でも絵柄がね、無残絵が結構ある。その生涯も華やかな時期はあったものの、晩年は痛ましい。酒で身体を蝕まれ、もともと神経衰弱(鬱病じゃなかろうか?)を病んでおり、眼も悪くし、脚気も患って、あげくに医者にも見放され、脳充血のために53歳で死亡した。
我が身を鑑みて、これではブログで紹介するのはどうだろうか、と思っているうちに実は忘れちゃったのである。でも、その浮世絵の画像だけはゲットしていた。
それで、今回は意を決して記事を書くことにした。画像が勿体ないのでね。
月岡 芳年(つきおか よしとし、1839年4月30日(天保10年3月17日) - 1892年(明治25年)6月9日)
日本の画家。幕末から明治前期にかけて活動した浮世絵師である。
姓は吉岡(よしおか)、のちに月岡。本名は米次郎(よねじろう)。
河鍋暁斎、落合芳幾、歌川芳藤らは歌川国芳に師事した兄弟弟子の関係にあり、特に落合芳幾は競作もした好敵手であった。
また、多くの浮世絵師や日本画家とその他の画家が、芳年門下もしくは彼の画系に名を連ねている。
Wikipediaに基づいて年譜を作成(コピペ):
・天保10年3月17日(1839年4月30日)
江戸新橋南大阪町(武蔵国豊島郡新橋南大阪町。他説では、武蔵国豊島郡大久保の商家である吉岡兵部の次男・米次郎として生まれる。
・嘉永3年(1850年)
12歳で歌川国芳に入門(1849年説あり)。武者絵や役者絵などを手掛ける。
・嘉永6年(1853年)
15歳のときに『画本実語教童子教余師』に吉岡芳年の名で最初の挿絵を描く。同年錦絵初作品『文治元年平家一門海中落入図』を一魁斎芳年の号で発表。
・慶応元年(1865年)
祖父の弟である月岡雪斎の画姓を継承した。
・慶応2年(1866年)12月から慶応3年(1867年)6月
兄弟子の落合芳幾と競作で『英名二十八衆句』を表す。これは歌舞伎の残酷シーンを集めたもので、芳年は28枚のうち半分の14枚を描く。
・明治元年(1868年)
『魁題百撰相』を描く。これは、彰義隊と官軍の実際の戦いを弟子の旭斎年景とともに取材した後に描いた作品である。
・明治3年(1870年)頃
この頃から神経衰弱に陥り、極めて作品数が少なくなる。
明治4年/明治5年)、自信作であった『一魁随筆』のシリーズが人気かんばしくないことに心を傷め、やがて強度の神経衰弱に罹ってしまう。
・1873年(明治6年)
神経衰弱から立ち直り、新しい蘇りを意図して号を大蘇芳年に変える。
・1874年(明治7年)
6枚つながりの錦絵『桜田門外於井伊大老襲撃』を発表。
翌年明治8年に、『郵便報知新聞錦絵』を開始。これは当時の事件を錦絵に仕立てたもの。
・1877年(明治10年)
西南戦争が勃発し、この戦争を題材とした錦絵の需要が高まると、芳年自身が取材に行ったわけではないが、想像で西南戦争などを描いた。
西南戦争図
・1878年(明治11年)
天皇の侍女を描いた『美立七曜星』が問題になる。
・1882年(明治15年)
絵入自由新聞に月給百円の高給で入社する。
・1884年(明治17年)
坂巻泰と正式に結婚する。
・1885年(明治18年)
代表作『奥州安達が原ひとつ家の図』などによって『東京流行細見記』明治18年版の「浮世屋絵工部」、すなわち「浮世絵師部門」で、落合芳幾・小林永濯・豊原国周らを押さえて筆頭に挙げられ、名実共に明治浮世絵界の第一人者となる。
(奥州安達が原ひとつ家の図)
この頃から、縦2枚続の歴史画、物語絵などの旺盛な制作によって新風を起こし、門人も80名を超していた。
その後、『大日本名将鑑』『大日本史略図会』『新柳二十四時』『風俗三十二相』『月百姿』『新撰東錦絵』などを出し、自己の世界を広げて浮世絵色の脱した作品を作る。
また、本画家としても活躍し始める。『月百姿』のシリーズは芳年の歴史故事趣味を生かした、明治期の代表作に挙げられる。
・1891年(明治24年)
ファンタジックで怪異な作品『新形三十六怪撰』の完成間近の頃から体が酒のために蝕まれていき、再び神経を病んで眼も悪くし、脚気も患う。
・1892年(明治25年)
病状が悪化し、巣鴨病院に入院する。病床でも絵筆を取った芳年は松川の病院に転じるが、5月21日に医師に見放されて退院。
6月9日、東京市本所区藤代町の仮寓で脳充血のために死亡した(享年54、満53歳没)。
芳年の墓は新宿区新宿の専福寺にある。1898年(明治31年)には岡倉天心を中心とする人々によって向島百花園内に記念碑が建てられた。
それでは、順不同で月岡芳年の浮世絵を見ていこう。
これから先は、無残絵なので未成年は見てはいけません。
これは例外的にエロのほうです。
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