無用の人 成島柳北
幕末から、明治初期を生きた 風流才子 成島柳北 は、無用の人として後半生を過ごした。
こちらではない。 成島柳北 は、極めて有能の人であった。
成島柳北
Wikipedia からの引用。
成島 柳北 (なるしま りゅうほく:1837年3月22日 - 1884年11月30日)
江戸時代末期(幕末)の江戸幕府・将軍侍講、奥儒者、文学者、ジャーナリスト。
明治時代以降はジャーナリストとしても活躍。
また、姪孫に俳優の森繁久彌がいる事でも著名。
そう言えば、森繁久彌 にどことなし似ている。
略歴
武蔵国浅草御廐河岸の松本家の3男として生まれた。のちに代々奥儒者の家柄である成島家へと養子に出され、第7代目奥儒者・成島稼堂の養子となり、成島姓となる。そして、養父の跡を継ぎ、第8代目奥儒者と相成り、成島柳北と名乗るようになる。
徳川家定、家茂に侍講するが、献策が採用されないため狂歌で批判し、解職される。この際、
洋学を学ぶ。また、慶応年間に騎兵頭、外国奉行、会計副総裁等を歴任。
明治維新後、平民籍となるが、東本願寺法主の大谷光瑩の欧州視察随行員として1872年(明治5年)、共に欧米を巡る。 欧州では岩倉具視、木戸孝允らの知遇を得、特に親交のあった木戸からは帰国後、文部卿の就任を要請されたが受けなかった。
また柳北は欧州視察の際に共済制度を見聞し、帰国後にそれを安田善次郎に伝え安田と共に日本最初の生命保険会社「共済五百名社」(現「明治安田生命」)を設立。後には 1874年(明治7年)に『朝野新聞』を創刊、初代社長に就任。言論取締法の「讒謗律」や「新聞紙条例」を批判した。
また文芸雑誌『花月新誌』を創刊し文芸界でも活躍。商法会議所(現商工会議所)の設立にも尽力、前米大統領のグラントの接遇委員も勤めた。1884年(明治17年)11月30日、胸の病のため、48歳(満47歳)の若さで死去。
こんな明治人の経歴など、興味がないとお思いでしょうが、 この方は中々の人物です。
与太解説を始める。
20才をでたばかりで、侍講となり将軍家持の教育係になるも、その献策が物議をかもし、
ついに閉門となる。 狂詩などを歌い幕府を愚弄したのがいけなかった訳だ。
その籠居3年の間に英学を修める。 佐藤優 のように牢屋に入れられると
暇なものだから良く勉強するわけです。それがまた、その後の糧となる。
関係ないが、 外務省のラスプーチンと呼ばれた 佐藤優 です。
勿論、この本も読みました。 検察が、国策によりいかに非道なことをするかが書かれていましたね。 それと、外務官僚で禄でもない人間がトップにいることもこの本で初めて知りました。
この人は気骨があり、 成島柳北と同じ精神の持ち主だと思った。
柳北の話に戻る。
彼は有能なものだから、その後また引っ張りだされ今度は武官を務める。外国奉行や会計副総裁などを務めることになる。 しかし、参政するも時おそく幕府が瓦解する直前のことであった。
最後の将軍 慶喜 が東叡山に蟄居してしまうと、柳北は3千円(高額!)の俸給と副総裁の職を返上し、隠居の身になる。そのとき、32歳という若さであった。
江戸幕府第15代将軍 慶喜 です。 若く政治に奔走している頃です。
最晩年のころの写真です。
享年77(満76歳25日)。徳川歴代将軍として最長命。 晩年は、多彩な趣味に生きる。
柳北は著書で、
是より後のなりゆきは、乞食となるか、王侯となるか、草野に餓死するか、
極楽浄土に生まるるかもはかり難し
