なんとか、目の具合が回復してきたので、趣味のブログ書きを再開する。 今回は、以前の書きかけの記事のつづきをアップする。 消えた挿絵画家の竹中英太郎を紹介したいと思っていた訳です。 芸能評論家の竹中労のお父さんですね。 知っている人は少ないだろうと思っていましたが、調べてみるとそうではなく、竹中英太郎記念館 というのが作られていました。 娘さんの竹中紫さんが館長を務めています。 まづは、その導入編からです。
江戸川乱歩は、子供のころに少年探偵団なんかの小説で読んだ有名な推理作家です。
怪人二十面相 と彼に対抗する名探偵明智小五郎とか、助手の小林少年が活躍する探偵小説ですね。 確か、月間雑誌「少年」に連載されており、挿絵いりの小説で、夢中になって読んだものです。
その後20代のころだったと思うが、乱歩が幻想怪奇小説の作家でもあることを知り、図書館で借りて屋根裏の散歩者、人間椅子、陰獣、パノラマ島奇談、一寸法師、黒蜥蜴、 蜘蛛男をなどの小説を読んだことがある。 耽美的であり、おどろおどろしい世界を描いた作家でもあると、再認識したのでした。
Wikipedia には、かなり詳しい記事がる。 江戸川乱歩
幻影城も読んだことがあって、これは海外推理小説の詳細な評論で、このような知識があるからこそ沢山の推理小説を書けるのだろうとおもったのだ。実際は、そうでなく実作ができなくなったので、評論のほうにまわったのである。
Wiki の記事から少し引用する。
1959年のインタビューでは、「推理物は一作目にいいものが多く、クリスティを例外に、一般的に年を取るにつれ筆が鈍る。自分にはすでに創意がない。60歳の誕生日会のとき再び筆を取ると宣言したが、書いてみたら納得がいかなかった。代わりに今後は探偵小説史のようなものをまとめたい」と語ったが、その夢は実現されなかった。
生前・没後に各四度も全集・選集が刊行された作家は、日本では分野を問わず他に存在しない。
自分の理想とするレベルと実際の能力レベルのギャップに苦しむというパターンですね。
これは、致し方ないですね。 余程の人でないかぎり、創作力は年齢とともに低下もしくは枯渇します。 谷崎潤一郎なんて例外もありますが、大作家といえども大抵はそうです。はっきり言って、司馬遼太郎も後年はそうだったと思います。評論しか書けなくなっていたものね。
それにしても、全集・選集 が生前、没後と各4回も出されているのは凄い。
今回は、江戸川乱歩のことではなく、彼の作品「陰獣」の挿絵を描いた画家 竹中英太郎についてです。
私が、彼のことを再認識したは、無頼の点鬼簿 筑摩文庫、2007年9月 を読んで、元祖ルポライターの竹中労の父親だと知ったことです。
竹中 労 (たけなか ろう) | |
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誕生 | 1930年5月30日 東京府東京市牛込区 |
死没 | 1991年5月19日(満60歳没) 東京都千代田区 |
職業 | ルポライター、アナーキスト、評論家 |
国籍 | 日本 |
活動期間 | 1959年 - 1991年 |
主題 | 芸能、政治 |
主な受賞歴 | 日本推理作家協会賞(1991年) |
処女作 | 『団地七つの大罪』 |
彼もまた興味深い、無頼の人生を送った人物で、彼の書く文章は眉唾の部分もあるが、実にカッコいい。 その父を悼む記事。
残雪、竹中英太郎逝く、・・・・・
1988年4月、季ならむ夜来の雪がまだ消え残る8日午前11時54分。新宿の街頭で竹中英太郎はゆき倒れ、救急車がかくつけたとき命耐えていた。
虚血性心不全、行年八十一。
血を分けた誰一人、看取るものもなく。 ・・・・・
アナーキストで、非合法活動をつづけていましたが、糊口をしのぐための挿絵が売れ、一世を風靡した。 「陰獣」 の挿絵など沢山の挿絵を描いて、人気を博したわけです。
Wikipedia にも記事、 竹中英太郎 がありますが、調べてみたところ、挿絵画家竹中英太郎 と
竹中英太郎記念館 のページの記事が圧倒的に詳しい。
竹中英太郎の娘さんである、竹中 紫さんが館長である、湯村の杜 竹中英太郎記念館 のホームページには、彼についての年譜や画集等、詳しいデータが与えられている。
また、“襟裳屋”さんのページ、挿絵画家竹中英太郎 には、彼の挿絵画家としての時代の詳しい画業や人となりが説明されており、息子竹中労の編集による作品集の記事中の正誤表まで作られている。
この作品集です。 現在稀覯本になっており、Amazonで調べると、10,560円から16,800円 まである。 ちょっと。入手は難しい。
百怪、我ガ腸(ハラワタ)ニ入ル―竹中英太郎作品譜 単行本 1990/8/1
