先の大戦への反省や、戦後の平和国家としての歩み、そして、アジア太平洋地域や世界にどのような貢献を果たしていくのか、世界に向けてメッセージを発信したいとしています。
となっているが、どのような談話になるのでしょうね。記事では、
今月14日、総理大臣談話を閣議決定し、みずから発表することにしていて、先の大戦での日本の対応に「痛切な反省」の意を示し、不戦の誓いを表明するとともに、歴代内閣の基本的立場を引き継ぐ方針を明記する意向です。
とあるので、それほど無茶な内容にはならないと信じている。
終戦70年に因み、法然上人の開いた浄土宗では、第2次世界大戦終戦70周年戦没者追悼・平和祈念事業を起こしている。
その理念の一部を紹介したい。仏教徒だけでなく、全ての日本国民の願いだと思う。
戦争は二度と起こしてはならぬ
我が国において最後の大戦である第2次世界大戦は、昭和14年に始まり、日本では、遠い戦地、及び本土の空襲等によりお亡くなりになった方々は総勢310万人に及んだ。全世界では8,500万人という夥しい数の生命が失われることとなり、昭和20年に終戦を迎えた。
浄土宗は、この終戦から70年となる平成27年、失われたすべての尊い生命を悼み改めて追悼の誠を捧げるとともに、戦没者の方々にとどまらず、その壮絶な時代を生き、また戦後には、世界が平和になるように努力を続けてこられた方々に対しても、心から感謝の意を表明するものである。
また、20世紀におけるたび重なる戦争、そして核兵器の開発という負の遺産を背負うこととなった人類が、今一度その反省に立ちかえり、今後二度と誤った選択をすることがないように、「浄土宗21世紀劈頭宣言」において「愚者の自覚を」「家庭にみ仏の光を」「社会に慈しみを」「世界に共生を」を標榜し、世界平和を宣言した。・・・・
以下略
来る8月15日の終戦記念日には、戦没者を追悼し平和を祈念するため、全国で黙祷が捧げられる。
戦没者は、総勢310万人にのぼるが、多くの犠牲者を出した戦いとして、沖縄戦、硫黄島の戦い、ペリリューの戦いが挙げられる。
沖縄戦や硫黄島の戦いは、映画やTVドラマにもなっているので、ご存じだと思う。ここでは、それほど知られていないペリリューの戦いについての記事を書きたい。
欧米諸国の圧倒的物力に押されて、太平洋戦争の戦況は徐々に悪化していく。東洋最大と言われた2本の滑走路が敷かれたパラオ諸島のペリリュー島は、日本軍にとってグアムやサイパンの後方支援基地として、日本の死守すべき防衛上の拠点であった。
一方、フィリッピン奪回に総力をあげる米軍にとっても、すぐ東に位置するパラオの日本軍基地の攻略は必須であった。
そして、ペリリューの戦いが始まる。 以下Wikipediaによる
ペリリューの戦い(ペリリューのたたかい 英: Battle of Peleliu)
太平洋戦争中の1944年(昭和19年)9月15日から1944年11月25日にかけペリリュー島(現在のパラオ共和国)で行われた日本軍守備隊(守備隊長:中川州男陸軍大佐)とアメリカ軍(第1海兵師団長:ウィリアム・リュパータス海兵少将、第81歩兵師団長:ポール・ミュラー陸軍少将)の陸上戦闘をいう。アメリカ側の作戦名はステールメイトII作戦(Operation Stalemate II、stalemateは「膠着」の意味)。
要塞化した洞窟陣地などを利用しゲリラ戦法を用いるという日本軍が見せた組織的な抵抗、戦術は、後の硫黄島の戦いへと引き継がれていくことになる。
ペリリューの戦い | |
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LSTからLVTでペリリュー島の海岸に向かう海兵隊 | |
戦争:太平洋戦争 / 大東亜戦争 | |
年月日:1944年9月15日 - 1944年11月25日 | |
場所:パラオ諸島 ペリリュー島 | |
結果:アメリカ軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
大日本帝国 | アメリカ合衆国 |
指導者・指揮官 | |
中川州男 | ウィリアム・リュパータス ポール・ミュラー |
戦力 | |
歩兵第2連隊 歩兵第15連隊第3・第2大隊 など11,000 | 第1海兵師団 17,490 第81歩兵師団 10,994 |
損害 | |
戦死 10,695 捕虜 202 生存34 | 第1海兵師団 戦死 1,251 負傷 5,274 第81歩兵師団 戦死 542 負傷 2,734 合計 戦死 1,794 負傷 8,010 |
日本軍は、ペリリュー島を徹底して要塞化して、地下陣地化し兵を保全する。さらに洞窟などを拠点として2か月以上にわたる組織的持久戦に持ち込む。激しい攻防戦であった。
戦いの経緯を図示したもの。下方、十字に見える部分が滑走路。
2か月後、物量で圧倒的であった米軍の勝利に終わったが、米軍の損害も甚大であった。
損害はこのように記さている。
日本軍
- 戦死者 10,695名
- 捕虜 202名
- 最後まで戦って生き残った者34名
- 戦死者 1,794名
- 戦傷者 8,010名 ※この他に精神に異常をきたした者が数千名いた。
- 陣地構築に徴用されていたが、日本軍が戦闘前に強制退避させたため死者・負傷者ともに0名とされる。
日本軍は、この戦いでは現地人を戦闘には巻き込まなかったのである。
なお、1943年6月時点で、民間人1,060名(日本人160名、朝鮮人1名、現地住民899名)。
残されている戦いの写真。 激しい戦闘であったことを物語っている。
現在も残る戦車や機銃の残骸。
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