医王山 薬仙寺 とある石碑。
医王山の山号の由来については、寺伝によるとつぎのように記されている。
元弘3年(1333)の元弘の変の時、後醍醐天皇が隠岐の島から還幸の途中、兵庫の福厳寺で病床に伏された。 当時の住職がこの薬仙寺から湧きでる霊水を薬水として献上し服用されたところ、たちまちのうちにご快癒されたといわれ、その後、 後醍醐天皇から医王山の山号を与えられたという。
お寺の入り口には、このような萱の御所蹟碑 と記された標識も建てられている。
兵庫では、広い境内を持つお寺であるが、元々はもっと広かったのである。
当寺は、かつては広大な寺域と多くの塔頭を有していたが、明治7年(1874)、新川運河を掘削する時に狭められ、さらに、 新川を貯木場としたときにも削られた。昭和20年(1945)3月17日の神戸大空襲により消失したが、戦後、今の状態に復帰した。
前回の記事にある、神戸大空襲で完全な焼野原になっていたのだ。
Wikipediaによる寺院解説。
薬仙寺 | |
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所在地 | 兵庫県神戸市兵庫区今出在家町4丁目1-14 |
位置 | 北緯34度39分42.2秒 東経135度10分19.9秒座標: 北緯34度39分42.2秒 東経135度10分19.9秒 |
山号 | 医王山 |
宗派 | 時宗 |
本尊 | 薬師如来 |
開基 | (伝)行基 |
札所等 | 福原三十三番観音札所 第1番 |
文化財 | 薬師如来坐像、施餓鬼図(重文) |
薬仙寺(やくせんじ)
神戸市兵庫区にある時宗の仏教寺院。
寺伝によれば、千憎寺塔頭の一つとも伝え、天平年中(729年~748年)行基の開山。
天平18年(746年)に日本で最初の施餓鬼会を行ったと伝える。
『摂津名所図会』に「往古の本尊は薬師仏にして、天台宗なり」とあり、延文年中(1356年~1360年)に京都の霊山国阿(時宗8世)が中興し、時宗に改宗。
福聚庵・普照院・荷松院・慈眼院・大光院・世尊院・全真庵の坊舎七字のうち、現在は普照院のみが残っている。
現在の本堂は第二次大戦後(昭和48年)に再建されたもの。
古い歴史を持つお寺です。天台宗から時宗に改宗したお寺ですね。と言いながら、宗派の違いについては分かっていない。昭和期以前には、十三宗五十六派あるとされている。私の理解の及ぶ範囲外であるが、Wikiをつてに、時宗を簡略に書くとこうなる。
時宗(じしゅう)は、鎌倉時代末期に興った浄土教の一宗派。開祖は一遍。
本堂
福原三十三番観音札所 第1番寺院でもある。境内にあるその石碑。
境内には、日本で最初の施餓鬼会供養を行った記念として、写真のような大きな石碑が立っている。 大施餓鬼会日本最初之道場 と彫られている。これ位は私でも読める。
日本で最初の施餓鬼会というのも良く分かっていないので、Wikiで調べるとこう書いてある。
訓読すれば「餓鬼に施す」と読めることからも分かるように、六道輪廻の世界にある凡夫の中でも、死後に特に餓鬼道に堕ちた衆生のために食べ物を布施し、その霊を供養する儀礼を指す。
法会の時期は、盂蘭盆として旧暦の7月15日(中元)に行われるのが一般的である。
萱の御所蹟碑
変哲のない石碑だが、このような碑文の刻まれた石碑が手前に置かれている。
「牢(楼)の御所」ともいい、平清盛が後白河法皇を幽閉した建物で、三間四方の粗末な造りであったという(平家物語)。
伊豆国に流された際に源頼朝と出会った文覚(もんがく)上人は、後にこの御所に忍び入り平家追討の院宣(いんぜん、上皇及び法皇を奉じて出す文書)を賜ったと伝えられている。
ここより北東方向約100mの地点にあったが、昭和29年新川運河拡張工事によって水中に没するため、当寺院内に移設した。
霊泉 上に記した医王山の由来に基づく霊泉。
神戸大空襲犠牲者慰霊碑
Wiki によると、この慰霊碑についてこのように記述されている。
1971年、「神戸空襲を記録する会」が発足する。 1972年以降、特に被害の大きかった3月17日を神戸空襲の日とし、薬仙寺(神戸市兵庫区)で毎年慰霊祭を開いている。 1975年3月16日、薬仙寺に神戸大空襲犠牲者慰霊碑を建立する。 神戸大空襲
境内にある十三重石塔。 清盛塚とよく似ているね。これもそうかもしれぬ。
新しく建った納骨堂
その他、花山法皇歌碑や、大輪田橋戦災・震災復旧モニュメントなどがあるが、写真は省略する。
これでおしまい。
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