その前にタイの古代王朝であったスコータイの解説。私自身がよく知らないのでお勉強である。Wikipediaの解説とタイ国政府観光庁の記事を要約した。
スコータイ王朝
タイに存在した王朝。タイ族最初の王朝と言われる。スコータイとは、「幸福の夜明け」を意味する。
雲南から南下してきたタイ族は、13世紀ごろまではアンコール王朝の支配力の下にあった。
ところが、アンコール王朝のジャヤーヴァルマン7世が崩御すると、王朝の支配力が次第に弱まり始めた。
ジャヤーヴァルマン7世(1125年- 1218年?/1220年?)
クメール王朝の国王(在位: 1181年 - 1218年/1220年)。クメール王朝初の仏教徒の国王であり、仏法で国を統治する転輪聖王となることを志して、戦乱で荒廃した国の復興を目標としていた。
彼が行った慈善事業は高く評価され、また数々の軍事遠征を実施する好戦的な性格も持ち合わせていた。彼の在位中に王国の版図はチャイヤー、ビルマ、南支那海沿岸部、ラオス中央に拡大した。
小タイ族領主のポークン・パームアンと、同じく小タイ族領主のポークン・バーンクラーンハーオが共同でクメール人の勢力を追い出し、当時アンコール王朝の主要都市であったスコータイに小タイ族の王朝を建てた。
シーインタラーティット王像
バーンクラーンハーオが王位に就きシーインタラーティットと称した(スコータイ王朝の成立)。パームアンはそのとき摂政位に就いたと伝えられている。
スコータイ王朝は三代目ラームカムヘーン大王時代には黄金期を迎えた。ラームカムヘーンは最初のタイ文字を定め、中国との貿易も行われた。パヤオ王国のガムムアン王、ラーンナータイ王朝のマンラーイ王と同盟を結んだ。また仏教の普及にも尽力して多くの寺院を建造、そこからタイの文化芸術の古典様式が花開き、文学が生み出されるなど現在のタイの礎を築きあげた。
1330年代の各国の勢力分布 橙色がスコータイ王朝。
1300年の東南アジア
橙:スコータイ王朝水色:ラヴォ王国
赤:クメール王朝
黄:チャンパ王国
青:大越
紫:ラーンナー
しかしルータイ王時代までには各地で離反が相次ぎ小国になった。後に王に就いたリタイ王はすでに仏法の研究を積極的に行い、民衆の仏教理解を深めさせた。
このあたりでアユタヤ王朝が台頭する。スコータイ王国は列強国により分割されその後も細々と国は続いていたが、9代目の王マハータンマラーチャー4世の時代に、跡継ぎが断絶し、アユタヤ王朝のラーメースワン王子が後を取る形で、アユタヤ王朝に吸収され消滅した。
ラーメースワン王子=ボーロマトライローカナート王
という王国興亡史であった。140年と短いが、輝かしい王朝であった。 勉強にはなったが、寄り道が過ぎました。
スコータイ歴史公園の地図
三重の城壁が中心部の遺跡を取り囲んでいる。その遺跡群の主たるものをトラムを利用して見て廻った訳です。夕方に到着した関係で、城壁外の遺跡ワット・シーチュムは翌朝に繰り延べになった。
スコータイ歴史公園のタイ国政府観光庁による説明:
スコータイ市内から西へ12キロ、面積約70平方キロメートルの広大な歴史公園。3重の城壁の内外に、寺院を中心として200件の遺跡が文化庁の下で管理・保存されています。
スコータイ王朝は、ここを中心に発展しましたが、城壁内の遺跡としては、ワット・マハタート、ワット・シーサワーイ、ワット・サ・シー、城壁外の遺跡としては、ワット・シーチュム、ワット・プラパイ・ルアン、ワット・チェトゥポン、ワット・サパーンヒンなどがそれぞれの代表的なもの。城壁内の各寺院は土曜日の18時から21時までライトアップされ、たいへん見応えがあります。
もう少し詳しくWikipedia さんからも情報を得る。
スコータイ歴史公園 อุทยานประวัติศาสตร์สุโขทัย | |
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ワット・マハータート | |
所在地 | スコータイ県 |
登録日時 | 1961年 |
歴史区分 | スコータイ王朝 |
公式サイト | 文化省芸術局(タイ語) |
スコータイ歴史公園(スコータイれきしこうえん)
