服部天神駅は、十三駅の3つ手前の駅である。その写真。
服部元町商店街に入り、すぐ右に折れた所にある。
服部天神宮の鳥居 こぶりの石の鳥居です。上部が妙に真新しいが、額もまた石製である。
ここで、Wikipediaによる神社のお勉強。
服部天神宮 | |
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服部天神宮本殿 | |
所在地 | 大阪府豊中市服部元町1丁目2-17 |
位置 | 北緯34度45分46.9秒 東経135度28分33.5秒座標: 北緯34度45分46.9秒 東経135度28分33.5秒 |
主祭神 | 少彦名命・菅原道真 |
例祭 | 10月25日 |
主な神事 | 豊中えびす祭 足の守護祈願大祭 |
服部天神宮(はっとりてんじんぐう)
大阪府豊中市の南部、服部に鎮座する神社。少彦名命と菅原道真を主祭神として祀る。関西では「足の神様」として知られている。
年間の祭礼として、
が行われる。そのうち、Wikiには、豊中えびす祭、大祓/茅の輪くぐり、足の守護祈願大祭 が写真掲載されている。
本殿 ・幣殿
この写真は、一部でしかないので、ホームページから内部の画像を拝借する。
内陣は仏教的な色彩が多い。
文政十年御造営当時の棟札が今も本殿の天井裏に現存してある。
- 鳥居をくぐり抜けたすぐの所に「足踏み石」祈願の台座がある。
健脚祈願の台座である。私事で恐縮だが、私の左膝は半月板損傷で、右膝は軟骨がすり減ってしまっている。従って長時間は歩けない。足の筋肉を鍛えて歩けるようにするしかない。かっては、長距離散歩が大好きだったのに、最近は2時間も歩くと膝が痛くなる。意識が足の痛みに向かってしまう。これでは、散歩が楽しめない。そして、ハイキングなどできなくなると困るので、その事態を避けるべく健康維持増進施設で頑張っているのである。
故に、お賽銭をはずみ、台座にしばらく座らせて頂きました。
ご神木の楠
拝殿 奥に見えるのが本殿。
足の守護祈祷という看板がありますね。
末社の紹介
豊中えびす社
御祭神蛭子大神 「足の神様」は「おあしの神様」に通ずるとして、昭和二十六年花屋敷鎮座の繁昌稲荷旧社殿(室町時代の建造)を境内に移築し西宮神社の御分霊を勧請して奉祀した。
以来、毎年服部えびす祭を斎行し今や豊中のえべっさんとして広く市民の崇敬をあつめている。
初酉稲荷社(十二支稲荷配祀)
昭和52年、菅公御神退壱千七十五年祭を記念し、御社殿の造営が行われ、更に伏見稲荷大社より勧請して十二支稲荷を配し、以後「初酉敬神講」を「初酉稲荷講」と改称して今日に至りました。
お狐様だが、京都伏見稲荷経由なのだね。知らんかった。
祖霊社・招魂社
中央に魚名公の墓を右に祖霊社を、左に招魂社をお祀りしてあります。
草履堂
お参りにこられた方々が奉納した、草履をお祀りしているお堂です。
その他天神様の御加護をいただいた御礼にと奉納いただいた絵馬や額も一緒にお祀りしています。
これが、六月大祓式 茅の輪くぐり に用いられる茅の輪。私もくぐりました。足が改善されるといいね。
境内のお百度石
境内に石碑が3基ある。 これは、豊中三大文化人の碑である。
西田王堂
矢野橋村
美術人名事典 矢野橋村(やの きょうそん)
コトバンク 安田青風 やすだ せいふう
さらには、このような末社もあったが名称不明である。服部天神のホームページにも見当たらない。
その狛犬
もう一基の鳥居。こちらが、入り口の鳥居になるのやも知れぬ。
鉄製の赤鳥居 こちらは、看板だね。
ここで、足の守護・服部天神の由緒を語ろう。
1.
昔、朝鮮を経由して吾が国へ渡って来た秦の人々は、機織りの技術を吾が国に伝えましたので、秦氏という姓氏をあたえられ、機織部として各地に住み着きました。
当地「服部」の地名も、このあたりに秦氏の人々が住んでいたことから成りたったものと思われます。
秦氏は、医薬の祖神・少彦名命を尊崇していましたので、この地にも小祠を建てて、少彦名命をおまつりしていました。
少彦名命 小さいほうの神様。 でかいのは、大国主神。
2.
秦氏の人々がこの地に移り住んでから数百年が過ぎ、時は延喜元年(西暦901年の春、右大臣、菅原道真公は、無実の罪をきせられて九州太宰府へ左遷される途中、このあたりまで来られて持病の脚気に悩まれ、足がむくんで一歩も歩くことが出来なくなりました。
その時、村人たちは、少彦名命をおまつりしてある天神祠に詣でて、足病の平癒を祈願されるようにおすすめしました。
3.
「少彦名命は、神代の昔、大国主神と協力して国土を治められ、さらに遠く海外の地をも巡られて、この世の生きものたちのために医薬の方法を定められ、また生きものにとりついて苦しめる邪霊を祓う方法も定められました。この時より今の世に至るまで、生きとし生けるもので、この二柱の大神のご恩をこうむっていないものはおりません。このように尊い少彦名大神にお祈り申しあげますならば、かならずやおみ足の具合も良くなられると思います。」
このように申し上げる村人の言葉にうながされた菅公は、少彦名命をまつる天神祠へとむかわれました。
4.
菅公が天神祠へお参りされますと、境内近くの路ばたにある五輪塔が目にとまりました。
そして、その五輪塔がこの時より百年程の昔に太宰府へ左遷される途中、病に臥され、遂にこの地にてなくなられた川辺左大臣、藤原魚名公の墓であることをお知りになった菅公は
「昨日は他人の身、今日は吾が身にふりかかる定めか」
と嘆ぜられ、天神祠にご自身の足病平癒を祈願されると共に、魚名公の霊をもねんごろにとむらわれました。
明日は我が身か ということです。浮世の常ですな。
藤原 魚名(ふじわら の うおな、養老5年(721年) - 延暦2年7月25日(783年8月27日))
奈良時代前期から後期にかけての公卿。藤原北家、参議・藤原房前の五男。官位は正二位、左大臣。川辺大臣と号す。
5.
すると、不思議にも間もなく菅公の足の痛みやむくみは治まりました。こうして少彦名命と魚名公の霊の御加護によって足の病がいえた菅公は、ふたたび九州へと旅立たれ、無事に太宰府へ到着されました。
6.
菅公が太宰府においてなくなられたあと、菅公を神として尊崇する天神信仰が全国にひろがりました。
当社も菅公の霊を合祀し、「服部天神宮」として社殿を造営し、「菅公脚気平癒の霊験」を伝え聞いた全国よりの参詣人と、また当地が能勢街道の要所であったこととで、次第に門前市をなすようになり、殊に江戸時代の中期から末期にかけては、その最盛期であり、境内外は非常な賑わいをみせたのでした。
という絵物語でした。地名服部の由来が秦氏、つまり朝鮮から渡って来た機織りの技術者集団に由来しているとは、ついぞ知らなかったのである。勉強になりますね。
服部天神駅は、かっての服部天神宮の境内に開設された駅である。そのため、境内にあった御神木の楠が残されており、梅田方面ホームの屋根を突き抜けている。
これである。ミニ祠も設えてある。神棚としめ縄が設けてあり、服部天神宮の夏天神祭の際には構内において安全祈願祭が行われるそうである。
こんな駅は、珍しいですね。ということで、これでおしまい。
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