この駅である。午後4時ころに着いたのだが、台風一過で蒸し暑い日であった。
下車して、5分ほど山側に歩くと第二神明道に出会う。
ここを突っ切って、高速沿いにさらに5分ほど東に進むと植物園入り口になる。道は分岐していて、離宮公園の正門へも行けるが、先に花を見に行こうと思ったのである。
植物園の入り口を、園のほうから写した写真。ひっそりとした佇まいである。
入園料:大人400円、小・中学生200円。
入園料400円と書かれていたが、念のため高齢者割引はないか、と受付のお姉さまに聞いてみた。神戸市民ならば、割引可能ということで、常時携帯している保険証を提示したところ、無料であった。タダで取材できるのだ。飛び上がって喜んだのは言うまでもない。
入場者は、私のみである。5時以降は閉園で、ここから出られないので、離宮公園のほうから出なさいとの注意があった。
パンフ
離宮公園は、花緑と歴史と眺望のオアシス なのである。
裏面は、離宮公園の地図になっている。
離宮公園は、本園と植物園から構成されている。私は、変則的に植物園のほうから入場したのであった。
その案内図が掲示されている。広大な敷地である。
ここで、離宮公園の確実な知識を、Wikipediaから取得しよう。
須磨離宮公園 | |
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本園の平面幾何学式庭園、遠くに須磨浦
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所在地 |
神戸市
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面積 | 82.4 ヘクタール |
前身 | 武庫離宮(須磨離宮) |
開園 | 1967年5月1日 |
運営者 | (公財)神戸市公園緑化協会 |
事務所 | 須磨離宮公園管理事務所 |
事務所所在地 | 兵庫県神戸市須磨区東須磨1-1 |
公式サイト | 公式ホームページ |
兵庫県神戸市須磨区の丘陵に広がる面積82ヘクタールの広大な都市公園。西洋式庭園を中心とする本園と植物園からなる。
もう少し詳しく説明する。
本園(面積58ヘクタール)は月見山とよばれる景観地に位置しており、1907年(明治40年)に大谷光瑞別邸を宮内省が買収して1908年(明治41年)に起工し1914年(大正3年)に完成した旧武庫離宮(須磨離宮)である。
庭園は福羽逸人が設計を行った。当時建設された離宮御殿など建造物群の大半は1945年(昭和20年)に戦災で消失した。福羽 逸人
生誕 | 1856年12月13日 島根県 |
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死没 | 1921年5月19日(満64歳没) |
国籍 | 日本 |
職業 | 官僚、農学者、造園家、園芸家 |
著名な実績 | 新宿御苑 |
親 | 佐々布利厚 養父: 福羽美静 |
福羽 逸人(ふくば はやと/いつせん、1856年12月13日 - 1921年5月19日)
日本の農学者、造園家、園芸家。子爵。宮内省で長く宮廷園芸技師として活躍、小豆島のオリーブや「ふくばいちご」として知られるイチゴなど植物栽培、花弁果樹野菜等の品種改良など園芸分野で多く貢献をしたほか、新宿御苑をはじめとする宮内省管轄の庭園等の整備、武庫離宮(須磨離宮)の庭園設計、栗林公園北庭および日比谷公園西洋花壇の設計に当たった。
知りませんでしたが、造園家、園芸家として業績を残した方だったのですね。
庭園は可能な限り竣工時の状態に復元整備され今上天皇(当時皇太子)御成婚記念として、1967年(昭和42年)に須磨離宮公園として神戸市に下賜された。
そのような経緯があったのですね。これも知りませんでした。御成婚のパレードはテレビで実況中継をしていましたね。私も見ました。そう言えば、ご成婚の記念切手も発行された。
植物園(面積24ヘクタール)は戦前の神戸経済を支えた岡崎財閥の旧岡崎邸の敷地と建物を1973年に神戸市が買収したものである。旧岡崎邸の洋館は阪神大震災により倒壊した。
本園と植物園は専用の歩道橋で接続する。
本園にはキャナルを中心とする平面幾何学式庭園とその上流のテラス式庭園、斜面地に展開する風景式庭園に戦後植栽された樹木や花が多くある。
キャナル
植物園には熱帯・亜熱帯植物を植栽している「観賞温室」など、多数の植物園がある。
という事なのだが、植物園内には誰もいない。 なぜか? 肝心の花が全く咲いていないのだ。
あじさい園や梅園があるというので、そちらの方向に向かう。
梅園に行ったが、時期はずれで花は咲いていない。梅の木は多数あれど、香りはなし。
あじさい園に入る。なんと、梅雨時期で満開であるはずのアジサイの花がない。アジサイの木は沢山あるんだけどね。葉っぱばかりである。花が切り取られた兆候はなし。花をつける程育っていないのかもしれぬ。残念である。
それではと、ぼたん園に向かう。
広場があり、中央に東屋が設えてある。
その奥がみどり滝になっている。人工の小さな滝である。
ぼたん園は、時期ではないので分かっていたが、これも葉っぱだけ。
ボタンとシャクヤクの違いについてが記載されている掲示板。ボタンは木で、シャクヤクは草なんだよね。
