入院までに、時間があるので、記事を1つ書いておきたい。 馬車鉄道の話です。
前回の路面鉄道の記事の際に、先行路面鉄道として馬車鉄道があると書いた。 調べてみると、日本には、いくつも馬車鉄道がありました。 主要なものから、というか目についた順に紹介する。
1. 東京馬車鉄道
Wikipedia によると、
東京馬車鉄道
東京馬車鉄道(とうきょうばしゃてつどう)
1880年(明治13年)に設立され、かつて東京府東京市において馬車鉄道を運営していた会社。日本初の馬車鉄道であると共に、日本初の私鉄でもある。
1882年(明治15年)6月25日、日本橋-新橋間に開業したとある。
その様子が当時の錦絵にも描かれている。 東京名所の錦絵の1つです。
「東京名所之内銀座通煉瓦造鉄道馬車往復図」
「鉄道馬車往復日本橋之真図」 三代歌川広重
絵図によれば馬2頭挽きで、客車には30人程度を乗せた様である。 関連記事は、沢山ある。
ここでは紹介できないが、歴史については、Wikipedia を参照してほしい。
2. 中武馬車鉄道
これまた、Wikipedia によると、
中武馬車鉄道(ちゅうぶばしゃてつどう)
埼玉県入間郡入間川町(のちの狭山市)と東京府西多摩郡青梅町(のちの東京都青梅市)を結んでいた馬車鉄道。
とあります。 恒例になってしまったが、路線図をあげる。
中武馬車鉄道 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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旧青梅停留所跡に立つ
「此処に駅有りき」碑 台座には「中武馬車鉄道森下駅跡」 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
路線総延長 | 18.34 km | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
軌間 | 762 mm | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
凡例
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この 中武馬車鉄道 については、非常に良質の記事がある。 入間馬車鉄道の歴史 西村鉄翁
その要約をおこなう。 地図上の路線図です。
明治期の埼玉における鉄道事情を略記して、馬車鉄道の生い立ちを見る。
川越鉄道の開通により、飯能地方からは入間川(現狭山市駅)に出て、国分寺経由で甲武鉄道(現JR中央線)のコースをとると東京との間が飛躍的に狭まった。
1917年(大正6)12月19日の株主総会において会社の解散が決議され、17年間にわたった入間馬車鉄道は幕を引いた。
との事です。
- 1883年(明治16)7月 日本鉄道によって上野・熊谷間が仮営業を開始したのが最初で1年後には、高崎まで開通した。
- 1887年(明治22)4月になり、甲武鉄道(現在の中央線)新宿-立川間が開通。
- 1894年(明治27)11月 青梅鉄道の手により立川-青梅間が開通。
- 同年12月21日に川越鉄道(当初は河越鉄道と書いたようである)によって、国分寺-東村山間開通。[現西武鉄道国分寺線]
- 翌28年3月21日には川越まで開通。
- 1901年(明治34)10月7日上武鉄道(現秩父鉄道)熊谷-寄居間開通と続く。
1917年(大正6)12月19日の株主総会において会社の解散が決議され、17年間にわたった入間馬車鉄道は幕を引いた。
との事です。
狭山市立博物館には、入間馬車鉄道の客車のレプリカの展示があります。
3. 大阪馬車鉄道
残念なことに、Wikipedia による記事はない。実際の馬車鉄道の写真も見つけられなかった。
この錦絵の画像だけである。
しかし、関連記事が幾つかあるので、それを紹介する。 編集長敬白 の記事より。
碑そのものは2000(平成12)年3月に大阪市が建立したもので、背後には地形図を伴った解説看板も設置されています。この解説にはこうある。
「馬車鉄道跡