と言い、続けて
われ歴世鴻恩をうけし主君に骸骨を乞い、 病懶の極、
真に 天地間無用の人となれり。 故に世間有用の事を為すを好まず
と言っている。 かっこイイではないか。
要するに、新政府なんかには仕えたくないと意志表示をしている。 徳川家への義理立てだろう。
彼は、役に立たないことだけをすると宣言したのである。
結果、世に立つ人物にはならず 風流才子としての名が知られるに至る。
その後は東本願寺の僧侶の学校の教師になったりして糊口をしのぐが、やはり有能なゆえ法主の
大谷光瑩に識られ欧州視察の随行員として、共に欧米を巡る。 そして、欧州で岩倉具視、
木戸孝允らと知り合い、彼らにその見識(文学的素養+人物)を認められる。 そして、帰国後
文部卿(文部大臣)の就任を要請されるが、断ってしまう。
世間有用の事を為すを好まず である。
Wikipedia より 写真を拝借。 大谷光瑩 以外は歴史的人物と言える。
大谷光瑩(現如) | |||||||||||||||||||||||
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嘉永5年7月27日(1852年9月10日 ) - 大正12年(1923年)2月8日 | |||||||||||||||||||||||
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明治7年(1874)には、『柳橋新誌』を刊行、同年9月には「朝野新聞」の主筆として迎えられ、
諷刺に富んだ文章で名声を博す。
論説委員になっても、当時の政治面は論じず、無用の雑録しか書かなかった。
この雑録が人気を呼んだのだ。
しかし、朝野新聞社長となっていた彼は、政府の弾圧により入獄させられる。その期間120日である。 監獄にいても態度は全く変わらず、平素と同様 風流才子であった。
出獄後に書いた「ごくないばなし」は、読者に好評であった。
塀の中とか監獄話は、良く受ける。
その後、彼は 天地間無用の人 ぶりを発揮する。 明治10年(1877)には文芸雑誌
「花月新誌」を創刊し、また数々の著作を発表する。 酒色を愛しつつ である。
そうして、1884年(明治17年)11月30日、胸の病のため、48歳(満47歳)の若さで死去する。
酒色のせいではない。
追記 じつは、成島柳北が有名なのは、「新柳情譜」で花柳界の芸妓の列伝を書いたからである。 歌妓48名というから、相当の人数であり酒色を愛さなければそのような文章をかくことは難しい。
追記 じつは、成島柳北が有名なのは、「新柳情譜」で花柳界の芸妓の列伝を書いたからである。 歌妓48名というから、相当の人数であり酒色を愛さなければそのような文章をかくことは難しい。
現代でいえば、ジャーナリスト、風刺作家といえようが、そのような活動は世の中には何の役にも立たないと彼は考えていた訳だ。 明治初期の世間一般の考え方であるが、私も実はそう思う。
世間に影響は与えるが、実質は何の役にも立っていない。 暇つぶしのネタでしかない。
しかしながら、私は 成島 柳北 は立派であると思う。
その暇つぶしの雑録を書くために、彼は全身全霊をうちこんだからだ。
著者 | 成島 柳北 / 濹上漁史 |
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文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 | 「雑誌叢書6 花月新誌 第二巻」 ゆまに書房 |
