今回は、「画鬼」 狂斎こと、河鍋暁斎を紹介したい。幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師である。あらゆるジャンルの絵を描きつくしたといわれる絵師で、画題は実に多岐にわたる。私が注目したのは、趣味を通してだが、妖怪とか骸骨だとかを描く画家としてである。 その骸骨絵とか妖怪絵は、このブログ記事でも引用している。
河鍋暁斎 「美女の袖を引く骸骨たち」
これらの絵でも伺われるように、骸骨の骨格は実に正確に描かれているのである。並みの描写力ではない。
河鍋暁斎画『船頭と船幽霊』。
今回は、骸骨画と幽霊絵だけでなく画業全体の紹介をしたい。
毎度のワンパターンで相済まぬが、Wikipediaから彼の記事を引用する。
河鍋 暁斎
天保2年4月7日〈1831年5月18日〉 - 明治22年〈1889年〉4月26日)
幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師、日本画家。号は「ぎょうさい」とは読まず「きょうさい」と読む。それ以前の「狂斎」の号の「狂」を「暁」に改めたものである。明治3年(1870年)に筆禍事件で捕えられたこともあるほどの反骨精神の持ち主で、多くの戯画や風刺画を残している。狩野派の流れを受けているが、他の流派・画法も貪欲に取り入れ、自らを「画鬼」と称した。その筆力・写生力は群を抜いており、海外でも高く評価されている。
ここには、詳しい来歴が書かれている。 Wiki:河鍋 暁斎
若い時に浮世絵師歌川国芳にまなび、さらには狩野派の絵師にも再入門してその技法をまなぶなど、自らの絵を描くためには貪欲に他の流派や画法を取り入れている。
調べて見るまで、知らなかったのだが、河鍋 暁斎の曾孫が設立した個人美術館がある。そのホームページ 河鍋 暁斎記念美術館
この館は、伝来の下絵・画稿類を中心に3000点余を所蔵し、1,2ヶ月毎にテーマを替えて展示している。その紹介欄に実に適切な暁斎の説明があったので、そのまま引用する。
河鍋暁斎とは
河鍋暁斎ほど「浮世絵師」か「狩野派絵師」か、評価の分かれる絵描きはいない、とよくいわれます。
浮世絵、狩野派双方の素地を持つ暁斎は、幕末の混沌、明治維新、文明開化と大きく揺れ動いた時代にあっても、縦横に作品を生み出していった、生来の「絵師」でした。
注文とあれば来るもの拒まず、真面目な仏画から顔を背けるような残酷場面、笑いをさそう風刺画まで、あらゆるジャンルを描き尽したのです。
注文とあれば来るもの拒まず、真面目な仏画から顔を背けるような残酷場面、笑いをさそう風刺画まで、あらゆるジャンルを描き尽したのです。
それは、狩野派、浮世絵に限らず、伝統的な土佐・住吉派、円山四条派、琳派、文人画、中国画、西洋人体図等々、学べるもの全てを嚢中にした暁斎だからこその画業であったといえるでしょう。
西洋人体図の模写などから、骸骨絵が生み出されている。学術的な人体図なので、自ずとその正確さが現れるのである。いい加減な模写ではないのだ。
箇条書きで、その経歴というか評伝を述べる。
・天保2年(1831年)、下総国古河(現茨城県古河市)に生まれる。
・3歳で初めてカエルを描き、7歳で浮世絵師・国芳に入門した。
・10歳で駿河台狩野派の前村洞和、ついでその当主・狩野洞白陳信に学ぶ。
・駿河台狩野派の当主・狩野洞白陳信に学び、
19歳の若さで「洞郁陳之」(とういく のりゆき)の画号をいただいく。
・修業を終えた幕末の頃は、狩野派絵師として生きることは難しかったことより、
「狂斎」等の画号で浮世絵、戯画、行灯絵などを描いて糊口をしのいだ。
