当時の基本重量)で、現在の価値は状態により、8万円から50万円くらいまでします。 1枚で一財産ですね。

この交流館には、足踏み式のミシンや駕篭、和文タイプライターなども展示されていた。





こちらは、政府の命でコアニエと共に生野に入り、フランスからの大型機械導入や、輸送手段の馬車専用道路の建設等で、生野銀山の近代化に貢献した朝倉盛明(あさくらせいめい)と、フランスからのお雇い鉱山技師のジャン・フランソワ・コワニエです。 馬車道を完成させたシスレーは、彼の妻の弟です。


 

交流館を出て、銀の馬車道を歩く。 今度は、民家の屋根にえびすさんの瓦を見つけた。
この周辺にも良い粘土がでるらしい。
 


観音橋の手前には、2本の古い道標があった。


これが、橋から見た越知川の流れです。


橋を渡ったところに、「銀の馬車道」の案内板がある。 播州名所図にも描かれているそうだ。


すこし歩いたところには、いぼ地蔵が祀られている。

2012042930.JPG

 
以下は、越知川の岸から写した写真です。
川の流れが岩にあたり、何とも形容のし難い水しぶきの音がする。そして、勢いのあるザーという流れの水音。それが混じり合い、周期的でありそうでいて、細かく変動している。  
木陰に入ると、セミの鳴き声が聞こえ、心地よい風が吹いてくる。 暫しの休息を楽しんだのだ。





 
この越知川の川沿いの道を散策する。 




川端にある岩の隙間に、このような一輪のユリ。


 
かくして銀の馬車道越知川沿いの散歩を切り上げて、帰途につくことにした。 

 


 

このバス停から、新野ゆきのバスに乗り込む。新野駅は、無人駅であった。
この写真は、新野駅開設25周年記念のモニュメントです。
 
そして、この駅には丁度、この銀の馬車道ラッピング電車 が停車していた。


ここは、水車の郷として知られており、
 
このような水車が回り、水田に水を汲み上げている。 ななめに結わえられた筒のなかに水が入り、この筒が上昇すると水がこぼれ出て、その水を田に流し込む仕掛けです。
実にうまく作られている。
 
新野水車の郷と梅花藻

新野駅から姫路に戻り、姫路で夕食を済ませる。ご当地グルメでなく、立ち飲み屋での飲食。
姫路からは、新快速と快速を乗り継いで六甲道駅に着。 自宅についたのは、午後9時であった。
久しぶりの長い散歩旅行であった。
 
3日がかりの長い記事になりました。今回はこれでおしまい。ごきげんよう。 
 
 
 
 

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