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2014年6月17日火曜日

備中高松城水攻め

NHKの大河ドラマ 軍師官兵衛 などの戦国ドラマで、秀吉高松城の水攻め
それに続く中国大返しは、有名です。 先日岡山に行ったおりに、高松城跡も訪れました。

国指定史跡になっています。



史跡の周りは、吉備史跡県立自然公園になっています。




ここで、 高松城の水攻めのお勉強です。 私は、曖昧にしか憶えていないので Wikipedia 等を
用いてちゃんと記録しておくのだ。

高松城の水攻め 

今から約430年前の天正10(1582)年のことです。織田信長は天下統一のため、中国地方を攻めてきた時、中国攻めの大将羽柴秀吉(豊臣秀吉)がこの高松城を守っていた清水宗治(しみずむねはる)を水攻めにした戦のことです。

以下、データは Wikipedia 等を参照した。

清水 宗治

時代戦国時代
生誕天文6年(1537年)
死没天正10年6月4日(1582年6月23日)
別名長左衛門
主君三村元親→毛利輝元
父母父:宗則、母:不詳
兄弟宗知(月清入道)、宗治、難波宗忠
正室:石川久智の娘
宗之、景治
 
清水 宗治(しみず むねはる)

天文6年(1537年) - 天正10年6月4日(1582年6月23日))は、戦国時代の武将。備中国高松城主。通称は長左衛門。三村氏、毛利氏に仕えた。清水宗則の子。三村氏の有力配下石川久智の娘婿となり、子供に宗之、景治、兄に宗知(月清入道)がいる。

生涯

天文6年(1537年)、備中国賀陽郡清水村(現在の岡山県総社市井手)に生まれる(誕生月日は不詳)。幼名は才太郎といった。 備中国の一豪族の家臣の身分で備中清水城城主を務め、のちに高松城の城主となる。
統一政策を進める織田信長の家臣・羽柴秀吉が中国攻めを行うと、宗治高松城に籠城して抗戦する。秀吉は降伏すれば備中国を与えるという条件を出したが、宗治は応じなかったと言われている。
そのため、黒田孝高(官兵衛)が策した水攻めにあって城は落城寸前に追い込まれる。
この水攻めの最中の6月2日に京都で本能寺の変が起こって信長が死去し、その報を知った秀吉は宗治の命を条件に城兵を助命する講和を呼びかけた。宗治は信長の死を知らぬまま、その2日後に兄の月清入道や家臣2人らとともに水上の舟において切腹した。享年46。

やはり、大河ドラマ 軍師官兵衛 の影響で、公園内にもこのような幟が立てかけられていた。



水攻めの図が、あげられており写真に撮ってみた。 秀吉が、高松城が水没するのを見ている図である。 水攻めの略史も書かれてある。





古い絵図でみると、このような状況であった。


水攻め時の、東軍と西軍の配置図はこのようであったとされている。



水によって苦しめられなかなか城が落ちないのだから反対に水によって攻めたらという参謀
黒田孝高(官兵衛)の考えを入れて、秀吉は水攻めにすることを決めた。

堤防(ていぼう)は、足守川より東、蛙ヶ鼻(かわずがはな)まで3,050メートル、堤防の下は22メートル、上は11メートル、高さは7メートルの計画をたて、5月7日にはじめてわずか12日間でできあがり、19日には水を引き入れたと伝えられています。

大工事であったと思うが、よくもこんな策を考えだしたものだと思う。 策士 官兵衛 ですな。

これも、高松城が低地にあったが故に可能になった策である。 岡山市の広報 によると、
その実施状況が推測される。 

水攻めの時はこんな風景?

