道路に面して境内に車が入れるような脇参道がある。両脇には二本の石柱が立っている。
その一柱には 敬神 もう一柱には 愛国 と刻されている。
式内 石屋神社 と彫られているので社碑とも考えられる。
境内 駐車場にもなっている様子。
境内に入らず道路に沿って歩くと神社正面にでる。そこには石鳥居と神戸の神社ではあまり見受けられない長屋様式の門守殿があり石垣の上に築かれている。石垣は新しく造り直されたようである。
石鳥居
鳥居の両脇には常夜燈が置かれている。
左右に大きな二基の常夜燈と幾つもの小さな常夜灯が並んでいる。
お寺さんのような造りの門構えである。鳥居をくぐり石段を登ると先ほどの境内にでる。
石段 中央に手すりがあるので邪魔でなく今や腰の悪い私には有難い。
境内にでると目の前に立派な青銅葺きの社殿が見える。
社殿
神社には珍しく立派な門守殿には右大臣、左大臣の像が鎮座している。
門守殿 拝殿よりも立派と言ってよい家屋です。殿内は座敷になっているのでしょうか。
右大臣、左大臣像
どちらが右大臣か左大臣かは分からなくなってしまった。一方のお大臣のお顔も桟に隠れてしまって撮影不良でした。ごめんなさい。
ここで神社の基礎データを兵庫神社庁の記事を基にして与えよう。
石屋神社 (いわやじんじゃ)
所在地:〒656-2401 淡路市岩屋799
ご祭神:
主祭神 国常立尊 (くにとこたちのみこと)
「日本書紀」では天地開闢の際に出現した最初の神とされる。
配祀神 伊弉諾尊 伊弉冊尊 (いざなぎのみこと いざなみのみこと)
今回はYouTubeからの動画引用 古事記の動画版ですね。
神社 古事記 日本の神話 イザナギ、イザナミの国生み
由緒:
創立年代不詳。崇神天皇の御代、三対山に鎮座せられ絵島明神といい、垂仁天皇の御代石屋明神と云う。
創建当時は絵島の祀神であったようです。
「いざなぎやいざなみ渡る春の日にいかに石屋の神ならば神」
と詠じ給うと、風波が止み、海上は静まったという。
延喜式の小社に列し、白河天皇承暦4年罪過や穢による当社の祟りがあることが占いによって分かったので祓いをさす為、使を当社に遣わすよう天皇に申し上げた。
あまり意味はよくわからんが、白河天皇の時期には天皇にお使いを要請するだけの格式のある神社であった。
源平争覇の時岩屋浦戦火の巷と化したるにより、当社も多くの什宝古記録等は鳥有に帰してしまった。土御門天皇の御代大内義興が将軍義植を奉じて京に入らむとして当地に軍を進め、三対山に岩屋城を築きし時当社を海浜なる今の地に遷し奉ったという。
源平合戦の時には岩屋浦にあった神社は戦火で灰燼と帰したが、土御門天皇の時代には三対山に岩屋城を築きその守護社として当神社を遷したということらしい。ちなみに三対山とは現在地から300m北にある城山のことである。
池田氏淡路を領しておった時社殿を再興し、寛政8年(1796)、領主蜂須賀公親しく参拝し、文化14年(1817)にも直参せられた。
この地の領主であった池田氏が社殿を再興し、同じく領主であった蜂須賀公が当社を参拝したということでこの地域では有力な神社であったということらしい。
明治6年(1873)、郷社に列せられた。
郷社ということでそれなりの規模格式のある神社です。
それでは境内の参拝である。
手水舎
拝殿正面
拝殿には、「天地大明神」の金字扁額が掛かっている。
お待ちかねの狛犬二基 しめ縄を首に巻いてもらっている小ぶりの狛犬です。
当神社ではニューフェースのようです。足元にお賽銭箱があるのをお忘れなく。
拝殿に鳩などが入らぬように鳥よけネットが張られている。
拝殿左側面
右側面
本殿
慰霊塔 大戦の戦没者を慰霊するために建立された。
境内社は二社ありその一つの八百萬神社
社殿
おそらく八百萬の神を祀っているんでしょうね。ご祭神の記載はない。
八百萬神社の小さな境内からの眺めは素晴らしい。
稲荷大明神を祀っている。お稲荷さんですがお狐様の姿が見当たらないですね。
社殿
神輿蔵がありました。
毎年秋には岩屋秋祭りが行われます。そのときに使われる大神輿が収められている。
つぎの動画をご覧下さい。
平成30年 淡路市岩屋秋祭り 神輿 神の前・田ノ代町内会
さいごにおまけ。
石屋神社の道路向かいにあった小さな社。
コンクリの社の中には地蔵尊が祀られていました。
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