立てばシャクヤク 座ればボタン 歩く姿はユリの花
植物園のメインは鑑賞温室なのだが、時間の都合で今回はパス。
東屋のある広場から連絡橋が本園に通じている。
この橋です。
ここから坂道を上っていくと、昔風のトンネルにでる。
そこを抜けると、雪国ならぬ本園の庭園であった。
このような松の造形らしき、鉄製の妙な建造物を発見。そういえば、須磨の海岸は古来より松林で有名です。
このような彫像もあった。ドンキホーテですね。風車に突進して落馬するシーンだと思われる。
大噴水
昔、この庭園はベルサイユ宮殿の真似だと聞いたことがある。調べて見ると、ベルサイユ宮殿の造園方式である平面幾何学式庭園を用いたという事で、真似をしたわけではないらしい。私もベルサイユ宮殿へは、昔観光で行ったことはあるが、すっかり忘れてしまい、似ているかどうかも定かではない。
須磨離宮公園の全貌
中央のキャナル
キャナル横の芝生に置かれた謎の球体。
メインフォール カスケード 奥に見えるのは、レストハウス。
有名なポセイドンの像。 ワイフと昔ここでデートした時も存在していたので、かれこれ40年以上前からここに立っておる。
レストハウス前のテラスからの眺め。
夏休みだけに、親子づれが何組もいましたね。おそらく、子供の森で遊ぶのが目的なのでしょう。
子供の森冒険コースというのが、作られている。これは、スティ-ブンソンの小説「宝島」を題材にした28ポイントの木製遊戯のコースである。全長500m、所要時間40~50分。午後5時に閉鎖するが、まだ15分ほど時間があったので、入らせて貰った。大人のみの入場も可能。
紐を引っ張って帆船の帆をあげる遊び。
チューブトンネルは、オオダコとの格闘を意味する。
魚釣り ロープを引っ張ると巨大魚が出現。
ジグザグ階段
ロープを持ちつつ杭渡り。
宝島のストーリーをなぞっている。
(Robert Louis Balfour Stevenson、1850年11月13日 - 1894年12月3日)
イギリスのスコットランド、エディンバラ生まれの小説家、冒険小説作家、詩人、エッセイストである。
長い網の道とかすべり台もある。その他諸々。
という事で、子供が自然の中で遊びながら体力作りができるようになっている。
展望台からの眺め。
このような歌碑があった。
達筆過ぎて読めぬが、大丈夫。その下に、楷書で書かれた解説板がある。
瀬戸内の 島島をむすぶ 橋なりて よろこぶ声の 空にとどろく 安東聖空 句碑
子供の森を出て、バラの歴史と文化圏へ向かう。途中二セカメラマンになって、庭園を写しまくるのであった。バラ園では、著名なバラが植えられているが、まだ開花していないので写真は省略。
第十代神戸市長の中井一夫の像と 平和 の書の石碑。
中門広場の白壁と市民の木である巨大楠。枝ぶりが凄いですね。
中門 神社でもないのに狛犬が2匹、鎮座している。
そのお姿。
中門と白壁の説明板。それによると、これらは須磨離宮建造の際に造られたとある。
約100年前で、それほど古いわけではない。
広場では、武庫離宮展が開かれていた。
離宮が作られて100年になるが、当時の様子。
こちらが 中門の入り口
またもや歌碑。一部は読めそうだね。表面に薄っすらと吾輩が写ってますな。
その裏側。
阿波野青畝(1899-1992)の句碑である。歌碑ではなかった。
須磨涼し 今も昔の 文の如 青畝
「昔の文」とは「源氏物語」と考えるのが妥当。
海を見下ろせる緑豊かな地・須磨は、
「源氏物語」に描かれた昔と同じように、
今も変わらず美しく、涼しい、という句。
らしいです。
鞍馬産自然石灯籠
名石だそうだ。自然の造形が良いのだろうね。
傘亭 御殿から見て月の出る方位に建造された、一本柱で六角形屋根の四阿舎(あずまや)である。
戦災者供養塔
その裏側。説明板がはめ込まれている。
またまた句碑。
まつかげや 月は三五夜 中納言
京都の貞室が、須磨の浦の月を見に行って「松かげや月は三五夜中納言」と吟じたそうである。
月見台休憩所
ここは月見山、千年以上も前から月を愛でる場所とある。
月見山からの現在の景色 何ということはない。
ここからは階段が多い。天皇の階段とよばれ、天皇が歩きやすいように踏み石を一段一段互い違いに組んだと噂されている。
印度杉
26.2mの高さで、シンボル的に植栽されたという。
彩を添えるための花の写真。
馬車道
この馬車道を下ると、離宮公園の正門に至る。
正門。全くの逆コースを取った訳です。
その亀甲形石積については、足元の石畳を見てください。
全く最後になったが、須磨離宮の説明板。
約百年前、皇室の別荘である「須磨離宮」が建造されました。
総檜造り二階建ての御殿は、大正天皇や皇后、昭和天皇、満州国皇帝の溥儀も利用されました。
「各所に離宮・御用邸ありといえども、武庫の如き風景佳絶なるは無し」と、
須磨離宮の庭園設計者・福羽逸人(ふくばはやと)は「回顧録」で述べています。
昭和20年空襲で御殿は焼失、進駐軍射撃演習場を経て
昭和42年、離宮公園が正式開園します。
と記されている。
長くなったが、これで須磨離宮公園の訪問記はおしまい。
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