竹中英太郎の経歴や画業について、解説をしたい。 残念なことに、著作権の関係により、竹中英太郎記念館 のホームページからは、無断で記事や画像を引用できない。 それで、可能な範囲で紹介したい。 竹中英太郎の生誕100年記念の刊行物です。 中身は紹介できない。
竹中英太郎の一生を概観するには、個人的な思い入れが大きいとはいえ、娘である記念館の館長の説明が一番であろう。 要約することはやめて、そのまま引用する。
「新青年」と言う雑誌があった。大正9年に創刊され昭和25年まで続いた都会派の雑誌である。
大らかな日常の中、モダンボーイ、モダンガールが青春を謳歌していた素晴らしき時代 おどろおどろしい雰囲気を作り出す江戸川乱歩 横溝正史 夢野久作 久生十蘭 小栗虫太郎などの探偵小説に当時の青年たちは熱狂した。
昭和3年 その「新青年」編集部を訪れた一人の男が居る。それが竹中英太郎であった。
当時の編集長、横溝正史から一冊の分厚い原稿を渡された。タイトルは江戸川乱歩の「陰獣」。
英太郎は、「陰獣」の挿絵を描いた事から「新青年」に数々の作品を発表する事になる。
松野一男、岩田専太郎らとともに彼ら挿絵画家たちは、一種独特な「新青年」と言う雑誌のイメージを創り上げてゆく。
ふと気づくと英太郎は、大衆画家の頂点に立っていた。望んで得たわけではない名声と収入 それは心地よい状況の変化ではなかった。
その頃彼の志は時代の流れに逆行していたのである。
昭和10年 横溝正史「鬼火」の挿絵・大江春泥画譜を遺し満州へと旅立つ。
流行画家としての生活を捨て 求めた大陸への熱い思いは いかほどであったろうか。
石原莞爾と親交を結び 五族協和王道楽土の新世界を夢に見る。
「月刊満州・日本語版」「少年満州実話集」の編集は其の思いの一部であった。
ところが東条英樹による石原弾圧の陰謀の影響であろうか 昭和14年 英太郎はハルピンで憲兵隊に逮捕され 内地へと強制送還された。やがて時代は全面戦争へと流れ行く。
戦後 彼の画壇復帰を望む声に対して 英太郎は「絵をうらない生活」を望んだ。
疎開先の甲府に落ち着き 地元の労働運動に深く関わるようになったのは、昔夢見た初志の回復を目指してのことであったろうか。
その後 山梨日日新聞論説委員、地方労働委員会会長を歴任。昭和40年代にはいると 志を同じくする長男の「労」に請われるまま再び絵筆をとった。
労の個人誌 著作 ポスター そしてレコードジャケットの装丁など、戦前のモノクロームから鮮やかな色彩へと画風は変化してゆく。墨、 日本絵具 パステル 油彩 ポスカラを自在に用いて描き淫美な世界は それまでのブランクを全く感じさせなかった。
昭和54年 五木寛之「戒厳令の夜」映画化にあたり 物語の展開に不可欠な五点の作品を描くため 南米コロンビアを訪れる。
帰国後 「少女」三点を含む五点の作品を完成させたのであったが 映画スタッフによって「少女像」のうち一点には穴を開けられ もう一点は火の中に投じられた。
栄太郎の描く絵は単にエロ・グロナンセンスとか怪奇といったノンポリテックなものではなく彼の生きざまとともに ある志のよって裏打ちされていた。
故に栄太郎は映画スタッフに対し穏やかでは在るが強く抗議。彼自身の信念と 自己の作品に対する愛があればこその行動である。映画スタッフは、非礼を詫び この一件は決着をみた。
昭和61年 八十歳になった英太郎は「花電車の女」を描き その後に筋無力症を患う。
細い線を描くことが出来なくなったために 扇画に花・貝殻など小物を配した作品を いくつか残している。
彼は死の直前まで現役を守ったのである。昭和63年 4月8日 所用で上京中発作に襲われ 新宿の街頭で倒れた。救急車が駆けつけたとき 命絶えていた。
「畳の上では死なぬ」
と言う平生の口癖通り 肉親に永別の刻を与えぬ大往生であった。虚血性心不全 享年八十二、 波乱万丈型破り スケールの大きな人生であった。つつじヶ崎霊園の自然石には 自らの手で刻んだ墓碑銘がある。
「せめて自らにだけは、恥じなく眠りたい、と」 英太郎
湯村の杜 竹中英太郎記念館
館長 竹中 紫
この記事で、ほぼ竹中英太郎の人となりがわかる。 ところで、享年が竹中労の記事81歳と違っているが、おそらくこの記事の82歳が正しい。彼もまた、見事に己の人生を生きた人であった。
最期に、竹中英太郎の、著作権に触れない程度の画像をアップする。 たっぷり画像を紹介したかったのであるが、それはやはり無理であった。 これが一番残念!
いうまでもないことだが、彼は「陰獣」におけるような特異な画風ばかりでなく、幻想的なもの、写実的なものと色んな画風の作品を残している。
もう少し長く書きたかったのだが、疲れ気味なので今回はこれでおしまい。 ごきげんよう。
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