となっている。 該当部分をコピペする。
骨董品コレクターの話ですな。偽物横行というのは、いつの時代でもある。
最後の文章で、
有名コレクターといっても、古くもない玉瓶瑶盃に大金を費やし、書き損じにも至らぬ偽書画に涙を流すばかりに感激し、大枚をはたく愚かな名ばかりのコレクターがいる。
と馬鹿にしている。 きっと心当たりの人がいるんでしょうね。
古物ヲ玩ブコトハ、古キ世ヨリ今ニ至ルマデ、連綿トシテ絶タルコト無シ。人々ニシテ其ノ好ム所ハ異ナレドモ、書画鼎鐺偶像貨幣ノ類、其ノ質ノ金石木磁絹紙タルヲ問ハズ、古物ホド面白キモノハ有ラジ。サレド之ヲ愛玩スルニ就テ、論ズ可キコト亦鮮ナカラズ。今余ガ思フマヽヲ書キ綴リテ、世ノ好古家ニ質サントス。定メテ其ノ心ニ逆カフコトモ有ランナレド、ソハ余ガ一家言トシテ宥シ給ヒネ。
数千百年ヲ歴タル物ハ、多ク朽腐シ或ハ欠損シテ、其ノ完存スルヲ得ルハ甚ダ鮮ナキモノナリ。然ルヲ極メテ完全ニシテ精美ナル物ヲ求ムルハ、好古ノ主意ヲ失フ者トス。サレド故サラニ穢ナゲナル物ノミヲ喜ビ選ンデ、其ノ形ノ極メテ見悪クキヲ取ル人有リ。是レ亦善カラヌ癖ナリ。
支那ノ古物ヲ愛スル人ニテ、本邦ノ古器ヲバ和臭有リトシ、又本邦ノ物ノミヲ玩ンデ、外国製ノ物ハ観ルヲモ厭フ輩モ無キニ非ズ。古物ヲ賞鑑スルニ於テ、内外ノ区別ヲ立ツルハ笑フ可キコトニテ、其ノ識量ノ狭隘ナルヲ奈何セン。
古器ヲ観ルハ徒ラニ之ヲ玩ブノミニ非ズ。時世ヲ徴シ風土ヲ察シ、工業ノ進歩如何ヲ考フル為メナレバ、泰西諸国ニハ殊ニ貴重スルコトニテ、博物館ノ如キハ観客日ニ麕集ス。是レ迄我ガ邦人ノ全ク之ヲ玩弄物トシ、甚シキニ至リテハ争テ其ノ価格ニ誇ル如キノ比ニ非ズ。我邦モ日ニ月ニ開明ニ進ム故、今日ノ古物家ガ徃日ニ異ナルハ固ヨリ論ヲ俟タザル可シ。左ハ言ヘ古器ヲ玩ブハ他ノ学事ト同ジカラザレバ、古刹ノ僧侶ガ霊宝ノ伝来ヲ説クガ如ク、附会ノ説ヲ喋々スルハ甚ダ煩ハシケレバ、考証ハ固ヨリ有用ナレド、務メテ雅致ヲ失ハズ、空シク理窟ニノミ流レザルヲ可トス。
古書画ヲ玩ブ人ニ、力ヲ極メテ古代ノ物ヲ求ムル者有リ。古代ノ物程貴クシテ愛ス可キハ無シト雖ドモ、千年モ古ニシテ百年モ亦古ナレバ、只管古キヲノミ喜ブハ、贋物ヲ取ルノ憂無キニ非ズ。鑑識ニ深カヽラヌ人ハ、必ズ骨董商ノ為メニ騙セラル。是レ深ク注意ス可キコトナリ。古物ノ中ニテ書画ホド贋造多キ者ハ無シ。有名ノ古人ニ至テハ、百幅中ニ九十九幅贋物ナリト思ヘバ過失少ナシ。古印モ亦然リ。朱明ノ名家ナゾガ刻スル者、多ク我邦ニ舶来ス可キ理無キヲ熟考セヨ。
銅器陶器木製ノ物ハ、其ノ鑑識書画ニ比スレバ易シ。然レドモ其ノ時代ノ概略ヲ識ルヲ要ス。必ズ幾百幾十年、某帝ノ世ニ造リ何人ノ作ニ係ル等ハ、决シテ臆断ス可キニ非ラズ(確証有ルモノハ此例ニ非ズ)。然ルニ此鏡ハ王莽ノ鋳ル所ロ、此壺ハ義満ノ作ル所ロニ相違無シ抔ト断决スルハ、痴人ノ夢ヲ説クト一般ナリ。古銭ノ如ク紀元ヲ書セシ物ハ、一目瞭然ニ知ル可シトス。但シ古銭ハ鑑識頗ル難キモノニテ、古鏡古銅器ヲ観ルノ眼ニテ之ヲ観レバ、必ズ贋品ヲ攫ムニ至ル。是レ亦思ハザル可カラズ。
近来煎茶家ノ好古癖有ル者、皆朱泥ヲ品賞シ、其ノ形ヲ論ズル極メテ喧シ。新渡ヲ棄テヽ古渡ヲ取ルハ余モ同意ナレド、其ノ形ニ就テ、新渡ノ価五十銭ナルニ、古渡ハ一百円以上ニ価スル者有リ。世間喜デ之ヲ買フ。而シテ其ノ古渡ナル物、亦四五百年前の物ニモ非ズ。好事ノ甚シキ、万年青ヲ愛スル富家翁ノ臭味ト一様。余輩ハ与セズ。
