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2014年7月27日日曜日

明石散歩+淡路島岩屋散歩 II

明石公園散歩を終えて、海側の駅前広場に出る。 以前来た時と比べると随分変わっている。
このような高い2基の時計塔が建っていた。 駅前再開発事業が平成22年11月に立案され、その見直し案が平成23年10月に提出され、事業計画が翌年の平成24年10月に実施されたとのことである。 
明石駅前南地区再開発事業について


 
さらに、駅前広場を含む2.2ヘクタールに地上34階 地下2階の再開発ビルが建設される予定で、
完成すると明石市内では初の125mの高さを誇る超高層複合ビルとなります。
 
一大モール街を作る訳だ。これからも、どんどん駅前の様子が変わっていくのだろうね。
 
さらに、今年は明石市制95周年ということで、色んなイヴェントを計画しているらしい。
 
駅の壁がタイルによるレリーフ画になっている。
「時空 宇宙のかなたへ」 という題が付けられている。面白いので写してみた。
 
 
全貌は、これです。
 
作者は、竹内 巖(たけうちいわお)。 この方です。
 
 

竹内 巌

Iwao Takeuchi
一級建築士

1960年 生まれ 東京都出身
1983年 法政大学工学部建築学科 卒業
1990年 リチャード・ロジャース・パートナーシップジャパン
1991年 アーキテクトファイブ
2000年 城戸崎研究室
2000年 竹内巌/ハル・アーキテクツ設立 主宰
という事です。
 
JRの線路と垂直に交わる、 駅前の商店街が明石銀座である。 
ここは、昔からあるが、寂れた感じではある。
 
 
商店街を少し歩いて、右に折れるとそこが魚の棚(うおのたな)商店街である。
 
Wikipedia からの説明を、少し長いが引用する。
 
 
魚の棚うおんたな・「うおのたな」或いは「うぉんたな」ともいう)

兵庫県明石市本町一丁目にある商業地区。
鮮魚店が多いのが特徴で、県外からの客も多く明石の観光地としても重要な位置を占めている。
過去にはマルハの創始者中部幾次郎林兼商店(はやしかねしょうてん)などもあった。
とくに、海峡付近や播磨灘一帯で採られ明石漁港から水上げされた新鮮な魚介類を「前もの」と呼び、「明石鯛」「明石蛸」を筆頭に活きの良さを売り物としている。
全長350mのアーケードの下に、特産の魚介類や練り製品、乾物などを扱う商店を中心に100を超える店舗が軒を連ねており、鮮魚を扱う店が多いことで路面はタイル敷きとなっている。また、名物の明石焼きの店も多く出店される。

この日は、午後3時半をすぎていたので買い物客は多くなく、
鮮魚屋さんも多くは既に閉店していた。

 
 
元気はないが、明石タコです。麦わらタコと書いてあるが、これは次の意味。
 
 
麦わらダコ7~8月、水温の上昇とともにタコがエサとするエビやカニが増えてきます。エサが豊富なため、タコは一気に成長し肥えてきて、味も良くなってきます。ちょうどその頃は、麦の収穫時期にあたり、また漁師が沖へ出るとき麦わら帽子をかぶり始める時期でもある、そんなところから
夏のタコは「麦わらダコ」と呼ばれています。      
 
という事です。
 
生きているときは、こんなんで、
  
ゆでられると、こうなって、
 
天日干しされると、 こうなる。
 
お店では、こんな風に大量に湯がきます。 ゆでだこの山
 
 
このタコの大きな切り身をいれて焼いたタコ焼きが、名物明石焼きです。
 
 
天つゆと刻み三つ葉で食べるところがミソです。これは美味です。
 
残る明石名物は、明石鯛です。
 
 
日によって違いますが、大体1尾5000円位します。
 
その他にも、各種佃煮や鯛めしの元とかタコ味噌なんかもある。
 
魚の棚商店街 を見終わって、海側に向かうと淡路ジェノバラインの乗り場がある。
 
 
30年前は、ここから淡路岩屋への汽船がでていたのだ。それに乗って親父と釣りに行ったのだ。
大昔の話である。
 
今はもう運行されていないが、淡路島へ渡るタコフェリーというのもあったのだ。
 
 
ふと、ノスタルジーにかられ、船で淡路島に渡ろうと思ったのだ。
退職老人には、そのような自由気ままが許されているのだ。
 
明石港の風景である。 ここら辺は、灯台とか社が見えていてそれ程変わってはいない。
 
 
 