明治三〇年(一八九七)、大阪馬車鉄道株式会社が設立され、同三三年に天王寺西門前から東天下茶屋間が開通した。これは軌道上の客車を馬に牽かせた鉄道で、たちまち繁盛し、二年後には下住吉まで延長された。
その後、沿線一帯の開発とともに、電化の計画が立てられ、同三九年三月に社名を大阪電車鉄道株式会社と改め、さらに同年一〇月、浪速電車軌道株式会社と改称し、同四一年にいたって馬車鉄道は廃止されることになった。同四三年から天王寺西門前から住吉前までの電化による営業が開始された。これが現在の阪堺電気軌道上町線の端緒となった。
大阪市教育委員会」
石碑は、このように阪堺線東天下茶屋駅の構内にあります。
4. 富士馬車鉄道
これについては、Wikipedia にかなり詳しい記事があります。
しかし、項目は、「根方軌道」 です。
富士馬車鉄道
静岡県にあった馬車鉄道でのちに富士鉄道と改称。
日本で6番目の馬車鉄道であり、静岡県最初の私設鉄道である富士馬車鉄道(初代)は、官設鉄道東海道線の鈴川停車場から、入山瀬に1889年に建設された富士製紙の工場付近を経て、大宮町(現在の富士宮市)に至る14.1kmを1890年6月26日に開業した。富士馬車鉄道の軌間は609mm、使用レールは12ポンドのものであった。
富士鉄道(馬車鉄道)の様子(明治時代後期) 富士市立博物館 より。
5. 三春馬車鉄道
Wikipedia に書きかけですが、記事がありました。
三春馬車鉄道
三春馬車鉄道はトーテー馬車の愛称で親しまれました。馭者の吹く真鍮のラッパ(のちの豆腐屋のラッパ)の音色が、トーテーと聞こえたからです。三春駅すなわち馬車会社は、中町の中央部八幡町の向かって左側にありました。相当の敷地でした。
所要時間は三春 - 郡山間が80分、郡山 - 三春間100分を要した。明治27年度の事業報告書によれば営業好況で貨車、馬匹を増加したとしており利益を上げていた。
また明治40年代には輸送人員も5万人台を突破していた。貨物をみると三春町へ移入したものは米、雑穀、鮮干魚の順で多く、移出したものは木材、石材、煙草等であった。
1914年(大正3年)7月に平郡西線が郡山-三春間が開通することになり馬車鉄道は鉄道開通当日より運転回数を増加し運賃30銭から21銭に値下げするなど対抗措置をとったが利用者が激減し廃止された。
現在、郡山市の会社役員、歴史研究家の橋本捨五郎が復元した客車が郡山市歴史資料館に、また、同氏が寄贈した三春馬車鉄道会社の碑が三春町内に残る。
6. 山梨馬車鉄道
この鉄道馬車に関しては、Wikipedia に詳しい記事がある。 山梨馬車鉄道
山梨馬車鉄道(やまなしばしゃてつどう)
山梨県甲府市と東山梨郡勝沼町(現在の甲州市勝沼町)、南巨摩郡鰍沢町(現在の富士川町)を結んでいた馬車鉄道。
中央本線・富士身延鉄道(現在の身延線)開通前、甲府周辺唯一の鉄道系交通機関として、また富士川舟運の陸上連絡輸送手段として重要な役割を果たし、「ガタ馬車」という愛称がつけられていた。山梨交通電車線の母体となった鉄道でもある。
甲府市の中心街である柳町や八日町を中心に、東の石和へ向かう路線と南の鰍沢河岸に向かう路線が一体化した逆L字形の本線と、柳町から甲府駅前へ至る支線とに分かれ、全体ではT字型の線形となっていた。中央本線が甲府に達する前は駅前への路線は存在せず、路線も石和から先の勝沼まで通じていた。
7. 北海道の馬車鉄道
これにも、大変充実した学術的な記事がある。 batetu22
この記事に従って要約する。
北海道の馬車鉄道は、明治30年に函館で開業した亀函馬車鉄道に始まり、厚真軌道が
開業した昭和2年までの間に15社の馬車鉄道会社が開業した。
これらの馬車鉄道は、地域によってその役割は異なっており、函館、札幌などは都市交
通を目的として建設され、岩内及び登別は鉄道との連絡を主な目的として建設された。
このほか石炭や木材など産業用資材の輸送を目的として建設されたものも多かった。
とあり、馬車鉄道のリストを挙げている。
(開 業 年) (会 社 名) (主な路線) (旅/貨)(備 考)
明治30年 亀函馬車鉄道株式会社 東川町~弁天町 旅 客 のちの函館馬車鉄道