(第二号)
我邦ノ好古先生ハ其ノ心ニ謂ヘラク、古物ヲ愛玩スルハ本邦及ビ支那ノ如キ、雅致ヲ尚ブ国ノ風習ニテ、泰西諸国ノ如キ功利ニ汲々タル世界ニハ、夢視セザルコトナラント。是レ所謂井蛙ノ見ノミ。余ヲ以テ之ヲ観レバ、支那ハサテ置キ、我邦ホド古物ヲ疎略ニスル国ハ有ルマジト思フナリ。支那ヨリ旧ク舶来セシ器物ヲ愛玩スルヲ以テ、好古々々ト唱フルハ昔ヨリ有リシコトナレド、我邦ノ古物ヲ貴重スルコトハ、近比泰西ノ事ヲ観聴キシテヨリ、始メテ盛リニ流行シ出シタル様ニ思ハル。其ノ一証ヲ申サバ、日本古代ノ鋳銭ハ僅カ十二種ナレド、其レサヘ識ラヌ者多ク、却テ支那ノ半両五銖ノ類ノミヲ古イ銭ナリト思フ人ノミ有リキ。此比俄ニ日本古銭ヲ玩ブ人多クナリテ、其価ノ十年前ニ四五倍スル様ニナリシハ、泰西ノ風ニ化シタルナリト云フモ、失言ニハ非ザル可シ。且ツ我邦ニハ是レ迄公私トモニ、古物館ト云フモノハ一宇モ無シ。試ニ泰西ヘ往カズトモ、セメテ其ノ書冊ニテモ看ヨ。英国ナドハ埃及ヤ羅馬ノ古物ハ言フ迄モ無ク、印度ノ古物ノミニテモ一館ヲ建テ、今ハ印度ニテ見ラレヌ物マデモ、其ノ中ニハ堆積セリ。近比外国人ハ競テ日本古物ヲ買求ムレバ、此マヽニテ本邦ノ人ガ我ガ古物ヲ愛重スルコトヲ務メズハ、二三十年ノ後、泰西ニテ必ズ日本古物館ヲ建テヽ、却テ我邦ニテハ自国上代ノ物ヲ観ルコト難キニ至ラン。井蛙先生少シク注意シ給フ可シ。
英国ノ博物館中、支那古器ヲ多ク陳列セリ。其中ニ最モ驚ク可キハ王莽ノ剣ナリ。青玉ヲ以テ之ヲ飾ル。其玉ノ美ナル、余ガ曾テ見ザル所ロナリ。篆文ニテ黄室ノ二字ヲ刻ス。往年北京ヲ陥レタル時、清帝ノ御庫ヨリ奪ヒ来リシ物ナリト云フ。又仏国ノ古物家ニ日本ノ物ヲ愛スル人有リ。余其家ヲ訪フ一二次、我ガ古器ヨリ勾玉管玉ノ類迄驚クバカリ多ク貯蔵シ、且ツ皆貴重ス可キノ品ノミナリ。如何ニシテ之ヲ獲タルヤト問ヒシニ、皆戊辰ノ変、旧家覆滅ノ後、大阪ト横浜トニテ購ヒ得タリ。其ノ価ハ至テ廉ナリシト云ヘリ。我邦ニテ古今無双ノ古貨幣家タリシ旧福知山侯ノ蔵品ハ、長持幾棹トカ有リシモ、皆徃年普魯斯人某ガ神戸ニテ買ヒ去リシト。其蔵品目録ハ余ガ家ニモ有レド、今ハ空蝉ト同ジモノナリ。此等ノコトハ、交際上ニ於テハ毫モ論ズ可キコトニ有ラネド、尚古ノ道ニ取リテハ口惜キコトナラズヤ。
前ニモ言ヒシコトナレド、本邦ヲ始メ支那泰西ニ至ル迄、古代ノ物ハ如何程金銀ヲ惜マヌトテモ、多ク獲可キモノナラネバ、極メテ之ヲ愛護保存ス可キコトニテ、若シ放擲シ置ケバ尽ク外人ニ奪ヒ去ラルヽニ至ラン。有力者中好古ノ名有テ其ノ実無キ輩ハ、徒ラニ古クモ有ラヌ玉瓶瑶盃ニ千金ヲ費ヤシ、反故紙ニモ劣ル偽其昌贋徴明ナドニ流涎シテ、其嚢ヲ倒ニスルハ愚カナルコトニコソ。
以上の記事は、 森 銑三 「明治人物閑話」 を参考にした。
今回の記事は、みんな読んでくれないだろうな。
趣味に走っているもんね。
因みに、趣味に走った記事 外国の風車 II を読んでくれた人は、2人だもんね。
ワイフも息子も読んでないのだ。せめて、10人位には読まれたいと思って記事を書いているのに。
この記事も、天地間無用の記事ではあるが、書くのに時間もかかっているわけで、せめて暇つぶしにでも読んでくれる人がいるのを密かに望んではいる。 ふっ切れていませんな。
それでは、ごきげんよう。 さようなら。
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