そして 4時20分発の 淡路ジェノバライン で対岸の淡路市岩屋へ向かう。
これが高速船の まりーんふらわあ2。 これに乗り込んだ。
所要時間13分、運賃片道500円である。以前は、40分位かかったように記憶している。
 
 
海路、巡洋船に出会う。
 
明石海峡大橋の真下をくぐって行く。
 
 
そして、向かいに見えるのが岩屋の町である。 観覧車は、淡路SAに設置されている。
 
 
岩屋港から見た明石海峡大橋である。 長いというのが実感できる。
 
 
ここで、岩屋港の説明。 例の如く Wikipedia より。
   
岩屋港
Iwaya-Port.JPG
所在地
日本の旗 日本
所在地兵庫県淡路市岩屋
座標北緯34度35分25.5秒
東経135度1分14.3秒
座標: 北緯34度35分25.5秒 東経135度1分14.3秒
詳細
管理者兵庫県
種類地方港湾
岩屋港(いわやこう)
兵庫県淡路市岩屋(淡路島)にある港湾。管理者は兵庫県。地方港湾。

簡単すぎる説明であるが、特に問題はない。 


港からでると、目の前に絵島が見える。 これである。
 
 
この絵島については、このページ 兵庫の山々 山頂の岩石 が詳しい。
この方の記事 絵島 より、引用する。
 
 淡路町の岩屋港の東にある絵島は、高さ約20mの小島である。『古事記』では、イザナギ・イザナミの二神が海原を天の沼矛(ぬぼこ)でかき回して造った最初の島『おのころ島』に降り立ち、国生みを始めたという。その最初の島『おのころ島』が、淡路島とも沼島(南淡町)ともこの絵島ともいわれている。絵島は、郷土記念物にも指定され、島に渡る橋、夜間ライトアップ用の
照明、説明板などが整備されている。

 この島は、約3500万年前(古第三紀始新世)の岩屋累層の砂岩からできている。この砂岩は、淘汰のよい(粒の大きさが揃った)灰色の砂岩で、手で触ってみるとざらざらした感じがする。地層中には、様々な赤褐色の模様ができている。これは、地層中の鉄分が割れ目に沿って浸み出し、風化によって褐鉄鉱に変化してものである。
 
3500万年前の砂岩層の露出部 がこれです。
 
 

赤っぽいのは、やはり砂岩中の鉄分のさびだったんですね。 

また、港の前の公園には、 と題された裸婦像がある。 
 
 
久しぶりに、イベント以外で淡路島のゆるキャラに遭遇。淡路市営バスのボデーに描かれていた。
あわ神くんと あわ姫ちゃんである。
 
 
イラストは、これで
 
着ぐるみは、これである。こいつらは、ローカルにだが有名なので、今回は身上調査はしない。
 
 
岩屋港から道路沿いに35分ほど歩くと、あわじ道の駅につく。
大橋の下に見える建物群です。
 
 
ここは、おさかな共和国として知られている。
 
 
あわじ道の駅のパンフである。
 
 
 
この海鮮館にて、地元グルメ 生シラス丼 を食べねば男ではない。
 
 
これであります。お刺身は、鯛とイカである。 美味であった。決して生臭くはない。
味噌汁はまあまかな。
 
 
道の駅の周辺は公園になっていて、丁度明石大橋の真下になる。
 
 
橋の下では、釣り人がサビキで、小鯵、小鯖、雀鯛などを釣っていた。
 
 
いつもの如く、大橋の真下からの眺め。
 
 
大橋の土台がこれである。正しく巨大コンクリの塊である。
 
 
江崎灯台まで、行くつもりであったが暗くなってきた。足のほうもかなり、くたびれてきた。
それで、もう帰ることにした。 
 
鵜が、岩屋港の岸壁にいた。 そばに人がいるのに飛んでいかない。
どうやら、釣り人の投げる小魚を待っているらしい。 このグータラ鳥めが。
 


岩屋港7時20分の便に乗って、JR明石駅までもどり、JR六甲道に帰る。
自宅までは、バス1本である。 
 
これで、明石と岩屋の長時間散歩は終わった。 くたびれました。
 
それでは、ごきげんよう。

2014年7月26日土曜日

明石散歩+淡路島岩屋散歩 I

 

体調が悪く、病院に行った時以外は3日間自宅で寝ていた。 ようやく、元気が出てきたので趣味のブログ書きを再開することにした。 途中まで書いていた下書きの記事の続きを書く事にする。

下書きの記事:

試験とレポートの採点も終わったので、運動不足解消のため長距離散歩にでようと思ったのだ。
余り動かない生活をしているため、体重が増加の一途をたどっている。 由々しき事である。 
(追記:その後いっぺんに2㎏痩せた。) 