・1870年(明治3)10月、筆禍事件を起こし、大番屋に捕らえられる。
・1876年(明治9)、フィラデルフィア万国博覧会に肉筆作品を出品する。
同年来日したフランス人実業家エミール・ギメや
同伴の画家フェリックス・レガメと交流。
・1881年(明治14)、 第2回内国勧業博覧会へ「枯木寒鴉図」を出品し、
日本画の最高賞妙技二等賞牌を受賞。
そして公的にも評価されることとなる。
そして暁斎は、最晩年、ドイツ人医師エルヴィン・ベルツが「日本最大の画家」と評すほどの人気絵師となっていった。
・1889年(明治22)4月26日、胃がんで亡くなる。
全くのコピペだが、亡くなった画家・小説家の赤瀬川原平の書いた、河鍋暁斎と記念美術館を巡るエッセイを紹介したい。これまた、画業に対する的確な評価であり、深い指摘がなされている。
掛け値なし、絵筆の天才
河鍋暁斎記念美術館 埼玉県蕨市
2009年04月15日(Wed)
幕末から明治にかけて、自らを “画鬼” と称する貪欲さで制作に明け暮れた河鍋暁斎(かわなべ・きょうさい)は、海外では高い人気を誇りながら、国内では画業が忘れられかけていた絵師でした。
しかし後裔の努力が、今またその多彩な作品群に脚光をもたらしつつあります—―。
しかし後裔の努力が、今またその多彩な作品群に脚光をもたらしつつあります—―。
暁斎の多彩な筆致は「5人の絵師がいる」とも評された
自分が河鍋暁斎の名を知ったのはいつからか、はっきりしない。でもその名を意識したのは、その昔、ジョサイヤ・コンドルが弟子として入門したという話を聞いてからだ。コンドルは文明開化の時代に来日したイギリスの建築家だ。鹿鳴館やいろいろ、当時日本では最尖端の西洋館を建てている。そんなハイカラ人物が入門したということに意表をつかれ、それはやっぱり凄い絵師なのだと思い直した。
ぼくは日本人だから、どうしても西洋上位の習いがあるらしい。だからコンドル入門という話から、暁斎の名に注目したのだ。順序逆で自分でも情ないと思うのだけど、事実なのでしょうがない。
河鍋暁斎をめぐっては、いろいろと日本人的な偏見が煙幕となって漂っている。一つには暁斎が多才であり過ぎたため、どれが本物なのかわからないと敬遠された。日本は多神教の国でありながら、多彩な才能というのはむしろ軽く見られる。一つのことだけを一生かけてこつこつやる、となると安心して評価される。
しかし暁斎だって、その生涯は絵を描くこと一筋だった。七歳で歌川国芳に入門、10歳でさらに狩野派の絵師に入門、以後死ぬまで休みなく絵を描きつづけている。でもその絵の様式がじつにさまざまだ。狩野派的なオーソドックスな絵をはじめとして、幽霊画あり、戯画あり、錦絵あり、紙袋のデザインありで、何でも描ける。旧来の美術史家としては扱いにくい。だから奇人変人的な扱いで近年の美術史からはほとんどその名が消えていたのだ。
書かれた歴史はそうだけど、暁斎の生きた現実では違う。自分の目でその画業を見た人は、とにかくその天才に打たれる。筆が速く、適確で、機智に富み、紙の上にあっという間にイメージした世界があらわれる。だから席画も得意で、有名書画家を集めての書画会では一番の人気があった。
当然ながら酒が入り、笑いがあふれ、筆は縦横無尽。あるときその筆の滑った戯画が「貴顕を嘲弄するもの」とみなされ、捕えられる。この筆禍事件も、美術史から敬遠された一因なのかもしれない。それまでの狂斎の号も、放免後は暁斎に改めている。
