私の母の母親はこの空襲で、倒れてきた電柱に当たり死亡した。母は奉公先が浜寺にあり、空襲からは免れて生き延びた。そういう幸運があって、私や息子や孫が生きている。昨日息子夫婦が孫を連れて、お盆休みに遊びに来てくれた。一頻り孫と遊んで、爺さんは疲れたけれど楽しかった。こういう事ができるのも、命の連鎖がある故である。戦争などという野蛮な行為でその連鎖を断ち切らせてはならぬ。
私は、生まれは尼崎だが人生の大半を神戸で過ごしている。それで、実はあまり詳しくは知らなかった神戸大空襲のことを調べて書きたいと思った。 Wikipediaによる記事。
神戸大空襲
神戸大空襲(こうべだいくうしゅう)
第二次世界大戦(大東亜戦争)末期にアメリカ軍が繰り返し行った、神戸市およびその周辺地域に対する戦略爆撃・無差別攻撃の総称。特に兵庫区や林田区など西神戸に大きな被害を出した1945年(昭和20年)3月17日と、東神戸および阪神間の町村を壊滅させた同年6月5日の爆撃を指して用いられることが多い。
神戸市行財政局 行政監察部 総務課 が、神戸 災害と戦災 資料館 というのをバーチャルに作っており、その概要を知り、被災の実態を見るのに適している。
そこから概要を引用する。
こうして、3月17日、5月11日、6月5日の3回の大空襲によってほぼ神戸市域は壊滅した。
資料館には、
のページがあり、戦災時の写真や焼夷弾の残骸や鉄兜などの資料写真が多数ある。神戸市民には、是非見て頂ければと思う。
ここでは、著作権の保護から免れていると考えられる戦災の画像を何枚かアップする。(問題のある場合はご連絡ください。)
神戸港への絨緞爆撃
神戸・元町方面
湊川神社周辺
山手通りの市電道
焼死体
戦争とは酷いものです。
左に見えるのが、新開地の神戸タワー。当時生き残ったが、現在はない。
体験談を1編引用したい。私の母の年代の女性です。
■ 戦争は絶対イヤです 秋田さん(須磨区)
昭和20年の神戸空襲の時は13歳、須磨区須磨浦通4丁目、国鉄須磨駅の少し北の家に住んでいました。
住んでいた家は焼けませんでしたが、離宮道のあたりまですっかり焼け、又、潮見台あたりの焼けた家の木材がカラケシになって家まで飛んできてくすぶったりして、1人で必死に水をかけました。空襲警報の時は、家の廻りに水を撒いて、山陽電車の高架下へ逃げることにしていました。
母と小さい弟妹は縁故疎開で、上の弟は学童疎開でそれぞれ岡山に居り、警防団長をしていた父と、私と2人が神戸に残っていたのです。
空襲で乗物も止まり、焼野原となった街を国鉄の線路を、必死に学校(当時湊川にあった市立第一高女)へ向って歩いていきました。
若宮あたりは、死骸がゴロゴロところがっている。子供が走っている姿のまま枯木のように焼け焦げている。
熱さに水を求めて川までたどりついた死体はブヨブヨになっている。そんな中を人びとが歩いている光景を今も忘れることができません。
誰の死体とも知れず、あと離宮公園に集められ、夜通し焼かれていたと聞きました。
夢多い少女は、ミシンも顕微鏡もある。プールもあると聞いて、市立第一高女に入ったのですが、美しい女教師が教えていた、好きだった英語の授業は1年もしないうちに廃止、プールもなくなり、敵が上陸してきたら、1人が1人殺して死ぬのだと、ナギナタでワラ人形に向って「突き!」の稽古などをする日々となり、このころから警戒警報が多くなり、無我夢中で生きていました。
戦争が終わった時はホッとして、本当にうれしかった。
母や弟妹たちが帰って来て、弟も栄養失調でガリガリに痩せ、シラミをわかせ皮膚病になって帰って来て、家族は揃いました。
もう戦争はイヤです。戦争は、くる日もくる日も怖くて、休まらないのです。
(平成19年8月1日号 広報こうべ 紹介記事 掲載)
大倉山公園の記念碑
住んでいた家は焼けませんでしたが、離宮道のあたりまですっかり焼け、又、潮見台あたりの焼けた家の木材がカラケシになって家まで飛んできてくすぶったりして、1人で必死に水をかけました。空襲警報の時は、家の廻りに水を撒いて、山陽電車の高架下へ逃げることにしていました。
母と小さい弟妹は縁故疎開で、上の弟は学童疎開でそれぞれ岡山に居り、警防団長をしていた父と、私と2人が神戸に残っていたのです。
空襲で乗物も止まり、焼野原となった街を国鉄の線路を、必死に学校(当時湊川にあった市立第一高女)へ向って歩いていきました。
若宮あたりは、死骸がゴロゴロところがっている。子供が走っている姿のまま枯木のように焼け焦げている。
熱さに水を求めて川までたどりついた死体はブヨブヨになっている。そんな中を人びとが歩いている光景を今も忘れることができません。
誰の死体とも知れず、あと離宮公園に集められ、夜通し焼かれていたと聞きました。
夢多い少女は、ミシンも顕微鏡もある。プールもあると聞いて、市立第一高女に入ったのですが、美しい女教師が教えていた、好きだった英語の授業は1年もしないうちに廃止、プールもなくなり、敵が上陸してきたら、1人が1人殺して死ぬのだと、ナギナタでワラ人形に向って「突き!」の稽古などをする日々となり、このころから警戒警報が多くなり、無我夢中で生きていました。
戦争が終わった時はホッとして、本当にうれしかった。
母や弟妹たちが帰って来て、弟も栄養失調でガリガリに痩せ、シラミをわかせ皮膚病になって帰って来て、家族は揃いました。
もう戦争はイヤです。戦争は、くる日もくる日も怖くて、休まらないのです。
(平成19年8月1日号 広報こうべ 紹介記事 掲載)
大倉山公園の記念碑
そうです。 戦争は二度と起こしてはならぬ。
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