それで、明石を1日かけて散策しようと思ったのだ。 若い頃は、親父と一緒に海釣りにいくため、
また子供ができてからは、行楽の待ち合わせ場所としてよく遊びに行ってたのだ。


昼過ぎに自宅を出て、JR六甲道から途中垂水駅で下車してから、明石駅へ向かう。 



明石駅の南側に明石公園が広がっていて、明石城武蔵の庭園剛ノ池、競技場、球場、テニスコート、子どもの村などが園内にある。


公園の入り口には案内掲示板があり、その横手には中部幾次郎翁の銅像である。
この方は、太洋漁業株式会社の創業者で明石市の出身である。 



いつもの如く Wikipedia  によると、

中部 幾次郎(なかべ いくじろう)

生誕1866年2月18日(旧暦慶応2年1月4日)
播磨国明石郡林村
死没1946年(昭和21年)5月19日
職業実業家・政治家
子供中部兼市・中部謙吉・中部利三郎

 
明治から昭和初期(1900年代後半~1940年代前半)の実業家。林兼商店(後の大洋漁業、現在のマルハニチロの前身の一つ)創業者。
1924年(大正13年)に大洋漁業の前身となる林兼商店を創立。
漁業のほか、水産物加工、海運、造船などの経営に進出し、一大企業グループを作り上げた。1930年(昭和5年)から1943年(昭和18年)まで下関商工会議所会頭。1946年(昭和21年)勅選貴族院議員となる。

かっての財界の雄である。 例えば、中部 幾次郎 を参照。 

記事を読んでみて、へ~と思ったのは、 現役の時にかって訪問したことのある神奈川工科大学 が、幾次郎の次男・謙吉が大洋漁業社長時代に創立した幾徳工業高等専門学校を母体とした大学であったことだ。 この大学は、自動車関係と情報工学の強い大学とは認識していたが、捕鯨のマルハと関係があったとはついぞ知らんかった(いつものセリフだが)。

明石公園のパンフです。入場は無料。


かなり広大な公園で、日本の都市公園100選の地 に選ばれている。

裏面が公園のマップになっている。 この公園内を熱い中、ぐるぐる散歩したのである。

 
Wikipedia によるデータは、つぎの通り。
 
明石公園
Akashi Castle09n4592.jpg
桜堀
所在地
日本の旗 日本
兵庫県明石市明石公園
北緯34度39分24.13秒 東経134度59分38.06秒 /
 北緯34.6567028度 東経134.9939056度 / 34.6567028; 134.9939056座標: 北緯34度39分24.13秒 東経134度59分38.06秒 /
 北緯34.6567028度 東経134.9939056度 / 34.6567028; 134.9939056
分類都市公園(広域公園)
前身明石城
開園1918年4月15日
運営者公益財団法人兵庫県園芸・公園協会
事務所兵庫県立明石公園事務所
事務所所在地明石市明石公園1-27
公式サイト明石公園

兵庫県立明石公園(ひょうごけんりつあかしこうえん)
兵庫県明石市にある兵庫県立の都市公園(広域公園)である。

公園に関する詳しい情報は、公式サイト 明石公園 にある。

ここから再開:

それで、公園中を熱い最中歩き回って写した写真や感じたことを書くことが目的である。

公園の正面入り口である。対面は石垣になっている。
平日にも拘わらず家族づれが結構沢山いた。 もう夏休みに入っているのであった。


お堀には、噴水が設えてある。 



この日は、白鳥がけだるく(気高くでなく)堀に浮かんでいたのだ。


公園に入ると目の前に明石城の2つの櫓が見える。


左側が 坤櫓(ひつじさるやぐら)で右側が 巽櫓(たつみやぐら)である。 

ここで、明石城(日本100名城のひとつ)のお勉強をする。
Wikipedia によると、

logo
明石城
(兵庫県)
坤櫓(左)と巽櫓(右)
坤櫓(左)と巽櫓(右)
別名喜春城、錦江城
城郭構造連郭梯郭混合式平山城
天守構造なし(天守台はあり)
築城主小笠原忠真
築城年1618年(元和4年)
主な改修者松平直常
主な城主松平氏(越前系)
廃城年1874年(明治7年)
遺構櫓、石垣、堀、移築門
指定文化財国の重要文化財巽櫓・坤櫓)、国の史跡
再建造物
位置北緯34度39分10.07秒
東経134度59分30.47秒


