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2017年9月2日土曜日

池田市 伊居太神社

今回は、呉服神社とペアになる伊居太神社の紹介である。伊居太神社いけだじんじゃと読む。池田市いけだじんじゃですが、最初はいいだじんじゃと読んでました。お恥ずかしい。

Wikipediaの呉服神社の記事では、つぎのように書かれていた。

穴織媛が祀られ、五月山山麓にある伊居太神社が「上の宮」とされるのに対し呉服媛が祀られる呉服神社は「下の宮」とされ、互いの関係はとても深い。

前回呉服神社の引用写真でもあったが、穴織媛(あやはとりのひめ)と呉服媛(くれはとりのひめ)はペアで祀られているようで、上の宮穴織媛で、下の宮呉服媛となる。

両神社は昔の池田の町北端南端に位置していた。



場所で云うと高速路が走っている能勢街道を脇にして五月山を登って行ったところにある。


この石段というか参道をエッチラオッチラ登って行った先にある。


社碑  延喜式内 伊居太神社 とある。石鳥居の足元に立てられている。


石の大鳥居 神額には 穴織大明神 とある。


この鳥居から奥が伊居太神社の境内といえる。以下 伊居太神社の公式サイト
から略図などを引用させて頂いた。

境内の略図

さらに参道を登っていくと



境内社稲荷社が現われる。

不思議なことに一の鳥居は広島の厳島神社鳥居と同じように三本足の鳥居である。稲荷社なのだがお狐様は見当たらず。


同じく境内社厳島社  こちらの方に三本足の鳥居があっても不思議でないのだが・・・。




境内社猪名津彦神社  こちらは歴史を感じさせる渋い社殿石鳥居常夜灯狛犬です。一応必須のアイテムは揃っている。


由緒板  

ここでようやく本来の目的である伊居太神社の解説を行う。Wikipediaにはこのように説明されている。

伊居太神社

伊居太神社
Ikeda shrine 1.jpg
所在地大阪府池田市綾羽2-4-5
位置北緯34度49分48.7秒
東経135度25分30.7秒
主祭神穴織大明神、応神天皇、仁徳天皇
社格等式内小社、村社
創建仁徳天皇77年



伊居太神社(いけだじんじゃ)

大阪府池田市綾羽にある神社である。 呉の国から渡来し、日本に機織技術を伝えたとされる、織姫・穴織媛(あやはとりのひめ)と、応神天皇仁徳天皇を祀っている。正式名称は穴織宮伊居太神社

ご祭神:

穴織大明神 (あやはとりだいみょうじん)

左側の姫神である。



応神天皇、仁徳天皇  ともに今回は画像省略する。

由緒:


伊居太神社は正式名称を「穴織宮 伊居太神社」(あやはぐう いけだじんじゃ)といい、仁徳天皇77年(390年)創建の、池田市に現存する中では最古の神社です。


現在の社殿は慶長9年(1604年)豊臣秀頼公により、片桐且元普請奉行再建されたもので安土桃山文化の面影を色濃く残すものです。 (神社の公式サイトより)

歴史の略記  (Wikipedia の記事より)
  • 応神天皇の時代、機織・縫製技術を得るために呉の国に派遣された猪名津彦命が、呉王に乞い連れ帰った呉服媛(くれはとりのひめ)・穴織媛(あやはとりのひめ)・兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)の4姉妹のうち、池田の地に迎えられた呉服・穴織姉妹の妹、穴織媛が祀られている。
  • 仁徳天皇76年に穴織媛が死去し、その翌年に仁徳天皇がこの地に建てたとされる。
  • 延暦4年、桓武天皇の勅命により社殿を新たに、応神天皇仁徳天皇を祀るようになった。
  • 現在の社殿は、織田信長の摂津国への入国により焼失後、慶長9年(1604年)に豊臣秀頼によって再建された。
境内を参拝する。時間は6時を過ぎているので暗くなってきました。
大門  暗くて見えないが神額 伊居太神社 とある。



境内側から見た大門

拝殿  拝殿本殿から独立している。 


拝殿狛犬二基





手水舎

頼光松  巨大松の切株を祀ってある。



本殿  本殿前御門ばかりが強調されてしまった。




部分的だけれど本殿の画像 



本殿は「千鳥唐破風三棟寄造」という、中央に唐破風、両側に千鳥破風を組み合わせた、全国にも例を見ない珍しい構造であり、建物の装飾も内部にも透かし彫りを施し立体的に仕上げる「籠彫」という技法が用いられるなど精巧なものである。
ご祭神は中央に「穴織大明神」、向かって右に「応神天皇」、向かって左に「仁徳天皇」をお祀りしております。

本殿屋根部分



本殿狛犬二基


脇社松尾社国常立社住吉社社殿


神輿庫

脇社伊勢社

ご神木



古い伝統ある神社らしい雰囲気をもっている。また行ってみたいお勧めの神社です。
これでおしまい。

2 件のコメント:

  1. 我々の鎮守。淡路三宮(式内。津名郡次筆)伊勢久留麻神社は、
    第30代敏達天皇の御代に伊勢国安奄郡久留真庄、伊勢の森(鈴鹿市白子)に鎮座の久留真神社の分霊を奉迎して創建と伝わる。(同時期、暦年に渡り天然痘が猛威を震い、あまつさえ敏達天皇が罹患した(治世14年春3月)事により、行疫神は西方より飛来するとの信仰から防塞、鎮圧が件の理由かと思います(当時の大王宮の真西))

    元社の久留真神社は件の漢織姫(アヤハトリ)が伊勢国にいたり、織縫の技術を広く伝えて民から大変慕われ
    死後、殖産興業の神として祀った云々。
    主祭神はいわゆる大国主神。配神に后神の須世理媛命。漢織姫命。

    こちらの伝では伊勢国でなくなった事に成っています。

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  2. また、呉の国は、クレの国と読めば=高句麗国(高は美称、尊称。天に同じ(天の借字で、手)句麗(クリ、クレ、クル、クラ、クロ))ないしはその地域、後継国(勃海国。高麗国。)
    わざわざ、時代的にも戦乱/動乱の最中に中国大陸の呉に行くのは現実的ではありません。

    天皇家の旗印の月幡(カエル)、日幡に三足カラスが描かれているのが高句麗や百済(どちらも同族国で両王家の紋章は三足カラス(鳥))との関連性を匂わす?
    神社等のこま犬(高麗犬)は、元来(今も?)は天皇玉座(高御座)や御座の両脇に配置されていたモノ

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