そもそも暁斎の生きた幕末明治という時代が、美術の世界でも激動の時代だった。オーソドックスな絵の世界では大スポンサーであった幕府が倒れ、狩野派をはじめとする絵師たちは路頭に迷う。それを横目で見ながら、ちょうど脂の乗ってきた暁斎は、求められるものは何でも描いた。あれも描いてこれも描いてという暁斎の才能は、この時代の吸引力に沿って加速していったわけだ。
美術館は西川口の駅から歩いて20分ほどの、静かな住宅街の中にある。正にひっそりと紛れてある感じで、まったく出っ張ったところがない。さっぱりと静かで気持いい。ここにあの過激でもある暁斎の絵が納められていると思うと、不思議な気がする。ひっそりと紛れた感じは、それもそのはず、もとは暁斎曾孫である河鍋楠美さんの住宅を少しだけ改装したものなのだ。
暁斎が晩年住んだのは東京の鶯谷で、暁斎亡きあと河鍋家は赤羽に住む。ところが第二次大戦中の強制疎開で、いまの埼玉県蕨市に引越してくる。
娘の暁翠(きょうすい)も暁斎の血を継いで達筆の絵師で、女子美の草創期に教鞭をとった人でもあったが、どう励んでも父暁斎を抜くことはできぬと悟り、娘の吉には絵に進むことを禁じ、その禁は楠美さんまで引き継がれている。
じつはその河鍋楠美さんがここの館長であり、そもそもこの記念美術館の創設者だ。
その楠美館長のお話は濃密で面白く、見知らぬ暁斎の熱気を透かし見るようだった。楠美さんも白い紙や壁を見ると、動きたくなる右腕を押さえるという。やはり絵師の血が脈打っているらしい。
曾祖父である暁斎とは接していないが、家には暁斎の残した下絵の束がどっさりあった。人気絵師の運命で、描いた絵は端から出ていく。残るのは下絵だけど、それには本画以上に「描く」という行為の熱気がむんむんあふれ出ている。
暁斎の場合その下絵が綿密で、ところどころ紙を貼り重ねたりしながら、何度も描き変えている。仕上がった絵とは違い、絵の過程を彫り上げた三次元の彫刻みたいだ。あるいはフィルムなき時代のムービーみたいだ。それが桐の箱にぎゅうと詰まり、いざ本格的に調べだしたら3000枚を優に超えた。
3室あるうちの第一展示室。ほぼ中央に見えるのが前述の写真、蛙の石灯籠。
楠美さんは暁翠からの禁を守り、絵を捨てて眼科医の道に進んだ。でも戦後の美術史から暁斎の名がまったく消えていることの理不尽さに、これではいけないと思い立ち、この記念美術館を創設し、さらにあれこれのことを積極的に調べはじめた。
コンドルの墓が護国寺にあることを知り、墓参りに行くと、墓はすっかり寂れている。法要をしたいからお坊さん5人揃えて下さいと申し込み、コンドルのいた東大にも声をかけた。藤森照信氏をはじめ、教授が何人も来てくれた。せっかくだから講演会も開き、そんなことから、暁斎が弟子コンドルの前で描いて見せた「大和美人図屏風」の在りかが見つかったりする。
河鍋暁斎記念美術館は、そこからさらに発展していった。先述のように、本画はほとんど家に残されていないので、楠美さんの力で少しずつ買い戻していった。
駅から少し遠い住宅地の中の美術館だから、入場者は少ないようだ。この日若い男女二人連れが静かに鑑賞していて、ふと見ると、男の首筋に濃密な刺青がちらりと見える。静かな空気が、一瞬、さらに静かになったようだった。楠美館長によると、暁斎の絵は刺青という独特の世界でも、強い人気があるという。
なるほどと合点した。西洋人のコンドルも、知識からというより、素で見た絵の力に直接引きつけられたのだ。たぶん刺青世界での人気も、同質のものだろう。暁斎の絵の中にある熱と、緻密な技巧と、物の見方と、見せ方と、もろもろの渦巻く力にどうしても引きつけられてしまうのだ。
それでは、河鍋暁斎の作品を順不同で見ていこう。
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