明治37年 三井物産合名会社 早来~厚真 貨 物 鉄道用枕木輸送
明治38年 岩内馬車鉄道株式会社 岩内~小沢駅 客・貨
明治39年 上川馬車鉄道株式会社 旭川駅~近文 旅 客
同 年 歌神炭鉱 歌神~歌志内 貨 物 石炭輸送
明治42年 札幌石材馬車鉄道株式会社 石山~山鼻 客・貨 主に石材輸送
同 年 三井物産合名会社 鵡川~苫小牧 貨 物 木材輸送
明治44年 札北馬車軌道株式会社 札幌~茨戸 客・貨
大正 元年 札幌市街馬車軌道株式会社 札幌市内 旅 客 (旧)札幌石材馬車鉄道
大正 4年 登別温泉軌道株式会社 登別駅~温泉街 旅 客
大正 8年 富士製紙株式会社 湧別芭露~中湧別 貨 物 木材輸送
大正 9年 士別軌道株式会社 士別~上士別 客・貨
大正11年 早来軌道株式会社 早来~厚真 客・貨 三井物産社線再利用
同 年 軽石軌道株式会社 軽川~花畔 客・貨
昭和 2年 厚真軌道 知決別~幌内 客・貨
各馬車鉄道の歴史とか経緯が上記の記事には説明されている。
ここでは、札幌の馬車鉄道の1つとして、札幌市街馬車軌道の写真を見てみよう。
札幌の北海道開拓の村では、観光用の馬車鉄道が運行されている。 開拓の村3. 大阪馬車鉄道
残念なことに、Wikipedia による記事はない。実際の馬車鉄道の写真も見つけられなかった。
この錦絵の画像だけである。
しかし、関連記事が幾つかあるので、それを紹介する。 編集長敬白 の記事より。
碑そのものは2000(平成12)年3月に大阪市が建立したもので、背後には地形図を伴った解説看板も設置されています。この解説にはこうある。
「馬車鉄道跡
明治三〇年(一八九七)、大阪馬車鉄道株式会社が設立され、同三三年に天王寺西門前から東天下茶屋間が開通した。これは軌道上の客車を馬に牽かせた鉄道で、たちまち繁盛し、二年後には下住吉まで延長された。
その後、沿線一帯の開発とともに、電化の計画が立てられ、同三九年三月に社名を大阪電車鉄道株式会社と改め、さらに同年一〇月、浪速電車軌道株式会社と改称し、同四一年にいたって馬車鉄道は廃止されることになった。同四三年から天王寺西門前から住吉前までの電化による営業が開始された。これが現在の阪堺電気軌道上町線の端緒となった。
大阪市教育委員会」
石碑は、このように阪堺線東天下茶屋駅の構内にあります。
4. 富士馬車鉄道
これについては、Wikipedia にかなり詳しい記事があります。
しかし、項目は、「根方軌道」 です。
富士馬車鉄道
静岡県にあった馬車鉄道でのちに富士鉄道と改称。
日本で6番目の馬車鉄道であり、静岡県最初の私設鉄道である富士馬車鉄道(初代)は、官設鉄道東海道線の鈴川停車場から、入山瀬に1889年に建設された富士製紙の工場付近を経て、大宮町(現在の富士宮市)に至る14.1kmを1890年6月26日に開業した。富士馬車鉄道の軌間は609mm、使用レールは12ポンドのものであった。
富士鉄道(馬車鉄道)の様子(明治時代後期) 富士市立博物館 より。
5. 三春馬車鉄道
Wikipedia に書きかけですが、記事がありました。
三春馬車鉄道
1887年(明治20年)7月日本鉄道により郡山まで鉄道が開通すると三春町では郡山 - 三春の物資輸送の手段として馬車鉄道の敷設が考えられた。そして1891年(明治24年)5月26日三春馬車鉄道株式会社発起人川又恒三郎ほか5名に対し福島県田村郡三春町より安積郡郡山町に至る馬車鉄道を敷設し、運輸業の営業をすることの特許が下付され12月に開通した。
所要時間は三春 - 郡山間が80分、郡山 - 三春間100分を要した。明治27年度の事業報告書によれば営業好況で貨車、馬匹を増加したとしており利益を上げていた。
また明治40年代には輸送人員も5万人台を突破していた。貨物をみると三春町へ移入したものは米、雑穀、鮮干魚の順で多く、移出したものは木材、石材、煙草等であった。
1914年(大正3年)7月に平郡西線が郡山-三春間が開通することになり馬車鉄道は鉄道開通当日より運転回数を増加し運賃30銭から21銭に値下げするなど対抗措置をとったが利用者が激減し廃止された。