タイ王国・北部にあるタイ族最古のスコータイ王朝の都跡。歴史公園はスコータイ旧市街にある。近隣のシーサッチャナーライ歴史公園や、カムペーンペット歴史公園と併せて「スコータイの歴史上の町と関連の歴史上の町」としてユネスコの世界遺産に登録されている。
スコータイ歴史公園は、東西1.8km、南北1.6kmの城壁に囲まれている旧市街地域を中心に展開している。ワット・マハタートを始めとする仏教寺院などの遺跡が残る。城壁の外にも数々の廃寺がある。また、スコータイが元々クメール王朝の領土であったことからクメール様式の廃墟もある。
遺跡一覧
城壁内
- ワット・マハータート
- ヌーンプラーサート
- ワット・シーサワーイ
- ワット・トラパングン
- ワット・サシー
- ラックムアン
- ワット・チャナソンクラーム
- ワット・パントーン
- ワット・トラクワン
- ワット・ターパーデーン
- ワット・ソーラサック
- ワット・マイ
- 王宮跡
城壁北側
- ワット・プラパーイルワン
- ワット・シーチュム
- スコータイのタオトゥリアン
- ワット・サンカーワート
- ワット・メーチョーン
- ワット・ノーンプルー
- ナモー門
- ワット・コーンレーン
- ワット・トンチャン
- ワット・チェットポン
- ワット・チェーディーシーホン
- ワット・シーピチットキティカーンラヤーラーム
- ワット・ハーントーン
- ワット・ソーカーラーム
- ワット・プローンメーン
- ワット・ムムランカー
- ワット・チャーンロム
- ワット・パントーンラーン
- ワット・チェーディースーン
- ワット・チェーディーヨートハック
- ワット・トンマカーム
- ワット・マンコーン
- ワット・トゥック
- マハーカセートピマーン廟
- ワット・パーマムワン
- ワット・シートーン
- ワット・プラユーン
ということで数多くの遺跡が残っている。我々の見学したのはほんの一部の遺跡でした。
トラムに乗って最初に向かったのが、ラームカムヘン大王の記念碑です。
城壁内の地図 写真でははっきり見えぬかもしれぬが、①の場所。
大王像の前の池
ラームカムヘン大王像 この舌を噛みそうで噛まない名前の大王は、スコータイの最盛期を築いた王です。
その活躍を描いた銅板リーフ 大王像の左右に配置されている。
凛々しいお姿であります。
国民の訴えに温情的に判定を下す国王であった。
大王の業績を説明する表示板 タイ語で書かれているので全くわからない。
そこで、またもやWikipedia様にお教えを乞う。
ラームカムヘーン พ่อขุนรามคำแหงมหาราช | |
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スコータイ歴史公園のラームカムヘーン大王像
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在位 | 1279年頃 - 1299年頃 |
王朝 | スコータイ王朝 |
出生 | 1239年? |
死亡 | 1299年頃(もしくは1317年) |
父 | シー・インタラーティット |
母 | スエアン |
子女 | プーサイソンクラーム、ルータイ |
宗教 | 上座部仏教 |
ラームカムヘーン
タイに存在したスコータイ王朝の3代目の王。スコータイ王朝を地方の一ムアン(地方政権)から広大な領域を支配する大国に発展させた王であり、その業績からタイ史上最高の王(タイ三大王)の1人に数えられ、大王(マハーラート)の尊称で呼ばれる。
タイで2013年より新しく発行された20バーツ紙幣の裏面に肖像が使用されている。
生涯:
スコータイ王朝の建国者シー・インタラーティットの第三子として生まれる。
ラームカムヘーン大王碑文によれば、若い頃から武芸に達者であり、1250年代末に起きたタークの帰属を巡ってのチョート国との戦争には王子であった彼も従軍していた。この時、戦象を駆ってジョート国の王クン・サームチョンとの一騎討ちに勝利し、インタラーティットから戦功を称えられて「ラーマのような強者」を意味するラームカムヘーンの名を与えられた。兄バーンムアンの在位中は副王の地位に就いていた。1279年頃にバーンムアンが没すると、ラームカムヘーンが王位に就いた。
