兵庫駅から歩いて10分足らずの場所にある、地図が道路に掲げられているので簡単に行ける。
私が子供の頃は、日本三大大仏の一つと聞いていた。奈良の大仏様、鎌倉大仏、そしてこの兵庫大仏とばかり思っていたのだ。
双方とも有名で、私とて拝みに行ったことは何度かありまする。
所が三番目の大仏となると、実際は違うようである。
Wikipediaで調べてみると、このように書かれている。
日本三大大仏(にほんさんだいだいぶつ)は、日本にある大仏の中から代表的な3尊を選んだものである。そのうち2尊は奈良県奈良市の東大寺にある奈良の大仏と神奈川県鎌倉市の高徳院にある鎌倉大仏である。
現在では、もう1尊にいくつかの大仏を挙げる説があるが、実質的に日本三大大仏という言葉は用いられない。
つづいて、曰:
日本三大大仏の変遷は、京都府京都市の方広寺にあった京の大仏が3尊目に挙げられた江戸時代、兵庫県神戸市の能福寺にあった兵庫大仏が3尊目に挙げられた戦前、3尊目が事実上空位となり、いくつかの大仏が挙げられる戦後から現在の3つの時代に大きく分けられる。
親から聞いた、戦前の言い伝えをそのまま現在も正しいと信じ込んでいたのだ。これだから、Wiki様は侮れないのだ。三大大仏なぞ、過去の言葉だったのだ。
現在の大仏は、2代目である。でかい大仏であることには変わりなく、仏教心に溢れた私はこの仏像の取材報告をするのであった。
兵庫大仏の祀られている寺院は、能福寺である。 引きつづき、Wikipediaの基本データを引用しよう。
能福寺 | |
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本堂 月輪影殿 | |
所在地 | 兵庫県神戸市兵庫区北逆瀬川町1-39 |
位置 | 北緯34度40分4.76秒 東経135度10分17.01秒座標: 北緯34度40分4.76秒 東経135度10分17.01秒 |
山号 | 宝積山 |
宗派 | 天台宗 |
本尊 | 薬師如来(秘仏) |
創建年 | (伝)805年(延暦24年) |
開基 | (伝)最澄 |
別称 | 能福護国密寺 |
札所等 | 新西国三十三箇所23番 福原西国三十三箇所32番 神戸十三仏8番 |
文化財 | 木造十一面観音立像(重要文化財) |
能福寺(のうふくじ)
兵庫県神戸市兵庫区にある天台宗の仏教寺院である。山号は宝積山(ほうしゃくざん)。
本尊は秘仏・薬師如来。
1代目の大仏は、1891年(明治24年)に豪商・南条荘兵衛の寄進により大仏が建立された。
この大仏は1944年(昭和19年)に金属類回収令で国に供出されるまで日本三大大仏の一つに数えられた。
頭がでかいので、より賢そうに思える。人物のモデルが居そうな雰囲気である。南条荘兵衛の画像を探したが、見当たらない。モデルは寄進者かもしれぬという憶測は外れのようだ。
評伝によると、南条荘兵衛は、兵庫港開港以来急速に増えたキリスト教信者に危機感を抱き、キリスト教に対抗して仏教徒のシンボルとなる大仏を建立したといわれている。
兵庫大仏(胎蔵界大日如来像・毘慮舎那仏)は伝統日本三大佛の一つで、身丈(像高)11m、重量約60t、蓮台高3m、台座高4m、総高18m。
お寺は、由緒ある格式の高いお寺である。
寺伝では805年(延暦24年)に最澄(伝教大師)により能福護国密寺として創建されたとされており、日本最初の密教教化霊場と称する。
平清盛所縁の寺としても知られており、1180年(治承4年)には福原京遷都計画にともなって平家一門の祈願寺に定められたことで、大伽藍が建設され大いに栄えた。
その後、1341年(興国2年/暦応4年)に兵火で七堂伽藍全てを焼失したが、1599年(慶長3年)に長盛法印が再興したという伝がある。
2代目については、こう書かれている。
現在の大仏は1991年(平成3年)に再建されたものである。毘廬舎那仏(光明遍照)像で、像重量約60t、像高11m、蓮台と台座を含めると高さ18mになる巨大な坐像である。
新しくて、まだ20年と少ししか経っていない。
さて、写真紹介をしていこう。
お寺には、このような標識が掛かっているので、間違えることはない。お寺では、伝統日本三大仏とうたっている。
兵庫大仏様のお姿である。
階段を登って、お近くに寄らせて頂く。
立派なお顔である。
一願成就の大佛さまとして崇められている。
後方からも後光が射している。
横からのお姿。
大仏様は、この位にして境内を巡る。
平清盛廟(平相国廟) である。
中央に、十三重石塔(平清盛供養塔)が祀られている。 存外小さい。
密教寺院らしい石仏。
本堂である月輪影殿
大鐘と石塔だが、由緒は調べていないのでわからん。
能福寺は、最も格式の高い青蓮院門跡の旧院家 の格式を留めているそうである。
本坊
ジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)による寺の由来碑(日本最初の英文碑)
浜田彦蔵
浜田 彦蔵(はまだ ひこぞう、旧字体:濱田彦藏、天保8年8月21日(1837年9月20日) - 明治30年(1897年)12月12日)
幕末に活躍した通訳、貿易商。「新聞の父」と言われる。洗礼名はジョセフ・ヒコ (Joseph Heco)。
幼名は彦太郎(ひこたろう)。帰国後は「アメ彦」の通称で知られた。
能福寺創建1200年記念の石碑
一葉船中戴大唐
禅林句集の中の言葉だそうです。
滝善三郎供養碑(神戸事件)
もともと永福寺にあったものを百回忌の昭和44年(1969年)に移されたものだそうだ。
神戸事件については、神戸の神社ーー三宮神社と速水神社 を見られたい。
その他、北風正造君碑(兵庫の豪商)というのもある。ソテツに隠れていたので、写真は省略。
私としては、こちらの羅紗那仏が面白かった。密教らしい造形である。
吊るし鐘
伝教大師のお言葉
一隅を照らす
の石碑
このお寺のご本尊は薬師如来なのだが、画像がゲットできず。代わりに薬師寺の薬師三尊像をアップする。 薬師寺
これまた知らなかったのだが、能福寺は兵庫七福神(神戸七福神ではない!)の一寺、
清盛七弁天の一つでもある。
涼しくなったら、全部見回って記事にしようと思っとります。
これで一応の紹介はおしまい。それほど大きなお寺ではないが、見どころの沢山あるお寺でした。
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