現在、郡山市の会社役員、歴史研究家の橋本捨五郎が復元した客車が郡山市歴史資料館に、また、同氏が寄贈した三春馬車鉄道会社の碑が三春町内に残る。
6. 山梨馬車鉄道
この鉄道馬車に関しては、Wikipedia に詳しい記事がある。 山梨馬車鉄道
山梨馬車鉄道 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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軌間 | 666 mm | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
凡例
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山梨馬車鉄道(やまなしばしゃてつどう)
山梨県甲府市と東山梨郡勝沼町(現在の甲州市勝沼町)、南巨摩郡鰍沢町(現在の富士川町)を結んでいた馬車鉄道。
中央本線・富士身延鉄道(現在の身延線)開通前、甲府周辺唯一の鉄道系交通機関として、また富士川舟運の陸上連絡輸送手段として重要な役割を果たし、「ガタ馬車」という愛称がつけられていた。山梨交通電車線の母体となった鉄道でもある。
甲府市の中心街である柳町や八日町を中心に、東の石和へ向かう路線と南の鰍沢河岸に向かう路線が一体化した逆L字形の本線と、柳町から甲府駅前へ至る支線とに分かれ、全体ではT字型の線形となっていた。中央本線が甲府に達する前は駅前への路線は存在せず、路線も石和から先の勝沼まで通じていた。
7. 北海道の馬車鉄道
これにも、大変充実した学術的な記事がある。 batetu22
この記事に従って要約する。
北海道の馬車鉄道は、明治30年に函館で開業した亀函馬車鉄道に始まり、厚真軌道が
開業した昭和2年までの間に15社の馬車鉄道会社が開業した。
これらの馬車鉄道は、地域によってその役割は異なっており、函館、札幌などは都市交
通を目的として建設され、岩内及び登別は鉄道との連絡を主な目的として建設された。
このほか石炭や木材など産業用資材の輸送を目的として建設されたものも多かった。
とあり、馬車鉄道のリストを挙げている。
(開 業 年) (会 社 名) (主な路線) (旅/貨)(備 考)
明治30年 亀函馬車鉄道株式会社 東川町~弁天町 旅 客 のちの函館馬車鉄道
明治37年 三井物産合名会社 早来~厚真 貨 物 鉄道用枕木輸送
明治38年 岩内馬車鉄道株式会社 岩内~小沢駅 客・貨
明治39年 上川馬車鉄道株式会社 旭川駅~近文 旅 客
同 年 歌神炭鉱 歌神~歌志内 貨 物 石炭輸送
明治42年 札幌石材馬車鉄道株式会社 石山~山鼻 客・貨 主に石材輸送
同 年 三井物産合名会社 鵡川~苫小牧 貨 物 木材輸送
明治44年 札北馬車軌道株式会社 札幌~茨戸 客・貨
大正 元年 札幌市街馬車軌道株式会社 札幌市内 旅 客 (旧)札幌石材馬車鉄道
大正 4年 登別温泉軌道株式会社 登別駅~温泉街 旅 客
大正 8年 富士製紙株式会社 湧別芭露~中湧別 貨 物 木材輸送
大正 9年 士別軌道株式会社 士別~上士別 客・貨
大正11年 早来軌道株式会社 早来~厚真 客・貨 三井物産社線再利用
同 年 軽石軌道株式会社 軽川~花畔 客・貨
昭和 2年 厚真軌道 知決別~幌内 客・貨
各馬車鉄道の歴史とか経緯が上記の記事には説明されている。
ここでは、札幌の馬車鉄道の1つとして、札幌市街馬車軌道の写真を見てみよう。
北海道開拓の村
北海道百年を記念して設置されました。
開拓の過程における生活と産業・経済・文化の歴史を示す建造物等を移設、復元して保存するとともに、開拓当時の情景を再現展示して、北海道の開拓の歴史を身近に学ぶことのできる野外博物館です。
ここの馬車鉄道の写真は、沢山見つけられる。 いくつか見ていきましょう。
画像は、無断で借用しています。お縄になるかもしれない。
ページ 汽車・電車1971~ から2枚画像を無断(縮小)引用しました。ごめんなさい。
丁度時間となったようです。 これでおしまい。 ごきげんよう、さようなら。
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