ラームカムヘーンの事績を記録したラームカムヘーン大王碑文には国民全体の生活に気を配り、国民は民族に関係無く利益を享受したことが書かれている。
スコータイ王朝では商売の自由が認められ、故人の財産は全て子に相続された。また、犯罪の被害を受けた国民は国王に直訴ができる機会が与えられており、国民の訴えに直接判決を下す国王の職務はチャクリー王朝が建国されるまで存続した。
日本で言えば、お札にもなったし聖徳太子のような方ですね。
ついでワット・スラシー。ラームカムヘーン大王記念碑の西側、池に浮かぶ小島にある寺院である。
仏塔と柱、そして仏像が小橋の向こう側に見えている。
蓮池に架けられた橋を渡る。
蓮の花
ラテライトの八角形の柱が六列になって立っている。
仏塔はセイロン様式の釣鐘型になっている。
本堂跡の仏像 柱は本堂の支柱だと思われる。
この仏像はスコータイ様式の仏教史上最高の傑作とされる。左右非対称で身を捩る様な姿勢が特徴である。
このようにラテライトでできている。色が赤いのは鉄分が混じっているため。自然のコンクリートですね。
ラテライト(laterite)
成帯土壌と呼ばれるもののうち、湿潤土壌に分類される土壌のひとつである。ラトソル、ラトゾルまたは紅土とも呼ばれる。語源はラテン語のLater(「煉瓦」の意)。
サバナや熱帯雨林に分布する。地表の風化物として生成された膠結物質(粒子間に鉱物が入り込み、それが接着作用をしたもの)である。雨季に有機質が微生物により分解することに加えて珪酸分や塩基類が溶脱したことにより残った鉄やアルミニウムなど金属元素の水酸化物が表面に集積して形成される。
構成鉱物は主に針鉄鉱、ギブス石、ダイアスポアなどである。
仏像の横からのお姿
ワット・スラシーでの黄昏風景 これは私の趣味。
ついでワット・シーサワイの見学。
説明板
ワット・マハタートの南側にある。 寺院の説明はガイドブックからの拝借。
城壁内の南端に建つ寺院で、周囲の遺跡とは明らかに異なるクメール様式の塔を持つ寺院です。クメール帝国時代にヒンドゥー教寺院として建立されたものを仏教寺院にしたもので、スコータイの歴史を映す貴重な遺跡のひとつといえるでしょう。どこかアンコールワットを思わせる3基の塔のほか、境内のシヴァリンガなどにクメール帝国時代の面影を見ることができます。石像などは長く放置された時代に盗難にあってしまっていますが、一部は博物館に保存されています。
確かにトウモロコシ型の仏塔は、アンコールワットでも見られたクメール様式です。
寺院の壁
寺院の入場門 やっぱり山門とでもいうのかね? 中では3人の女性が横向き菩薩ポーズをとっていました。
三連の仏塔の左側
右側
そして全体像
後方から写したもの
仏塔の彫刻 仏像やナーガの姿やその意匠には明らかにヒンドゥー教の影響が見て取れる。
歴代の王の庇護を受けるなど、城壁に囲まれた遺跡群のなかでももっとも重要な寺院。世界遺産にも登録されている歴史都市スコータイの中心的存在となっています。200メートル四方の境内に、209基の仏塔、10の礼拝堂、8つの仏堂、4つの聖池と本堂が残っていて、スコータイ朝に花開いたタイの仏教文化を鮮やかに感じることができます。中央の仏塔のハスのつぼみの形は、スコータイ時代を象徴する意匠としても知られています。
段々暗くなって来るし、とても全部は写せない。それで印象的な写真のみをピックアップする。
仏塔
黄昏の仏像
仏塔と石柱
礼拝堂跡 手前のレンガ積みは塔跡と思われる。
礼拝堂跡と石柱
傾いた仏塔
二列に並ぶ柱の間に立つ巨大な仏像
遠方から写した写真。
昼間にはこの様に見える。これはアユタヤ時代に増設されたもので、元々は屋根があったようです。
塔の台座に置かれた仏像や下段のレリーフなど。
仏塔に祀られている仏陀の立像
時刻は6時半を過ぎ、辺りは漆黒の闇に閉ざされていくのであった。
再び趣味の黄昏写真。
趣味に走ってしまい長くなったが、今回はこれでおしまい。
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