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2015年11月11日水曜日

亀岡 丹波亀山城址

亀岡日帰り旅行記の4回目で、今回は丹波亀山城址の見学報告。この城址は、国や地方自治体ではなく、宗教法人の大本が管理している。このようなお城は非常に珍しいケースだと思う。
明治政府が廃城処分を決定し、市町村に払い下げたのだが転売され、大本教の教祖が購入する。聖地として再整備するためであるが、大日本帝国政府の弾圧により、大本施設の神殿は爆破される。所有権は、破格の安値で亀岡町に譲渡されたが、戦後、城の所有権は再び大本に渡った。そのまま大本の聖地として現在に至っている。

このような理由で、城郭は宗教法人大本の敷地であるため、見学には入口受付で許可を取る必要がある。また、見学のためのお祓いを受ける必要もある。

まづWikipediaにより亀山城の基礎知識を得る。

亀山城 (丹波国)
京都府
亀山城(丹波国)石垣
亀山城(丹波国)石垣
別名亀宝城、亀岡城
城郭構造平山城
天守構造複合式層塔型5重5階
築城主明智光秀
築城年1578年
主な改修者岡部長盛
主な城主明智氏、羽柴氏、石田氏、岡部氏
廃城年1877年
遺構石垣、堀
指定文化財なし
位置北緯35度0分48.82秒
東経135度34分52.32秒


亀山城(かめやまじょう)

京都府亀岡市荒塚町周辺(旧丹波国桑田郡亀岡)にあった日本の城。亀岡城とも。明智光秀によって丹波統治の拠点として築城され、江戸時代初頭には近世城郭として整備された。大正時代に新宗教「大本」が購入、神殿を築いたが大本事件で日本政府により爆破・破却された。戦後再建され、大本の本部が置かれている。

歴史が興味深いので、引用をつづける。
 
歴史:
 
戦国時代

織田信長の命を受けて丹波攻略に従事中であった明智光秀が、口丹波にある亀岡盆地の中心であった亀山に天正6年(1578年)から築城した。丹波平定後はそのまま丹波経営の拠点となったが、光秀は天正10年(1582年)に本能寺の変を起こし、まもなく羽柴秀吉に敗れて、逃走中に討死。
その後は天下を統一した秀吉の重要拠点として一門の羽柴秀勝(信長の子)・豊臣秀勝(秀吉の甥・江の夫 )・豊臣秀俊(小早川秀秋)や豊臣政権で五奉行の一人となった前田玄以などが入った。

江戸時代

古絵図


秀吉の死後に天下を手中にした徳川家康もこの城を重要視し、慶長14年(1609年)に譜代大名である岡部長盛(在任1609年 - 1621年)を入封させ、丹波亀山藩主に任じた。
さらに「天下普請」により幕府が西国大名に命じ近世城郭として亀山城を大修築した。藤堂高虎が縄張りを勤め、慶長15年(1610年)夏ごろに完成し、本丸には5重の層塔型天守が上がった。
寛延元年(1748年)以降は、形原松平氏が居城し、明治2年(1869年)に亀岡藩へ改称。同4年(1871年)に亀岡県が置県され、廃藩となった。



明治5年(1872年)に撮影された亀山城本丸南面

明治維新以降
  • 1873年(明治6年) 陸軍省が城の存廃を決定し建物の一部を払い下げる。
  • 1877年(明治10年)政府が廃城処分を決定する。
  • 1889年(明治22年)市町村に払い下げされ転売される。
1919年(大正8年)11月18日、新宗教「大本」の指導者出口王仁三郎(亀岡出身)が管理されず荒廃していた本城を購入、従来の根拠地綾部に並ぶ拠点にすべく整備を開始した。
大日本帝国政府は拡大を続ける大本に警戒を強め、1935年(昭和10年)12月8日に第二次大本事件で徹底的な弾圧を加えた。そして拘束されていた王仁三郎から所有権を格安値で亀岡町に譲渡させる。裁判結審前にも関わらず大本施設の破却が進められ、本城の破壊は清水組により1936年(昭和11年)5月11日から6月12日まで続いた。神殿は1500発のダイナマイトで爆破され、象徴的な石は再利用できぬよう日本海に捨てられた。戦後本城の所有権は再び大本に渡った。

なるほどね、そういう経緯で大本」の管理になったのだと頷いたのであった。

参観受付がわからずまごついたのだが、大本会館で職員の方に会い、場所を教えて頂いた。みろく会館が受付の場所になっている。

2つ折りの立派なパンフを頂いたので、アップする。

表紙  ありし日の亀山城の雄姿である。




裏面   亀山城の歴史が年代毎に記されている。


その一部を引用しよう。

明治政府の廃城令を受けて、天守は固より全てが払い下げになり、多くの遺構や石垣までが分割売りされ、各地へ散っていく。

残された城址は荒れ果て、狐狸の巣くう丘陵台地となり、町の人々は「何がでるやら怖くて」通る人さえいない状態となっていた。
大正八年、亀岡出身の宗教法人「大本」の教祖・出口王仁三郎師は、亀山城址を買いとった。
出口王仁三郎師は、大本信徒を動員して。残った石を土中から掘り起こし、元の亀山城石垣を復元した。そして、自然あふれる大本の聖地「天恩郷」として亀山城址をよみがえらせた。

出口王仁三郎


パンフの小さい写真がその様子を写している。

パンフの見開きが天恩郷」の案内図になっている。



それでは、写真案内を始める。

みろく会館  ここで参観の受付をして頂く。


2階には亀山城ゆかりの品々が展示されている。

入り口に張られているのが、明智光秀画像のポスター。


井内鉄外画伯による、亀山城図  台湾楠の上に油絵で描かれている。


亀山城の模型

角櫓鯱

大本弾圧事件で、建物の破壊された様子が写真パネルで解説されている。



復元された亀山城石垣内堀跡


花明山植物園入り口 見学はせず。


手水舎

万祥殿

この右側の建物が参拝者受付になる。

天恩郷の由緒舎


この玄関で巫女さんからお祓いを受けた。


神殿横

神殿うしろの建物

かっての本丸入り口の門


復元なった天守石垣






亀岡の名木とされる 大本天恩郷の大イチョウ。  


四大主義の石碑
 
清潔主義  楽天主義  進展主義  統一主義 
の四主義

神人一致の看板と石碑


 神は万物普遍の霊にして人は天地経綸の主体也。霊体合一して茲に無限の神徳を発揮す

大本教旨とある。

城内の散策 屋敷跡のような建物がつづいている。
 


 

月の輪台  瑞の御霊大神を祀っている。


参道への入り口
 

この脇出口にある、丹波亀山城跡の説明パネル。

 
 これで亀山城址の参観を修了した。

駅付近の定食屋で、昼食にさしみ定食(私)と海鮮丼定食(息子)を食べた。特にどうという事はないが、最近グルメ記事を書いていないので、料理写真のみアップする。味は普通。

 
 
 
食後時間がないので、タクシーで出雲大神宮へと向かったのである。 出雲大神宮の記事は、次回以降につづく。今回は、これでおしまい。

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