明石城は、徳川家康の曾孫で明石、三木、加古、加東の四郡10万石を領した小笠原忠真が将軍家と姫路藩本多家の強い支援をうけて築いた城である。

100名城のスタンプはこれ。



阪神・淡路大震災後の復旧の記録としてのパンフが発行されている。
中央にあるのが、明石城絵図である。




パンフには、明石城の歴史、櫓の概要、修復の経緯などが説明されている。



これによると、江戸時代の築城後最も大きな被害を受けたのが、阪神・淡路大震災時であった。
その修復は、伝統的工法による学術的な検証を加えながらの慎重な工事によりなされたという。
震災直後の2つの櫓の写真が載せられている。壁は崩れたものの櫓自体は倒壊していない。
 

坤櫓を石垣から写したものである。

こちらは、巽櫓を本丸から写したものである。


櫓の公開は、土、日、祝日のみで、この日は平日なので見学できず。

公式ホームページによると、明石城には天守閣はなく本丸の四隅三層の隅櫓でかためたものという。 それで、干支の名前のうち二つづつが櫓の名前に振られているのである。

四隅櫓は、このようになっていた。



天守は無いが本丸の四隅に三重櫓4基が設けられていた。

それで、残りの櫓はどうなっているか気になったのであるが、こうであった。


残り1つのうち艮櫓(うしとらやぐら)については分かったが、最期の1つはどんな名前が付けられているのかとの疑問が残った。 それで調べてみたが、すぐには分からない。
櫓の建つ位置・方位に由来する名称が付けられた櫓であることはわかった。


 
この方位図によると、戍亥(いぬい)櫓だと予想できる。 
困ったときの Wikipedia で調べると、戍亥(いぬい)櫓の記事はない。なぜだ?
そこで、Google 検索するとちゃんと存在していた。熊本城には戍亥櫓がある。
再び 明石城戍亥櫓 で検索すると出てきた。正しくは、乾(いぬい)櫓と書くそうである。 
 
忍者かすこばの旅行帳 明石城 を参照させて頂いた。
 
1901年(明治34年)宮内省京都事務所によって痛みの激しい本丸・二ノ丸土塀の取り壊し、
本丸乾(いぬい)櫓破却、巽(たつみ)櫓と坤(ひつじさる)櫓の大修理工事が行われた。

これで、四隅櫓の名の探究は終わった。 さて、二ノ丸、東ノ丸を経て薬研堀にでる。

(二の丸)

堀向かいの石垣ぞいの小道がこれだ。 ここから、桜堀へ向かう。


堀の傍に建てられてある休憩所で一休み。涼しくて気持ちがいい。しかし、やぶ蚊が多い。
 
 
この桜堀へ至る散策コースはなかなか良い。
堀には沢山の亀が浮かんでいる。アカミミガメ(幼生名:ミドリガメ)である。
100匹以上集まっている。  日本の侵略的外来種ワースト100 
 

桜堀から散策路を少し歩くと、花と緑のまちづくりセンターにでる。


その目前が剛ノ池である。 大昔だが、子供達を白鳥のボートにのせて池を一周したものである。



剛ノ池 から テニスコートを抜け、第二野球場を横手にみて子どもの村を一周する。
 
 
さらに、県立図書館や私立図書館のあるエリアを通って再び薬研堀にでる。
 
 
そして、東ノ丸、二ノ丸と逆コースを辿って西芝生広場にでる。
 
暑くてかなりへばったが、喫茶パルコで一休みしたのち、目的の1つ武蔵の庭園見学をする。
 
パンフは、これである。
 
 
明石城武蔵の庭園 (明石市広報のホームページより)

池泉回遊式の日本庭園。2003年11月2日から一般公開。茶室は2004年3月27日に完成。 かつて宮本武蔵作と伝えられる庭園や建物が現在の陸上競技場付近にあった。今回の庭園はそれより
東に離れたところにある乙女池周辺を整備して造られている。

門構えは、これです。

お茶屋や、泉水、築山はこのような風情である。

 
落差1mの雌滝
 

まあ、普通の庭園である。特に武蔵だから凄いというのは全くない。

かくして、明石公園散策はおわる。 
しかし、明石の魚の棚見物や淡路島の岩屋まで足を延ばしたことはまだ報告していない。 
これは、次回廻しにして、今回の散歩で出会った花たちの写真を見ていこう。
例によって、同定できる種類は多くないので、花の名前は書かない。 見目麗しければよいのだ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
公園内には、においの花園があったので、色んな種類の花の写真を撮ることができた。
幸運であった。 
 
明石散歩+淡路島岩屋散歩 II につづく。