上は大雨で冠水した様子、下は冠水前の状態
昭和60年の大雨で冠水した様子


なるほど、と思ったわけである。 水攻め音頭というのもある。 



調べてみると、ちゃんと載っておりました。 風にふかれて、水攻め音頭

一、時は天正その昔 天下制覇の信長が 中国毛利を討つために 羽柴秀吉将となす

二、破竹の勢なる敵兵の 進路封ぜじ高松城 智勇の誉れいや高き 清水宗治ここにあり

三、攻めあぐみたる秀吉が 謀るは水攻め降る雨に 二十六丁の土堤築き 足守川の水を引く

四、増えゆく水の心なく 寄せくる水面波高し 城兵五千その頬に 降るは涙か五月雨か

五、今や武士(さむらい)道一つ などてこの身を長らえん 主家城兵の安泰と 
       散るや宗治いさぎよき

六、巡る歳月幾年か 松風さわぐ城跡に 武士の鑑と歌われて わが高松の華と咲く

 


清水 宗治 の最期は、つぎのようでした。 

月清入道(げっせいにゅうどう)、軍監末近信賀(のぶよし)、家臣難波伝兵衛、介錯国府市介荒木三河とともに舟に乗り、石井山秀吉陣所前にこぎでて、秀吉からおくられた酒肴を受け、誓願寺をうたい、舞いおさめました。そして、「浮世をば 今こそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して」と辞世(じせい)を詠(えい)じ、46才を一期として見事に自刃しました。そして一同みなそれぞれに、宗治公と死を共にしました。秀吉は、宗治の首を前にして、古今武士の鑑とたたえ、礼をつくして葬りました。城兵もみな泣きました。
 水攻めのにごった水の中の城にこもり、武士としての大義に生き、自分の死をもって、主家には忠をつくし、城兵5,000の命をすくった美しさに思わず涙をこぼさないものはいません。



という訳で、辞世の句 です。
  • 浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して



これは城主 清水宗治の「首塚」。元々は首実検をした黒田陣の近く、山の上にあった
そうなのだが、ここへ移設したとのことである




本丸跡から、少し外れたところに宗治胴塚がある。 


胴塚は、これです。 


公園内の蔵風の建物は、資料館である。入場無料、土足厳禁である。



内部は2階建てになっている。1階にある水攻め立体模型がこれです。


清水宗治公の銅像です。


私は、入りませんでしたが、 宗治記念館があって関連書籍などが収集されている。



清水宗治を詠った漢詩があります。 




高松城懷古  大原桂南


殺身救衆又誰儔,
城郭如今址尚留。
追憶當年弔雄魄,
翠松獨有護林邱。

身を殺し 衆を救ふ  又 誰か(つれだ)つ,
城郭 如今  (あと) ()ほ留まる。
當年を 追憶(つゐおく)し  雄魄を(とむら)ふ,
翠松(すゐしょう) (ひと)り有って  林邱(りんきう)(まも)る。

これ位にして、公園内の景色を楽しみましょう。

 
ハス池です。 ハスの花は咲いていませんでした。茎は折れ、葉はちらほら。
 
 
 
本丸跡横の池のハスは葉だけですが、生き生きとしていました。
 
 
色とりどりの菖蒲の花が咲いていました。
 
 
 
やはり、花を見ると心がなごむ。 

公園内には、このような祠もあった。なにを祀っているかは、わからない。

 
 

また、高田馬治先生壽像 という銅像もあった。

 
 
ついでに調べてみた。  
 
高田馬治
 
1882-1968 大正-昭和時代の教育者, 郷土史家。
明治15年12月25日生まれ。昭和22年母校岡山県立高松農学校の校長となり,獣医師の養成と
畜産の振興につとめる。豊臣秀吉の水攻めで知られる高松城の研究と史跡保存につくした。
昭和43年2月3日死去。85歳。岡山県出身。
 
という事でした。やはり、高松城関係でした。
 
付近に清鏡庵というのがあった。


 
 

高松城水攻め清鏡庵


地図データ地図データ ©2014 Google, ZENRIN
地図データ
地図データ ©2014 Google, ZENRIN
地図データ ©2014 Google, ZENRIN
地図

航空写真



清水宗治にちなんだ「宗治饅頭」や、高松城水攻めをテーマにつくられた「水攻め饅頭」などの名物が並ぶ土産屋。

お土産屋だったんですね。 看板が立派だったので、なにかと思ってしまった。

清鏡庵の御隣には、葡萄園がありました。 マスカットだそうです。

 
これで、高松城跡見学の報告はおしまい。 それでは、ごきげんよう。 
 
 


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